逆行ディスタンス
その独特の薄紅が、やたらと濃ゆく眼に焼きつく。
脳をゆらゆらと揺さぶるような、微かに甘い香りが、喉をつたって入り込んでくる。
ふらふらと落ちてきた、小さな蝶のような花びらは、鼻の頭によりかかり羽を休めた。
少し遅めの開花をみせた地元の桜並木は今、まさに本領を揮しているのだ。
風に抗おうともせず一枚、また一枚ともぎ取られるように地に伏せる春の雪は、微かな切なさをも生む。
淡く力ないピンク色のシャワーをくぐりぬけ、深い息をひとつ、吐いた。
毎年同じような景色を魅せるはずの並木は、去年とは明らかに異なって見えた。
色すら違って見えるのは、その無数の花びらから受け取れる意味の違いからだろう。
開花が遅れた分暖かくなったはずなのだが、どこか冷えた、隙間に吹き込んでくるような風が肌寒い。
華やかな景観には釣り合わない重く湿った息を、もう一度大きく吐き出した。
**
「ちょっとちょっと、大丈夫? 」
ふと、背後から掛けられた声に振り向くと、
「ため息なんかついちゃってさ、何かあったの? 」
柔らかな明るさを感じ、わずかに両目を細めた。
軽い調子の言葉と快活な印象を受ける笑い声、そしてそれと不釣合いな程に優しい微笑み。
「良くわかんないけど、元気出しなって」
顔を覗きこむようにしながら、優しく包みこむように、清らかに笑顔を浮かべてみせるその少女に。
先よりもより眩しさを感じ、思わず一瞬眼を閉じてしまう。
そうだ、これだ。
この屈託の無い、太陽のような表情に。
俺はずっと、無意識のうちに惹かれていたのだ。
彼女は、いつも笑顔を絶やさない。
怒りに任せて声を荒げる所なんて、見たことがない。
涙で頬を濡らし、肩を震わせる顔など、誰にも見せたことが無いだろうかと思うほどに、彼女は光の方向ばかりに表情を豊かにさせる。
負の感情を全て心の底に押し込み、溜め込んでしまっているのではと心配された事も少なからずはあっただろうが。
純粋な喜びしか感じられないその笑顔のあまりの眩しさに、杞憂だったと考えを改める他は無いほどに、
――彼女は本当に嬉しそうに、いつも笑うのだ。
いつからか、そんな彼女を心のどこかで想うようになっていた。
もっとも、それに気づくまでにはかなりの時間を要したのだが。
出会い、なんてものははっきりとは存在しなかった。
ただ僕が、一方的にその表情に惹かれていっただけの話だ。
現に中学時代、彼女は僕の顔を覚えてはいなかっただろう。
誰からも好かれていた彼女と、その笑顔を静かに眺め続けてきた自分。
例え想いが実を結ぶ事は無いと分かっていても、決してそんな日々を嫌ってはいなかった。
見ていられれば。
想いを告げたりせずとも、無難で平和な、今の現実を保てるだけで。
幸せだったから。
そんな曖昧な 想いは、もう4年程になるだろうか。
「じゃあそゆことで、また放課後にね」
明るく微笑みながらタタタ、と軽い足音を立てて駆け去る背中を、どこか遠目に見守る。
今しがた交わした会話を要約すると、一緒に帰ろうよ、と言う事の筈だ。
何とも珍しい誘いではあるのだが、ここ最近の接触の機会の多さから考えると、然程おかしな事では無いとも言える。
高校に入学し、割り振られたクラスの名簿の中に想い人の名前を見つけたのは、1年以上前のことだった。
最も、それまで余りに巡り合いが無かったことを省みれば、寧ろ遅すぎたとも言えるのだが。
時を重ねても、彼女のその眩しい表情に、翳りは見当たらなかった。
より身近になった光を浴び 、想いは強くなる。
一方で、遠い太陽のような存在だった彼女は今、身近にいる友人としても僕の心を埋めてくれている。
未だに気持ちを告げては、いないけれど。
昼と夜の境界線あたりから差していた日光が、不意に薄く遮られる。
コンクリートの地面に、小さな模様が生まれた。
1つ、2つ、3つ。
徐々にその数は増し、次第に数えるのも面倒な程になる。
雨が降り出したのだ。
傘持ってきてないよ、と珍しく不安げな声を喉に絡る彼女を追い詰めるように、雨はその勢いを増す。
「うわうわ、本気でやばいよこれ」
慌てて鞄を頭に掲げ、思わず駆け足になった目の前の少女を追いかけながら、思いがけずそれを伝えていた。
「――え、いいの? 」
小首を傾げて振り向いた彼女は、降りしきる春の雨の中、やはり眩かった。
今になって、改めて自覚する。
僕は、彼女の事が好きだ。
伝えなくてはならない想いも、偽ることはできない程に。
でも、やはり。
それが世間の常識で言う、"恋"であるかと問われれば、違和感が拭えないのだ。
好き、という感情自体もきっと、人それぞれだ。
相手に何を求めるかも、何を捧げたいのかも、その人に依りどんな存在でいたいのかも、『違う』し、『変わる』。
僕にとって彼女がどのような存在で、またどんな関係を望んでいるのか。
それが、どうしてもはっきりと分からない。
代わりにふと脳を過ぎるのは、こんな気持ちで。
――彼女は、僕のことを、どう思っているのだろうか。
何かを求めたり、何かを望んだり。
こんなふうに考えたり、するんだろうか。
熱された空気を吐き出し続けるお湯を、急須に注ぐ。
「雨、止まないねー。梅雨はまだまだ先なのに、全くせっかちだ」
テーブルの前に座り、窓を眺めながら呟いた少女はふと、向こうの方の薄暗い雲を指差した。
「あ。あっちの方、雲薄くなってない? もうすぐ止むかも」
明るい調子ながら独り言のように話しかける彼女の前に、湯飲みをコトン、と置く。
あーお構いなく〜、なんておどけた調子で言いながら。
天気の事でも心配していたのだろうか、少しだけ憂うようだったその表情に、いつも通りの光が差した。
薄暗く湿り気の強くなった自室に、僕と、僅かな湯気を纏った少女は二人きりだ。
そんな状況に対する僕の感情が、その"恋"の不自然さをいっそう露にする。
ふと片目を眇め、何でか少し、自分が嫌になる。
そして、考えるのを止めた。
再び無意識に彼女の方を見て、目が合って、なぜか慌てて目をそらせてしまって。
その脇に置かれた、濡れて光沢をより強くした鞄が目に入り 、ふと気づく。
――あれ、傘、持ってたのか。
この風雨で、早咲きの桜は大分もっていかれてしまっただろう。
太陽が半ばその身を沈めようとする頃になって、ようやく雲の隙間から日が差した。
*
幾月かが過ぎ、薄紅色の桜にかわって葉に朱が交じり始めたころ。
どこか思いつめたような表情の彼女に、放課後、と時間の指定付で呼び出された。
一緒に帰ろう、ではなく。
屋上に来て。
それだけ告げると、やはりいつものように明るく微笑みながら、彼女はタタタッ、と駆けていく。
あのときの傘の意味は、やはり。
今日は風が強い。
中学の頃から、ずっと見ていました。
でも貴方は私のことを知らないだろうからって、気持ちを告げられなかった。
だけど高校に入ってから、いろんな一面を知って、より想いは強くなって。
そして今ようやく、初めて貴方の前に向かい合って立つことができた。
付き合ってほしいとか、我儘なことは言いません。
気持ちを伝えられただけで、大丈夫になったから。
でも出来ることなら、返事をしてほしい。
貴方の想いを、聞かせてほしい。
目の前の少女は、懸命に言葉を紡ぐ。
口で、喉で、肺で、溜めこんだ思いをはき出す。
その表情には珍しく、――本当に見たことが無いほど、強く溢れるばかりの感情を湛えて。
それでいながら僕は、その表情を読み取ることが出来なかった。
結局、同じではなかったのだ。
想いを告げられなかったのではない。
告げたくなかった。
"今"が変わってしまうのが怖くて。
"今"を変えてしまうのを怖れて。
彼女の笑顔『だけ』に拠りかかっていた僕には。
彼女の全てを受け止めるだけの器は無かったから。
言葉には出来ない。
独りで、心のうちだけを震わせて。
僕も、貴女が好きでした。
今も続いています。
多分これからも、ずっと。
ただ、少しだけ。
ほんの少しだけ、向いている方向が違っただけで。
本当に僅か、想いに懸けた意味が、違っただけで。
交わることは無いのでしょうか。
僕は。
僕の、気持ちは――
風が勢いを増した。
今になって、最後の桜の花びらが散った、と感じた。
怖れていたようで、どこかでそれを待ち望んでいたような。
逆行する距離は、埋められない。
**
今年も、桜並木は薄紅に満ちる。
一週間遅れの花見日和は、春特有の柔らかい日差しと共にやってきた。
傍らに立つ者はない。
僕はひとりで、いつものように短い花を愛でるのだ。
今年の桜は、どれだけの人の想いを抱えて咲き誇っているのだろうか。
風が急に強くなった。
瞬間、弾かれたように顔を上げる。
濃度を増した、花吹雪の中。
不意に"彼女"が通り過ぎた気がして。
無数の花弁をくぐり抜けるように、こちらを向く。
その表情は、
(END)
以前上げてた物を、再UPしました。