婚約破棄より採取が先です。元婚約者の頭に、絶滅したはずの花が咲いています
「僕はメリルを心から愛している。君との婚約は破棄する!」
婚約者の頭から、花が咲いた。
金色の花びらが、ぱん、と開く。
中央には真珠のような白い粒が三つ。
間違いない。
私は母の形見の植物図鑑で、何度もその絵を見ていた。
「動かないでください」
「……何?」
「お願いですから、そのまま。できれば、もう少しこちらへ顔を」
「聞いているのか、コレット。婚約を破棄すると言ったんだぞ!」
「そちらは聞こえました。花が揺れますので、大きな声はお控えください」
侯爵令息セドリック様が、ぽかんと口を開けた。
その隣で腕を組んでいた子爵令嬢メリル様も、彼の頭を見上げている。
周囲の招待客は、誰一人として喋らなかった。
春の花を楽しむために集まった人々が、いま、とんでもないところで開花を目撃していた。
「金冠百合……」
私は呟いた。
最後に野生の株が見つかってから、百年以上経っている。
温室での栽培にも成功せず、絶滅したと考えられていた花だ。
それが、元婚約者になりたての男性の頭に咲いている。
「なぜ、そこなの……」
泣きそうだった。
よりによって、そんな土壌を選ばなくても。
「コレット嬢。いったん、鋏をしまおうか」
横から、私の手首がそっと押さえられた。
アーヴィン・ローヴェル公爵。
本日の園遊会の主催者で、私がいま立っている温室の持ち主である。
濃紺の上着を着た彼は、私の手と、セドリック様の頭を交互に眺めた。
「なぜ園遊会へ剪定鋏を持ってきたのかは、あとで聞く」
「挿し木を分けていただくお約束でしたので」
「ああ、そうだった。それでも、人から採るなら、まず本人の許可が要る」
「失礼いたしました」
私はセドリック様へ向き直った。
「婚約破棄はお受けしますので、お花をいただけませんか」
「何を言っているんだ、君は!」
叫んだ拍子に、金冠百合が大きく揺れた。
ああ、花粉が。
ハンカチで受け止めるべきか迷っていると、アーヴィン様が私の鋏を預かった。
「少し落ち着こう。珍しい花なのは分かった」
「ご存じなのですか?」
「君が以前、図鑑を見せてくれただろう」
覚えていてくれた。
そう思った瞬間だけ、私は花を見るのをやめた。
そもそもの始まりは、今朝に遡る。
自宅の庭で水桶を覗いたら、小さな妖精が溺れていた。
私は木の葉ですくい上げ、温室の日だまりへ運んだ。
羽が乾くまで待っていると、妖精は私の髪へ飛び移り、恩返しをすると言った。
『今日、日が沈むまで、あなたの前で恋の嘘をついた人には、頭に花が咲くようにしてあげる』
「どうして、そのようなお礼なのですか」
『あなた、植物には詳しいのに、男を見る目がないもの』
初対面なのに手厳しかった。
ただし、妖精の返事にも心当たりはあった。
私の婚約者は、私が育てた花を、別の女性へ贈ったことがある。
育てた覚えのある薔薇をメリル様が胸につけていたので尋ねたら、セドリック様は言った。
君にはいくらでもあるだろう、と。
あれは初めて咲いた一輪だった。
私へは一年間、誕生日の花さえ贈ってくれなかったのに。
妖精は温室の花を一つずつ覗き、それから私の頬を撫でた。
『咲いた花は普通に育てられるわ。せっかくだから、好きなものを出してあげる』
「では、金冠百合を」
『男のほうを心配なさいよ』
そう言い残して、妖精は飛んでいった。
私は半信半疑だった。
午後、ローヴェル公爵邸へ来て、セドリック様に婚約破棄を言い渡されるまでは。
「恋の嘘で花が咲く?」
事情を聞いたセドリック様は、自分の頭へ手をやった。
指先が花に触れた途端、顔色が変わる。
「悪趣味な魔法を使って、僕を笑い者にするつもりか!」
「私がかけたものではありません」
「大体、僕は嘘などついていない!」
金冠百合の隣に、もう一輪。
私は息を呑んだ。
今度は花びらが二重だ。
そんな品種、図鑑にも載っていなかった。
「コレット嬢」
「分かっています。許可をいただくまでは採りません」
「踏み台を探すのも、まだ早い」
私は目をつけていた椅子から手を離した。
メリル様がセドリック様の腕へしがみつく。
「妖精なんて、信じられませんわ。わたくしたちは、本当に愛し合っておりますもの」
彼女の髪に、ふわりと白い花が開いた。
冬の山奥でしか咲かない、雪絹花だ。
私は両手で口を押さえた。
笑ったと思われたら困る。
喜んでいると思われても困る。
実際には、ものすごく喜んでいた。
「メリル、君まで?」
「あなたの頭は、わたくしの三倍くらい華やかですけれど!」
セドリック様が鏡を要求した。
給仕が差し出した銀の盆に、花盛りの自分が映る。
彼はしばらく黙ったあと、こちらを睨んだ。
「……仮にだ。愛という言葉が、少々大げさだったとしても」
「はい」
「僕は、彼女と結婚したい」
今度は何も咲かなかった。
メリル様が彼の顔と花を見比べる。
「わたくしも、セドリック様との結婚を望んでいますわ」
そちらも咲かない。
二人は、ほっとしたように顔を見合わせた。
私は、アーヴィン様が預かっている鋏を見た。
「よかったです。それでは、そろそろいただいても?」
「君は、自分の婚約がなくなったんだぞ!」
「ですから、お受けすると申し上げました」
「泣くなり、怒るなり、何かあるだろう!」
私は、彼の顔を見た。
花ではなく、顔を。
セドリック様は、ようやく私が自分を見たと思ったのか、少し胸を張った。
「君も、僕のことを愛していたなら――」
「泣きましたよ」
彼が口を閉じた。
「私が初めて咲かせた薔薇を、勝手に切って持っていかれた日。返してほしいと言ったら、花くらいで騒ぐなと叱られたでしょう」
「そんな昔の」
「三か月前です」
メリル様が、胸の飾りに触れた。
今日は造花だった。
「……あれ、あなたがお育てになったものだったの?」
「はい」
「お店で、わたくしのために選んだと」
セドリック様の唇が動いた。
頭の上の花を思い出したらしく、何も言わなかった。
私は続けた。
「花を取られたことも悲しかったです。でも、一緒に悲しんでほしかった方に笑われたのが、一番つらかった」
温室の奥で、噴水が小さく跳ねていた。
「今日は泣きません。もう、あなたに分かっていただこうとは思わないので」
口にしてみると、ひどく簡単だった。
あんなに、言いたいことがあったのに。
セドリック様は、私の顔をしばらく見ていた。
それから、花をむしろうと腕を上げた。
「待ってください!」
私とアーヴィン様の声が重なった。
セドリック様が、びくりとする。
「花に罪はございません!」
「君も頭を傷める。そのまま庭師に任せなさい」
アーヴィン様が呼んだ庭師は、不思議なところに生えた花にも動じなかった。
園芸に長く携わると、何かが違ってくるのかもしれない。
本人の了承を得て調べると、根は頭皮ではなく、髪の間に絡まっているだけだった。
濡らしてほぐせば、痛みもなく外せるという。
「採ったものはどうなさいます?」
「捨てろ、そんなもの!」
「いただきます!」
私は即答した。
アーヴィン様は口元を押さえた。
笑うのを我慢している顔だった。
両家の父親が呼ばれ、婚約について話し合うことになった。
セドリック様のお父上は、息子の頭を見て目を閉じた。
私の父は、私が両腕で抱える花を見て目を閉じた。
困り方は少し違うようだった。
公爵家の応接室へ向かう途中、メリル様が私を振り返った。
「コレット様。あの、薔薇のことは……存じませんでした」
「はい」
「この人との結婚は、少し考え直します」
セドリック様が何か言いかけ、メリル様に黙らされた。
どちらが先に頭を下げるかまで見届ける気にはなれず、私は温室に残った。
「お父上から、ここで待つようにと」
戻ってきたアーヴィン様が言った。
「花の世話をしていて構わないそうだ」
「ありがとうございます。雪絹花は暑さに弱いので、急いで涼しいところへ運びたかったのです」
「分かっている。北側に部屋を借りよう」
彼は私の腕から植木鉢を一つ受け取った。
百合の花びらに上着の釦が触れそうになると、鉢を持つ角度を変えてくれた。
そういう人だった。
私が大事にしているものを、本人以上に大事そうに扱う。
アーヴィン様とは、去年、この温室で知り合った。
珍しい青薔薇のお披露目に招かれたのに、私が鉢の隅の小さな草ばかり眺めていたのが、最初だった。
庭師が捨てようとしたので、私が止めた。
夜になると甘い香りを出す、月蜜草の芽だったからだ。
公爵は一緒にしゃがみ込み、こんな小さいのに、と面白がってくれた。
以来、温室に知らない植物が入ると呼んでくださる。
私が花の話を長々としても、一度も話を変えようとしなかった。
もっとも、貴族の挨拶を忘れるほど話し込んで、父に叱られたことはある。
「今日は、その髪飾りをつけてくれたんだね」
彼が私の耳のあたりを指した。
白い小花を模した、真珠の髪飾り。
先月、母上である公爵夫人の茶会でいただいたものだ。
「はい。お母様にも、お礼を申し上げたかったのですが」
「母は今日は領地にいる」
「そうでしたか。この花は形が正確で、とても好きです。花びらの裏まで作ってありますし」
「細工師に、実物を渡したので」
私は彼を見た。
「アーヴィン様が?」
「……母に、頼まれて」
ぽん、と音がした。
彼の黒髪の上に、小さな薄桃色の花が咲いていた。
五枚の花びらが、耳のほうへ垂れている。
私は鉢を置いた。
「アーヴィン様」
「うん」
「いまの、恋の嘘に含まれたようですが」
彼はゆっくり、自分の頭に触れた。
そして初めて、公爵らしい落ち着いた顔が崩れた。
「……いまのは、聞かなかったことにしてほしい」
「私がそうしても、花が聞き流してくれなかったようです」
「実に手厳しいね」
私は背伸びをした。
指先で花びらをそっと持ち上げる。
公爵は息を止めた。
「ベルベットみたい。裏側は、少し銀色なのですね」
「コレット嬢」
「蜜腺もあるでしょうか。少しお顔を下げていただけると」
「君は、いまの話の続きを聞く気はない?」
私は指を止めた。
彼の顔が、思っていたより近くにあった。
「……お聞きしてもよろしいのですか」
「母に頼まれたわけではない。君に贈りたくて、私が作らせた」
「ですが、ほかの皆様にも」
「ほかの方々には、母が選んだ扇を。君の箱だけ、私が母に頼んで入れてもらった」
頭の花は増えなかった。
胸の奥が、妙に落ち着かなくなった。
私は彼から少し離れ、必要もないのに鉢の位置を直した。
「なぜ、そのようなことを」
「君には婚約者がいたから。私から直接では、受け取ってもらえないだろう」
私は髪飾りに触れた。
これをつけると、いつもより自分が綺麗に見えた。
鏡の前で何度も首を傾け、結局、今日も選んだ。
それを選んでくれたのは、この人だった。
「とても、気に入っています」
「うん」
「ですから、返したくありません」
アーヴィン様が笑った。
いつもの余裕のある笑い方ではなく、心底ほっとしたように。
「よかった。細工師のところへ六回通った甲斐があった」
「六回も?」
「君に贈るものだから、花びらの枚数を間違えられない」
変なところで真面目だ。
そう思って笑ったら、彼もつられて笑った。
目を合わせていられなくなったのは、私のほうだった。
温室では、まだ園遊会が続いていた。
離れた部屋にも楽団の音が届く。
アーヴィン様の母の話を聞くつもりだったのに、なぜか彼の頭の花を採ることになった。
私が鉢を抱えると、彼は少し身構えた。
「痛くしないでほしい」
「お花をですか?」
「できれば私も」
私は笑って、彼の髪から根をほぐした。
園遊会で他人の頭をいじるのは、初めてだ。
黒髪は見た目より柔らかかった。
同じところを長く触っていたら、アーヴィン様が私の手を取った。
「もう、外れている」
「……はい」
花を見ていたことにしたかった。
けれど、それを口に出したら、私にも何か咲くかもしれない。
妖精は、私だけを特別扱いするとは言っていなかった。
「今日は、楽しいことばかりだ」
アーヴィン様が呟いた。
私は少しだけ唇を尖らせた。
「私は婚約を破棄されたのですけれど」
「君を傷つけたことは、腹立たしいと思っている」
「はい」
「ただ、あの男と結婚しないと聞いて、ほっとしたのも本当だ」
彼は、私を見た。
「君が私の贈り物を返さないと言ってくれたことは、もっと嬉しかった」
私は返事を探した。
見つからないまま、彼の頭へ顔を向ける。
何も咲いていない。
そのことが、さっき採った珍しい花より気になった。
「お嬢様」
父の従僕が、戸口から声をかけた。
話し合いは終わり、両家の合意で婚約を解消することになったという。
父は私の意思を改めて確かめ、同意した。
帰りの馬車を回すので、支度が済んだら玄関へ来てほしいとのことだった。
「花は箱に入れて運ばせよう。栽培に必要なものも、庭師に聞いておく」
アーヴィン様が立ち上がった。
私は鉢を見た。
金冠百合が二輪。
雪絹花が一輪。
まだ名前も分からない、薄桃色の花が一輪。
今朝までの私なら、頬ずりしたいほど嬉しい収穫だった。
急いで帰り、図鑑を開き、夜を明かしただろう。
なのに、足が動かなかった。
「日が沈みますね」
窓の向こうの空が、杏色になっていた。
「そうだね」
「妖精の魔法も、もうすぐ終わります」
「少々、ほっとする」
私は彼を見上げた。
「これからは、嘘をついても花が咲きません」
「そうだね」
「髪飾りのように、また、お母様に頼まれたことにできます」
アーヴィン様が黙った。
私は、髪飾りの真珠を指先で撫でる。
せっかく、自分で言おうと思ったのに。
やはり、花の話よりずっと難しい。
「私、花を見に来てくださいと招かれたら、また、来ます」
「もちろん。いつでも」
「そうではなくて」
胸が、うるさかった。
窓の外では、日がゆっくり低くなっている。
私は思い切って顔を上げた。
「あなたに会いに来ても、いいですか」
アーヴィン様が息を呑んだ。
それから、私の前へ膝をついた。
公爵が。
さっきまで私に、鋏をしまいなさいと注意していた人が。
「先を越された」
「何のことでしょう」
「君に、花のついでではなく、私に会いに来てほしいと思っていた」
私は両手を握った。
「明日、お父上を訪ねて、正式に求婚する許しをいただこうとしていたんだ。今日、婚約を解消したばかりの君に、急いで返事を求めたくなかったから」
「明日になったら、魔法が」
「だから、今、言う」
彼は私の手を、両手で包んだ。
「君が好きです。コレット。花の話をする君も、私の話を聞こうとして、途中で窓の外の蝶を追ってしまう君も」
「……お気づきでしたか」
「毎回、分かる」
私は少し笑い、少し泣きたくなった。
彼は、私の手を持ったまま続けた。
「悲しいときは、一人で温室へ閉じこもらないでほしい。嬉しいことがあった日は、真っ先に私に教えてほしい。君と、そんなふうに暮らしたい」
その人の頭には、一輪も咲かなかった。
夕日がまだ、黒い髪を照らしている。
今日はずっと、珍しい花が咲くたびに喜んでいた。
なのに今だけは、何も起こらないことが、たまらなく嬉しかった。
「日が沈んでからも、おっしゃってくださいますか」
「何度でも」
「花が咲かなくなっても?」
「君の顔を見れば、受け取ってもらえたか分かると思う」
私は頷いた。
涙を拭こうとしたら、ハンカチが土で汚れていた。
アーヴィン様が自分のものを渡してくれる。
それから、ああ、と小さく笑った。
「やはり、羨ましいな」
「何がですか」
「君の金冠百合を見る顔だ。私の前でも、あれくらい嬉しそうにしてほしい」
「しています」
「もう少し」
私は彼の手を、引き寄せた。
「私だって、どなたからでも花をいただけば、あんなふうになるわけではございません」
ぽん。
耳元で音がした。
私の髪から、薄桃色の花が一輪垂れてきた。
二人で、それを見た。
しばらく、何も言えなかった。
「……セドリック殿からでも、喜んでいたね」
「そこは、忘れてください」
「君は、本当に花が好きなんだな」
「はい。でも」
私は膝をついた彼の肩に手を置いた。
今度は、間違いなく本当のことを言った。
「お花には、こうしてほしいと思いません」
身をかがめて、私から彼の頬に口づけた。
アーヴィン様は、花が百輪咲くよりおかしな顔になった。
その顔を、私はもう少し見ていたかったのだけれど。
次の口づけは頬ではなかったので、目を閉じることになった。
日が沈むと、魔法は消えた。
残った花は普通の植物として育ち、金冠百合は翌年、私の温室で新しい蕾をつけた。
セドリック様が、その花を見たいと申し込んできたことがある。
ついでに私とも話したいと、手紙に書いてあった。
私は季節の開園日だけをお伝えした。
花なら、ほかのお客様と一緒に見ていただけばよい。
私の婚礼には、お呼びしなかった。
メリル様との縁談もなくなったと聞いたが、詳しい話は知らない。
いま忙しいのは、別の人のことである。
「あの魔法が、まだ残っていたらな」
結婚して最初の朝、夫がそう言った。
私は枕から顔を上げた。
「朝から、どうなさったのですか」
「『君を愛していない』と言えば、花を贈れたのに」
「枕が花粉だらけになるので、おやめください」
アーヴィン様は笑った。
それから、小さな花束を枕元へ置いてくれた。
私が育てたものではない。
私のために、この人が選んだ花だ。
「改めて。綺麗だよ、コレット」
私は花束を受け取って、水に挿すための器を探した。
いつもなら、すぐに立ち上がるところだった。
けれど、今日はまだ隣にいたかったので、花は少しだけ枕元に戻した。
「今日は、そちらが先でいいの?」
夫が、嬉しそうに尋ねる。
私はその首に腕を回した。
「あなたが先です」
もう、花は咲かなかった。
魔法が残っていたって、きっと同じだった。
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