神人青年と鰻丼
満面の笑みを浮かべながら小さいおじさんに話しかける恵比寿青年を見て、七海は天敵を見つけた猫のように全身の毛を逆立てる。
「恵比寿さん、ちょっと持ってください。どこで小さいおじさんの食事を作るつもりですか?」
「どこってもちろん、この家の台所を使わせてもらう」
「そんなこと勝手に、我が家の台所を他人に使わせるなんて……」
「恵比寿ぅ、ワシは腹が減ったぞ。早く夕ご飯が食べたい」
気がつくと小さいおじさんは自転車のかごから出て、恵比寿青年の持つ買い物袋の中をのぞき込んでいる。
七海は慌てて小さいおじさんを捕まえると鞄の中に隠し、恵比寿青年をにらみつけた。
「私が料理できないからって、食べ物で小さいおじさんを釣ろうとするなんて卑怯よ!!」
「大黒天様の姿を取り戻すには、充分な食事を与え、お世話する必要がある。それに君も知っているはずだ、大黒天様は食事に満足するとご利益をもたらしてくださると」
恵比寿青年に正論で返されてしまい、七海はぐうの音も出ない。
「ふたりとも何を揉めている。恵比寿が料理を作っている間、娘は家の掃除をすれば良いではないか」
こうして七海は、しぶしぶ恵比寿青年を家に招くことになった。
***
七海は家に入る前に郵便受けを覗くと、届いた数通の封筒見て思わず顔をしかめた。
「娘よ、こんなに沢山手紙が届くと、返事を書くが大変だ」
「小さいおじさん、これはカードローン会社からのダイレクトメールだから、返事は必要ないの。ああっ、ローンのリボ払い残高がまだこんなに残っている」
七海はそうボヤキながら、届いた郵便物を台所のテーブルの上に放り投げた。
台所に置かれた八人がけのテーブルは、カップ麺やらお菓子の入った買い物袋や未開封の郵便物の束、鍋やフライパンが置きっ放しだ。
テーブルの下にも洗剤やらティッシュの消耗品などの生活雑貨が無造作に置かれ、これではテーブルに座って食事ができない。
恵比寿青年はモノが溢れかえった台所を一瞥すると、調理台の上に買い物袋を置いた。
「恵比寿さん、調味料は右の戸棚にあります」
「僕は食材と調味料と鍋をすべて持参しています」
「久しぶりに恵比寿の料理が食べられるなんて、とても楽しみだ」
恵比寿青年がジャケットを脱いでシャツの袖を折り曲げ、持参した黒いエプロンを着る仕草は、まるでモデルのようにカッコいい。
思わずその姿にみとれた七海は、ハッと正気に返る。
金持ちでイケメンで料理ができても、彼は七海の敵だ。
「夕御飯ができるまで、小さいおじさんは私と一緒に玄関の掃除をしよう」
「ええっ、ワシは恵比寿が料理を作るところを見たい」
しかし七海は小さいおじさんを問答無用で鷲つかむと、ポケットの中に押し込んだ。
台所を出ると、廊下の向こうに玄関を埋め尽くす古雑誌の山が見える。
これを大至急片付けなくてはいけない。
「自転車の買い物かごに古雑誌一束と、後ろの荷台に二束。一度に運べるのは三束が限界ね」
古紙回収している街のリサイクルセンターまでは、自転車で十五分、往復三十分かかる。
古雑誌の山を全部片付けるのに、リサイクルセンターまで何往復すればいいのだろう?
いっそ古雑誌を庭で焼却処分してしまおうかと考えた七海は、あることを思いつく。
「そういえば、せっかく男手があるんだから、少し手伝ってもらおう」
「娘よ、ワシは箸より重たいモノは持てないぞ?」
「ふふっ、小さいおじさんの代わりに、彼に手伝ってもらう」
七海は急にご機嫌になると、玄関のドアを全開にすして古雑誌の束を家の外に運び始めた。
しばらく作業に没頭していると、ポケットから頭を出した小さいおじさんの鼻がひくひくと動く。
「娘よ、なんだか食欲のそそる、とても美味しそうな匂いがするぞ」
「この甘辛醤油が焦げたような、空きっ腹を刺激する香ばしいかおりは!!」
小さいおじさんは、七海のポケットから飛び出して家の中へ駆け込む。
その後から家に入った七海は、恵比寿青年が仏間のちゃぶ台に朱色の漆塗りどんぶりを運んでいるのを見た。
炭火と甘辛ダレの香ばしいかおりが漂い、厚みのあるふっくらとしたウナギがどんぶりから溢れんばかり盛られている。
パラリとふられた山椒の香りが、さらに食欲をそそる。
「お待たせしました大黒天様。今日仕事の会食が鰻重だったので、大黒天様の分を持ち帰りました」
「素晴らしいぞ、恵比寿。アメリカでは食べたくて夢にまで見た鰻丼だ」
「ずるいよ恵比寿さん。お店で買ったウナギのかば焼きを温め直しただけじゃない」
「素人がウナギを捌くなんて無理です。それとも天願さんはウナギを捌けるのですか?」
こっとりした鰻丼に、副菜は緑が色鮮やかなほうれん草のおひたし。
お吸い物には三つ葉が浮かんでいる。
食事はもちろん小さいおじさん一人分しかない。
恵比寿青年は、いそいそと楽しそうに小さいおじさんの食事の準備をする。
「はむはむ、旨いのぉ、旨いのぉ。表面にこんがりと焼き色がついて、中はふっくら柔らかでジューシー、味に深みのある甘辛いタレと山椒の風味が香ばしい」
「大黒天様、そんなに慌てなくても大丈夫です。ゆっくりお食べください」
美味しそうに鰻丼を食べる小さいおじさんにつきっきりで、お茶を入れている。
台所をのぞいた七海は、フライパンに残ったウナギのタレを白米にかけて食べようと思いつく。
一応うなぎのタレを使っていいか恵比寿青年に聞こうとして、彼が壁の時計をちらちら見るのに気づいた。
恵比寿青年が握りしめるスマホから、しきりに呼び出しのバイブ音が聞こえる。
小さいおじさんの食事の様子を眺めていた恵比寿青年は、とうとうスマホをタップしてメッセージを確認すると、とても名残惜しそうに立ち上がった。
「申し訳ありません大黒天様。僕は取引先との打ち合わせがあるので、今日はこれで失礼します」
「恵比寿は日本に帰ってきても、相変わらず忙しいな」
箸をとめる小さいおじさんに恵比寿青年は一礼すると、七海の方を見た。
「それから天願さん、漆のどんぶりはレンジで使えないので、温め直すときは別の皿に移してください」
「えっと、温め直すって、私が残りの鰻丼食べていいの?」
「僕はこれから、仕事の接待があるので、食事はそこで済ませます」
もしかしてこれからは、恵比寿青年が作った小さいおじさんの食事の残りを、七海が食べることになる。
つまり食費が浮く、ラッキーかも。
そんな都合の良い考えをしながら、七海は車に戻る恵比寿青年の後ろを追いかけて外に出た。
家の塀沿いに止めた銀色の高級ハイブリット車の前で、恵比寿青年は困惑気味に立ち止まっている。
「僕の車の前に、古雑誌の束を置いたのは君かな?」