はじまり
つくづく、引き出しが少ないんだと思う。
そう思い知らされる瞬間は、たいてい誰かと向かい合っているときだった。
例えば職場の昼休み、結婚した同僚が週末に行ったショッピングモールの話をしている。子供が熱を出したとか、妻がどうとか、家のローンがどうとか。
別の席では、転職を決めた誰かが新しい職場への期待と不安を語っている。昇進した先輩は、どうやら部下の扱いに苦労しているらしい。
話題は、いくらでも転がっていた。
けれどそれを拾い上げる術を、俺は持っていなかった。
独身、ゲイ、新卒で入った会社に十年。しかも役職なしの平社員。
俺が手にするカードは、それだけだった。
別に、これが不幸だとは思っていない。
特段、辛いわけでもない。ただ、何も起こらないだけだ。
まるで波のない水面みたいに、静かで揺らぎなく、そしてどこまでも同じ色をしていた。
これを“つまらない”と呼ぶのかどうかは、正直言ってよくわからない。
ただ誰かの話を聞いているときに、自分の内側に返ってくるものの少なさに、ひどく居心地の悪さを覚えてしまう。
返せるものが、何もない。
「へえ」
「すごいですね」
「いいですね」
口から出る言葉は、いつもその三つを回っているだけだった。
休日は、だいたい家で寝ていた。
あるいは、何もせずに横になっているだけだ。
カーテンの隙間から差し込む光が、時間の経過を教えてくれるだけで、それ以外には何もない。
スマートフォンを眺めることにも飽きて、ただ天井の染みを見つめるだけ。あの染みは、いつからあそこにあるのだろうと考えて、すぐにどうでもよくなってしまう。
一人暮らしはしている、自炊もする。
けれどそれは、生活を維持するための動作でしかない。
料理の味付けにこだわるようなこともなければ、誰かに振る舞う機会もない。鍋に入れた食材が火にかけられて柔らかくなって、そして口に運ばれて胃に落ちる。ただそれだけの工程だ。
恋人も、もう長い間いない。
学生の頃、短く付き合った男が一人いただけだ。
俺の名前を呼ぶときの、少しだけ甘ったるいような響きや、帰り道に繋いだ手の温度は、もうほとんど思い出すことはできなかった。
記憶はいつの間にか薄くなって、ただ、そういうことがあったという事実だけが乾いたまま残っていた。
夜の街に出れば、何かが変わるのかもしれない。
そういう場所があることは、知識として知っていた。けれど俺は、朝型の人間だった。
仕事が終わって家に帰って、風呂に入って、少しだけぼんやりしていると、もう眠気がきてしまう。
ネオンが灯り始める頃には、俺は布団の中にいる。
だから、何も起こらない。
起こそうとしていないのだから、当然だ。
このまま一人で歳を取って、一人で死んでいくのだろうとふとぼんやりと思う。
想像しても、そこに大きな恐怖はなかった。
ただ、ひどく静かな風景が広がっているだけだ。誰もいない部屋で、時計の針の音だけが響いているような終わりかただ。
――それなら、ゲイだなんて名乗る必要もないのかもしれない。
そう思うこともある。
けれど、実家に帰ったとき。親戚に囲まれて、結婚はまだかと笑いながら聞かれるあのとき。
あるいは、同僚に合コンに誘われたとき。そういう場面になると、俺は決まってその言葉に縋りつく。
「俺、男が好きなんで」
それは、免罪符みたいなものだった。
説明にもならない説明で、けれどそれ以上踏み込まれないための、便利な境界線。
そして、いい男に出会ったときも。
俺はゲイなのだと、改めて思い出す。
──あの日も、そうだった。
休日にしては少し早い時間に目が覚めてしまって、仕方なく外に出た。
空気はまだ冷たくて、春になりきれない季節の端にいるようだった。街は静かで、人の流れもまばらで、どこか現実から切り離されたような気配があった。
目的は、なかった。
ただ、家にいるのが少しだけ息苦しかっただけだ。
駅前のカフェに入ってコーヒーを一つ頼んで、窓際の席に座った。
カップから立ち上る湯気をぼんやり眺めながら、何をするでもなく時間を潰す。
こういう時間が、嫌いではなかった。
誰とも話さなくていい。何かを求められることもない。ただ、自分の呼吸だけがここにあって、それで完結していた。
けれど同時に、それが少しだけ寂しいこともわかっていた。
そして、カップに口をつけたときだった。
ふいに、影が落ちる。
視界の端で、何かが動いたと思った次の瞬間、軽い衝撃が肩に触れた。持ち上げていたカップがわずかに揺れて、黒い液体が縁から溢れそうになっていた。
「あ、すみません……」
反射的に口をついて出た言葉は、いつもの調子だった。
「いえ、こちらこそ」
返ってきた声は、思っていたよりも柔らかだった。
顔を上げると、そこにいたのは見慣れない男だった。
年齢は俺と同じくらいか、少し上くらいかもしれない。整った顔立ちというよりは、よく動く表情が印象的で、目元に軽い笑い皺が寄っていた。
「すみません」
謝りながらも、その目はどこか楽しげで、場の空気を軽くすることに慣れているように見えてしまう。
ぶつかった拍子に、互いの身体がまだわずかに触れていた。
その熱が、遅れて意識に上ってきた。
「こぼれてないですか?」
男が覗き込むようにして、俺の手元を見た。
視線がぐんと、近づいた。
「大丈夫です」
そう答えながら、カップをテーブルに戻す。
ほんの少しだけ、手が震えていた。
「よかった。俺、こういうのよくやっちゃって……」
困ったように、男は笑った。
しかしその笑いはどこか軽くて、人懐っこい。
そしてそのまま立ち去るのだと、俺は思った。
普通なら、そうだ。
軽く会釈をして、それで終わり。互いに名前も知らないまま、もう二度と交わることのない線として消えていく。
けれど、男は少しだけその場に留まった。
「お一人ですか?」
不意に、そのようなことを聞かれていた。
予想していなかった問いに、言葉が詰まる。
ただでさえ少ない引き出しを、急に開けろと言われてもうまく開くことができなかった。
「……まあ」
曖昧に頷くと、男はそれを見て少しだけ目を細めた。
「俺もなんですよ。……よかったら、ここに座ってもいいですか?」
指先で、向かいの席を軽く示した。
断る理由は、いくらでもあるはずだった。
知らない人間だし、会話も続かないだろうし、何より面倒だ。いつもの俺なら、適当な理由をつけてやんわりと拒否をしていた。
しかしそのときは、なぜだかほんの少しだけ迷っていた。
そしてその迷いが消える前に、口が動く。
「……どうぞ」
自分でも驚くくらい、素直な返事だった。
「ありがとうございます!」
男は嬉しそうにそう言って、向かいの席に腰を下ろした。
テーブル一枚を挟んで、互いの顔が向かい合う。
「俺、コウスケって言います」
自然な流れで、名前を告げられた。
その仕草はあまりにも軽やかで、まるでこういうやり取りを何度も繰り返してきた人間のそれだった。
「……サトルです」
少し遅れて、自分の名前を返した。
口に出したその言葉が、どこか新鮮であるかのように感じられた。
知らない誰かに名前を教えるだなんて、いつ以来だろうかと。
「サトルさん、休みの日は何してるんですか?」
間を置かずに、次の問いがやってきた。
しかし不思議と、不快ではなかった。
「……特に、何も」
「そうなんですね」
正直に答えると、コウスケは笑っていた。
「俺、逆に何もしない日って苦手で。なんか、落ち着かなくて」
そう言いながら、カウンターの方に視線をやって、追加のコーヒーを注文する。
店員とのやり取りも、どこか滑らかで無駄がなかった。
その一つ一つが、俺にはないものだった。
会話の引き出し、人との距離の詰め方、場の空気の掴み方。
全て、持っているように感じられた。
「でも、こうやって静かに過ごすのもいいですよね」
カップを受け取りながら、そう付け加える。
その言葉が自分に向けられたものだとわかるまでに、少し時間がかかってしまう。
「……そうですね」
ようやく返した言葉は、ひどく薄いものだった。
しかしコウスケは気にした様子もなく、穏やかに笑っていた。
その笑顔を見ていると、胸の奥が少しだけざわついた。
名前を知らない誰かだったはずの男が、俺の目の前に座っていて、会話をしている。
その事実が、現実味を帯びて沈んでいく。
引き出しは、相変わらず少ないままだ。
何を話せばいいのかもわからない。
それでも、なぜだかこの時間がすぐに終わってしまうのが、少しだけ惜しいと思ってしまう自分がいた。




