はじまりの朝
春の朝は眠い。
十回に渡りスヌーズを繰り返していた携帯のアラームに決着をつけ、もそもそとベッドから抜け出した彼女__神司真無美は、今更ながらに当たり前のことを考えた。
暖かな空気が眠気の波を大きくするが、根気でそれを捩じ伏せキッチンへ向かう。
先日、郷の長である隆大とその付き人であり真無美を育ててくれた雪人に郷を離れることを宣言した彼女は、一人暮らしを始めたばかりだ。
故に自炊も初めてなので、料理と言えるものを作れるわけでもなく、食パンをトースターに入れるだけで朝食の準備を終える。
今までは、計八十名程と言う神司一族全員で広大な日本家屋を形どる監獄に暮らしていた為料理は歳上の女性がやってくれていたのだが、いざ離れてみるとその大変さがわかる。
しかし、そんなことは言ってられない。
自分の意思で郷を出たのだから……
焼けたトーストをテーブルに置き、洗面所へと足を向ける。服を全て脱ぎ、下着までもを脱ぎ捨て洗濯機へ入れると、鏡を見つめる。
彫りの深い顔に、長い黒髪。目立つ胸と引き締まったウエスト。メリハリがあり、年齢に似つかわしくない体。そして……忌々しい神司の縛り。真珠を抱えた龍が二匹、彼女の左肩を舞っていた……それを祝福するかのように散る桜も。
その全てが嫌いだった。
たまに郷から降りて巫女として手伝いをする神社や、街の人がいくら自分の容姿を褒めようとも。
それの容姿は、神司の呪縛でしかない。
かつて神司一族は、真の神として崇められていたという。その能力の一つ……能力と言うまででもないのだが、神が人々の下卑た心を見抜き、本心を汲み取るために使っていたとされるのが、神司一族特有の浮世離れした美しさの由縁。そして、知らず知らずに纏うという他人を誘惑し、惑わせる雰囲気というのもそのひとつ……
肩を舞う龍はその呪縛の証……彼女が神司一族であるということの、決して消えない印。桜は……彼女がその中でも純血であるということの証……
暫く鏡を見つめると、目眩がしてきた。鏡は嫌いだ。自分の汚い心を全て見なければいけない気がするから……
「……よし!っと」
気を取り直し、髪を纏め顔を洗う。
今日__四月七日は、私立桜庭学園高校の始業式だ。初めて一般高校へ通う日。
神司の呪縛から離れ、普通の少女らしく暮らしたいという願いを叶えるための一歩だ。
続けて、一度髪を解き下着を身につけ真新しい制服を着る。紺色に二本、白でラインが入ったセーラー服に同じく二本ラインが入ったスカート。リボンは赤だった。
郷では基本着物や巫女仕事用の袴を着ていた為、慣れなかったが気に入っているデザインではあったので、気合いを入れて髪を整えることにした。
鏡に向かい、長い髪を両サイドから少しずつ編み込み後ろで和服に合わせて使っていたバレッタで留める。
なかなか上手くできた、と機嫌よく部屋に戻り先程のトーストを頬張る。
そしてまた洗面所へ行き歯を磨き、玄関へ向かう。
「パパ、ママ、行ってきます」
十年前に他界した両親との写真へ呟き、自分だけの我が家を後にした。
初めての自由な生活が、楽しみだった。
私立桜庭学園高校は、地域では名門で通る学校である。縛りの強すぎない適度な校則に、自由な校風。そして、普通科、特別進学科に加えスポーツ科、芸術科、音楽科、外国語科を置く豊富な専門分野の学習。
何より、広大な敷地を誇りのびのびと学べる校舎を売りにしている。
そして、真無美もそれらに惹かれ編入を決意したのだった。
校舎は中心に普通科と、特別進学科を置く一般棟。その東に専門分野の学習をする、スポーツ科、芸術科、音楽科、外国語科を置く専門棟。西に職員室や図書室を置く生活棟がある。更に、体育館を二つ置き、各種スポーツ用の競技スペース、吹奏楽部などのホールを完備していた。
「なんなの……これ……」
編入生という理由で生活棟にある職員玄関から入り、一般棟へ移動し、担任になるだろう教師と、目立たないよう気配を薄くし、階段を登っていた真無美は絶句した。
「キャー!柴咲くん!二年生になってもステキ!」
「あぁん!麗弥サマ!こっち向いて〜!」
「柴咲くん!一緒のクラスよ!」
女生徒達の大群が、黄色い声をあげていた。
そして、その中心を長身のひどく美しい男子生徒が鬱陶しそうに、仏頂面で歩いている。
それだけでも五月蝿くて大変なのだが、真無美は生まれながらの力のせいで流れてくる感情を読んでしまう、故に感情の渦が押し寄せ益々大変だった。
これでは駄目だと。
力を使わずに、普通に暮らしたくて郷を離れてきたのに意味が無いと。
自分に言い聞かせ、力を封じ込める。
神経を研ぎ澄ませれば、不可能ではないのだが、気配を薄くしながら行うのは大変だった。
暫くの間、女生徒の大群と、一人の男子生徒が歩いている後ろを着いていた真無美は、ふとした瞬間の彼の表情と気を緩めた時に流れ込んでくる意思を感じ、不安になる。
普通、あれだけの女子に囲まれていたなら舞い上がるのではないか。
それなのに……なぜこの人は、“こんな気持ち”なのだろう。
ほんの少し前に、出逢った……否、見かけただけの相手の気持ちを考えると……不安が押し寄せてくる。
今まで、一族の者に言われるがままに力を鍛え、人の感情を自由に読むことが出来ていたのに、力を制御しているからか……
だとしたら、普通の人たちはこんなにも不安な世界で暮らしているのか……
自分が、一体何を不安に思っているのかすらもわからなくなってきた。
二年B組と書かれた札の下がる教室の前に着くと、教師に促され教室の前で待機する。
どうやら、生徒は先程の集団で最後らしく廊下は静まり返っていた。
しかし__
「編入生がいる」
と伝えた教師の声に、廊下とは対照的に教室は騒めいていた。
「えー!マジ?!オレ、可愛い娘がいいー!」
「俺もー!」
と、叫ぶ男子生徒の声も聞こえる。
「神司、いいぞ」
教師に、そう言われ真無美ははじめて気配を薄くしていた戒めを解いた。
教室のドアを教師が開け、中心の教卓へ歩く。
教室は、廊下と同じく静まり返っていた。
教師に渡されたチョークを握りしめ、黒板に「神司真無美」と書き、同じ言葉を教室全体に向けて放つ。
「神司、真無美です。よろしくお願いします」
名を言った瞬間に、教室は騒めいていた。
「うぉ!めっちゃ美人!スタイルも最高!」
「うひょー俺、惚れたかも」
不躾な視線と言葉が、向けられる。
わかりきっていた。
誰も、私自身は観ないと。
私に価値なんか無くて、あるのは神司の血が受け継ぐ雰囲気と容姿だけだと。
それでも、堪えて、堪えて……普通の女の子のように、恋愛したり、お洒落してみたい。ママの分も……そのために、我慢する。
「よし、皆んな仲良くしろよ。神司の席は……し……だから、柴咲の隣であってるよな。そこの空いてる席。座って」
どうやらこの教師は頭が弱いらしい、と真無美は思った。
あからさまに空いている席があるというのに、何を言っているのだろう、と。
聞いたことのある名だと、気掛かりに思いながら歩き、指された席に座ると、隣には先程の集団の中心にいた男子生徒が座っていた……
しかし、違う。先程の少年とこの人の……持つ気持ちは、違う。
気が緩んでいた為に流れ込んできた感情の意味を知り、真無美はひどく狼狽した。
目の前にいる少年は、悲しんでいたのだ。
先程の少年も悲しんでいたことに変わりはなかったのだがこの人は……
諦めたかのような悲しみをしていた。
すがるもののない、諦めの感情。
どこか自分と重なるような気がした……
よく見てみると、顔も少し違った。
目元の涼やかさは同じなのだが、こちらの少年のほうが堀が深く整っている、と彼女は呑気に考える。
気がつけば、目前の少年に不思議そうな顔で凝視されていた。
この場合、挨拶したほうがいいのか。
しないほうがいいのか。
迷うものだが……教科書を注文してない今、借りることがあるかもしれないという理由と、今の見つめあっているかのような状況で何も言わないままでは流石に、人としての態度が疑われると思い挨拶しておくことにした。
「あの……さっき、自己紹介、前でしたけど、あたし……神司真無美です……」
人と話すのは慣れない。
特に男の人は。
雪人以外の若い男の人と話したことがあったか……考えてみれば、無いかもしれない。
無視される……と腹をくくり前へ向き直る。
しかし
「俺、柴咲歩夢」
返された言葉が予想以上に嬉しく、かといって返す言葉も無く……渾身の微笑で返していた。
「なんなの……あれ?歩夢サマは、玲奈さんが……」
「少し綺麗でスタイルも良いからって……編入生がふざけるんじゃないわよ」
「玲奈さん、気にすることないですよ。歩夢サマは隣だから話しただけで……」
「許せない……歩夢サマは、私が話しかけてもこたえなかったわ」
その斜め後ろでは、妬み、嫉み、羨望に顔を歪めた蜘蛛のような女生徒達が、新たな蝶を見つめ、残酷なる糸を張り巡らせようとしていた。