誰もが見惚れし者達は
目を開けると、純白の天井が広がっていた。
訳のわからなくなった彼は重い頭を動かし、視線を彷徨わせる。左右を見れば、天井と同じく純白のカーテンが風に揺れていて、春らしい空気をふわりと鼻腔へ運んできた。
そこに薬品の香りが混じったのを認識した彼は、保健室か、と納得する。
しかし、何故自分が保健室にいるのか……考えようとする頭はひどく重く、思考が鈍くなるにつれ胸中に苛立ちが募るのが彼自身にもよくわかり、胸やけのような感覚に襲われ顔をしかめた。
暫くして酸素を取り込みようやく軽くなり始めた頭でもう一度、考える。
始業式の途中、綺麗事を連ねた理事長の言葉に苛立っていたうちに意識を手放したのか……
そこまで思い出し、保健室に来るまでの空白になにがあった、と疑問が生じ少し考えると認めたくない事実が頭をよぎり、彼は頭を抱え込み項垂れた。
担任のクソジジイと、転校生が運んだ……思考の端を掠めた記憶をどうにか認めるが、腑に落ちない。女は嫌いなのだ。見てくれだけに振り回され内面など見ない人以下の奴らが……忌々しい。騒ぐだけ騒げばいい。俺は絶対に誰も認めない、心の中でそう呟く。そう、絶対に何があっても認めたりしないのだ。
一瞬、奴らとは違うように思ったけれど、女であることに変わりはないと転校生__真無美を見た彼は心に決めたのだ。誰も、何も、変わりはしないのだと。
ただ、少し、興味を持っただけだった。偶々、耳を通った声が、ひどく懐かしい言葉を紡いでいたから……。懐かしいとは思うけれど、思い出したくもない名を奏でたから。
黒板を見た彼は安心したのだ。それだけ、だ。
「起きたか、柴咲」
ふと聞こえてきた野太い声に嫌悪感を覚えた彼__涼やかな目元に高い鼻梁、小さく形良い唇を鋭利な刃物を思わせる美しい輪郭に並べ、それを不快に歪めた美少年、柴咲歩夢は自らより格上であるはずの教師を美しい顔で睨めつけた。しかし、気づかれないようにうまくやるのだ。教師を敵に回すわけにはいかないと、わかっているのだから。
「はい……迷惑をかけて、すみませんでした。」
喉をついたのは自分でも吐き気がするような声だった。驚いた歩夢は一瞬、ピクリと肩を揺らし、息を吐いた。
「俺はいいんだがな、転校生の神司が、放課後まで看てたんだぞ。いいって言ったんだが、脳貧血でもないのに気を失うなんて、心配だからとか言ってずっとな。明日、会ったら礼を言うんだぞ。それじゃ、帰れ。鞄は神司が持ってきたの、あるはずだから」
一方的にまくし立て、消えていった担任の背に舌打ちをした歩夢は、ベッドの脇の小さなテーブルに鞄が置いてあるのを視界に収め、盛大な溜息を溢した。
途中、女の声が聞こえたと思ったのは、夢じゃなかったのか。あの女の声だったのか。否、違うかもしれない。大体にして、あの転校生の声を聞いたのは今朝がはじめてなのだから、瞬時にわかるはずがない。だとしたら、誰なんだ。声の主が誰にしろ、女の声を聞いて落ち着くと思った自分が認められず、癇癪を起こした彼はベッドから跳び起き、乱れた髪と服を直しながら普通科玄関のある一般棟まで足速に歩いた。
頭の中を駆け巡る思考と感情がごちゃ混ぜになる。
心配なんて……物心ついた頃からされたことがなかったのだ。女が自分を見るのは外見だけ。何年も前に気付いた。
転校して来た女が早くも既にいる女に呑まれ、乱されるわけが無い。それがあり得るのであれば、好機の眼差しで自分を見つめ、ただ騒ぐ筈なのだ。
女は、心配なんて、しない。ただ、ただ、上辺だけの甘ったるい言葉を連ね、喜んでいる阿保だと……わかっている。
だからこそ、転校生にして隣人____真無美の行動、発言が気にかかるのだ。
気に食わない。
己の思考さえもを否定し、捩じ伏せた歩夢は、通りすがる人皆が振り返る、作りものじみた顔を疑問と不快感に歪めながら帰路を辿り始めた。
振り返った女は、何人いたものか。
否、同性でさえも振り返ったかもしれない。
難しく考え込む彼は、知りもしない。元より、興味などないのだから。
*
「迷った……」
美しい少女が一人、大通りで立ち尽くしている。
適当に学園までの道を辿り、デパートでも探そうとしていた真無美は暫くぐるぐると歩き回った後に途方に暮れた。
はじめ、郷から降りた時に見たような気はするのだけれど……と歩道の真ん中で自分の考えに一喜一憂しながら真無美は記憶を蘇らせる。
力を使えば一瞬でわかる。そう思ったが、使うわけにはいかない。彼女自身にも力がどれほどの物かわからないのだ。
幼少からやってみろと言われたことをやってみれば、出来た。念じれば、大概のことが叶い、それが当たり前だった。
今、心の奥でデパートの場所は、と念じれば頭の中に小さな閃きのような感覚が生まれ、場所が見える。そこがどこなのか、わからないとしても、本能である力が彼女をその場所へ誘うとはわかっている。
しかし、やってみろと言われたことは出来た真無美には今までできなかった事がない。
だからこそ、力は底なしでなんでもできてしまうように思えた。
怖かったのだ。自分が人ではないような気がして。
力がどれだけのものか、知りたくもない。きっと、本当に何でも出来てしまう。
両親が死んだ、五才のとき。二人を死へ追い込んだ郷の者が大嫌いになったことがある。
そのとき、ふと願ったのだ。みんな、郷のみんな、死ねばいいのにと。
パパとママが死んでどうして他のみんなは平気な顔をして笑っているのかと。
幼い子供の小さな、単純な思考に生まれた願いだったが郷は火事になり、かつてあった集落は焼け去り、今の日本家屋になった。実際に死んだ者もいる。今の当主よりも格が上で、父の跡を継ぐはずだった、両親を死へ追い込んだ指導者が……その他の血の薄い者達も、死んだのだ。
それは、彼女の中の忌々しい記憶。
あたり前にやってきたことを恐怖する彼女の、小さな疑問だった。
無意識に左肩を抑える。
艶やかな龍が踊り、桜が乱舞する様子が眼に浮かんだ。
きっとこの桜は、神司の一族に咲く最期の華だろう。そう思う。
神司にはもう、純血の若者が真無美と雪人しかいないのだ。年齢が離れているからか、純血を遺そうという意思は無くなったようだった。
だから、真無美が最期の純血であり、そして……歴代最高の当主になる。らしい。
考え込み、うつむいていた真無美の前に、巨大な建物が見えてきた。
突然視界に入った眩い光に瞳を伏せた真無美は顔をあげ、喜びながらも複雑な気持ちになった。
彼女は溜息を吐き、どうやら本能には抗えないらしい。と取り敢えずは納得し、苦笑した。
まだ、始まったばかりなのだから、ゆっくりと普通のように生活すればいい。
人前ではしっかりしているように見える少女は、実際はのんびりした気分屋のようで。
真無美は誰もが見惚れる笑みを浮かべ、おおよそ十年振りとなるデパートへと吸い込まれていった。