一つ手に入れると一つ失う
俺は友人の西が好きな子である、なるみと仲良くなるにつれ、友達の好きな子では割り切れなくなる。西との友情をとるかなるみをとるか、悩み、葛藤する。
『四年目の夏、失ったもの』
大学四年の夏、俺には彼女ができた。
代わりに、友人を一人失った。
西とは、隣の研究室だった。
テーマは違うが、実験フロアは同じ。顔を合わせる頻度は自然と増える。
決定的だったのはアパートだ。
俺と西の一人暮らしの部屋は、徒歩一分。
玄関を出て角を曲がれば、もう西の部屋の灯りが見える距離だった。
「カップ麺ある?」
「あるけど代わりにビールくれ。」
そんなやり取りが当たり前で、
実験が長引いた夜はそのままどちらかの部屋でだらだらする。
恋愛の話も、将来の不安も、国家試験の愚痴も、全部その六畳の部屋で消費された。
だからこそ、西の“なる”への想いも、俺は最前列で聞いていた。
⸻
「マジでさ、なる可愛いんだよ。」
西は何度もそう言った。
俺は正直、その時はそこまでピンと来ていなかった。
確かに綺麗だとは思う。でも、グループの中のクールな子、という印象止まりだった。
西のデート計画を聞きながらも、
俺はどこか一歩引いた場所にいた。
そしてデートは、予想通り終わった。
なるは西に対して明確な“脈なし”を示したらしい。
態度で分かるタイプだと、俺は事前に聞いていた。
西は落ち込んだ。
徒歩一分の距離は、その時やけに近かった。
夜中、缶ビール片手に西が言った。
「俺さ、何がダメだったんだろ。」
答えられなかった。
知っていたからこそ、余計に。
⸻
転機は、研究室合同飲み会だった。
夏前の、少し蒸し暑い夜。
隣の研究室と合同で、駅前の居酒屋を貸し切った。
珍しく、西は来なかった。
実験が押したのか、それともまだ引きずっていたのか。
俺はたまたま、なるの隣の席になった。
最初は他愛もない話だった。
実験の失敗談、教授の癖、国家試験の不安。
アルコールが回ってきた頃、俺はふと聞いた。
「さ、なんで西ダメだったの?」
完全に興味本位だった。
恋愛感情なんて、まだなかった。
なるは箸を止めた。
少しだけ考えてから、言った。
「うーん…優しいよね。でも、なんか違った。」
「違うって?」
「私のこと好きすぎた。」
意外な答えだった。
「好きすぎるの、ダメなの?」
「うん。なんかね、最初から“彼女”として扱われてる感じがして。私のこと、ちゃんと知らないまま理想だけ見られてる気がした。」
その言葉が、妙に残った。
「もっと普通に話したかったな。」
なるはそう言って、グラスを口に運んだ。
その横顔を、俺は初めてちゃんと見た気がした。
クールなんじゃない。
警戒しているだけなんだ。
その夜、俺たちは思ったより話した。
なるは研究が嫌いではないこと。
将来は病院薬剤師も少し考えていること。
高校時代は意外と部活でバリバリ走っていたこと。
「今日、めっちゃ話してるね。」
帰り際、なるが笑った。
「西いないからじゃない?」
冗談で言ったつもりだった。
「そうかも。」
彼女は否定しなかった。
⸻
それからだ。
研究室で顔を合わせると、自然と話すようになった。
実験の合間、廊下、エレベーター前。
西を介さずに、なると直接繋がっている感覚。
最初は本当に何もなかった。
“西の好きだった子”というラベルが、俺の中でまだ強かった。
でも、気づけば。
なるが他の男子と話していると、少しだけ気になった。
LINEの通知が来ると、反射的にスマホを見た。
ある日、アパートに帰る途中、徒歩一分の道を歩きながら思った。
――これ、まずくないか。
玄関を開けると、すぐ隣の西の部屋の灯りが見える。
俺はその灯りを見ながら、
なるの笑顔を思い出していた。
あの日の飲み会から、
何かが静かに、確実に動き始めていた。
『四年目の夏、失ったもの』
― 花火の夜 ―
西は少し荒れていた。
振られた反動なのか、
近場の女友達と飲みに行く回数が増えた。
それは別に構わない。
でも、俺への態度は確実に変わった。
「悪い、飲み会の店お前予約しといて。」
「キャンプのレンタカーもよろしく。俺バイトあるから。」
今までなら半分ずつやっていたことを、
当たり前のように俺に回す。
徒歩一分の距離は相変わらず近いのに、
気持ちの距離は妙に遠かった。
ある夜、俺はまみとかずとのLINEグループで盛り上がっていた。
昔からの飲み仲間。
恋愛の愚痴も、バイト先の話も、くだらない下ネタも全部共有してきたメンバー。
「今週末、近くで花火大会あるらしいよ」
かずの一言で流れが決まった。
「行くか?」
「行こ行こ!」
その時、俺はふと思った。
――なる、誘ってみるか。
まみはなるとも仲がいい。
「ノリでなるも誘ってみてよ」
軽い気持ちだった。
いや、正直に言えば少し意地が混ざっていた。
西は最近、俺を雑に扱う。
なら、俺がなると親しくなっても文句はないだろう。
仕返しみたいな、子どもじみた感情。
まみはすぐ返信した。
「いいよ、聞いてみる」
数分後。
「なるOKだって」
胸が少しだけ高鳴った。
理由なんて、その時は深く考えなかった。
⸻
花火大会当日。
人混みと、屋台の匂いと、蒸し暑い夜風。
なるは白地に紺の柄の浴衣を着ていた。
普段のクールな服装とは違って、少し柔らかく見えた。
「似合ってるじゃん」
俺が言うと、
「ありがと。暑いけどね」
そう言って、少し照れたように笑った。
その笑顔に、一瞬だけ言葉を失った。
まだ、この時点では“好き”とは思っていなかった。
ただ、綺麗だと思っただけだ。
⸻
屋台を回り、たこ焼きやかき氷を分け合う。
かずは騒ぎ、まみは笑い、
四人でいる空気は自然だった。
でも途中から、まみの動きが明らかに変わった。
「私たち、あっちの屋台見てくるね」
かずの腕を引っ張って、人混みに消える。
俺となるが、取り残された。
「あ、察した?」
なるが苦笑いする。
「たぶんな。」
少し気まずい沈黙。
遠くで、最初の花火が上がった。
ドン、と腹に響く音。
空が一瞬、白くなる。
人の流れに押されて、なるの手が俺の腕に触れた。
「ごめん」
すぐ離れたけど、
その温度が残った。
「西、最近元気?」
不意に、なるが聞いた。
「荒れてるな」
正直に答えた。
「そっか…」
なるは空を見上げたまま言った。
「私のせいかな」
「違うだろ」
即答だった。
「西は西で、ちゃんと整理する時間がいるだけ。」
俺は、いつの間にかなるの肩を守るように立っていた。
人混みから少しでも遠ざけるように。
その時、気づいた。
――俺、守ろうとしてる。
仕返しのためじゃない。
西への当てつけでもない。
ただ、なるが傷ついた顔をするのが嫌だった。
大きな花火が上がる。
夜空いっぱいに広がる光。
なるの横顔が、その光に照らされる。
「今日、楽しい」
ぽつりと、なるが言った。
「四人だから?」
俺は聞いた。
なるは少しだけ考えてから、
「ううん。」
一拍。
「あなたと話してるの、楽しい。」
胸の奥が、静かにひっくり返った。
その瞬間、全部わかった。
これは意地じゃない。
仕返しでもない。
偶然でもない。
俺は、なるを好きになっている。
花火の音がやけに遠く感じた。
世界が静かになって、
隣にいる彼女だけがはっきり見える。
その時、初めて思った。
――西、ごめん。
まだ何も始まっていないのに、
もう失う予感がしていた。
夜空に消える光を見上げながら、
俺は自分の感情から目を逸らせなくなっていた。
『四年目の夏、失ったもの』
― なる視点:花火の夜 ―
正直に言えば、最初は気が進まなかった。
まみからLINEが来たとき、少し迷った。
「今週末、花火行くんだけど来ない?
〇〇(=彼)も来るよ」
その名前を見たとき、指が止まった。
西じゃない。
それだけで、少しだけ気持ちが軽くなった自分がいた。
私は西を振った。
はっきりと。
優しかった。でも、重かった。
最初から“彼女候補”として扱われている感じがして、息が詰まった。
あの人(=彼)は違った。
合同飲み会のとき、
真正面から聞いてきた。
「なんで西ダメだったの?」
悪気も、探りもない。
ただの興味本位。
でも、あれが嬉しかった。
私を“物語のヒロイン”としてじゃなく、
一人の人間として扱ってくれたから。
だから花火の誘いも、断らなかった。
⸻
浴衣は、クローゼットの奥から出した。
別に気合いを入れたわけじゃない。
そう思い込もうとした。
鏡の前で少しだけ髪を整えて、
「暑いだけ」と自分に言い聞かせた。
待ち合わせ場所に着くと、
彼はいつも通りのTシャツ姿で立っていた。
少し安心した。
目が合った瞬間、
一瞬だけ、言葉を探している顔をした。
「似合ってるじゃん」
不器用な褒め方。
でも、ちゃんと目を見て言ってくれた。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
⸻
四人でいる時間は楽だった。
かずは騒ぐし、まみは気が利く。
彼はその真ん中で、自然に笑っている。
西といるときの彼は、
どこか“聞き役”だった。
でも今日は違う。
ちゃんと自分の話をして、
ちゃんと私の話を聞いてくれる。
途中から、まみの動きが露骨になった。
「あっち見てくるねー」
わざとらしい。
でも、ありがたかった。
二人きりになった瞬間、
心臓がうるさくなる。
「察した?」
と笑ってみせたけれど、
本当は逃げ道が欲しかった。
花火が上がる。
音が身体に響く。
人に押されて、
思わず彼の腕を掴んだ。
一瞬、固まったのがわかった。
すぐ離したけれど、
あの温度が指に残る。
――まずい。
自覚したくない気持ちが、ゆっくり浮かぶ。
⸻
「西、最近元気?」
聞いたのは、確認したかったから。
彼がどう答えるか。
「荒れてるな」
即答だった。
でもその声には、責める色がなかった。
私は少し救われた。
「私のせいかな」
本音だった。
すると彼は、間を置かずに言った。
「違うだろ」
その言い方が、優しかった。
私を守るように、
人混みから少し前に立つ。
無意識なんだろうな、と思った。
その自然さが、苦しかった。
西は私を“好きな人”として扱った。
この人は、ただ隣に立っている。
なのに、こっちの方が落ち着く。
大きな花火が上がる。
夜空が白くなる。
横顔を見られている気がして、
少しだけ視線を逸らす。
言わないつもりだったのに、
口が勝手に動いた。
「今日、楽しい」
本当だった。
「四人だから?」
その質問が、ずるい。
少しだけ考えたふりをする。
でも答えは決まっていた。
「ううん。」
一呼吸。
「あなたと話してるの、楽しい。」
言った瞬間、
取り返しがつかない気がした。
彼の表情が変わる。
驚きと、戸惑いと、
それから――覚悟みたいなもの。
その顔を見て、確信した。
私も、同じだ。
これは気まぐれじゃない。
西への罪悪感でもない。
静かに、確実に、
好きになっている。
最後の花火が夜空に広がる。
光が消えたあと、
妙に静かな時間が流れた。
私はその沈黙を壊さなかった。
壊したら、全部動き出してしまうから。
でももう遅い。
あの夜、
私は自分の気持ちを知ってしまった。
そしてきっと、
誰かを傷つける未来も。
『四年目の夏、失ったもの』
― 冬が近づく ―
花火の夜以降、なるとのLINEは止まらなくなった。
きっかけは些細だった。
「今日のレポートやばくない?」
「教授また無茶振りしてきたね」
そんな他愛もない会話。
でもそれが、毎日続いた。
日付が変わっても、終わらない。
「おやすみ」を言わないわけじゃない。
言うけれど、そのあとまた続く。
「てかさ」
「今思い出したけど」
どちらかが話題を足す。
結局、どちらかが寝落ちして既読が止まる。
朝になって「ごめん寝てた」と来る。
それが当たり前になっていた。
終わらせたくなかったのか、
本当に眠かっただけなのか。
きっと、どちらも。
⸻
西とは相変わらずだった。
隣の研究室。
徒歩一分のアパート。
顔を合わせれば普通に話す。
でも、前みたいにくだらないことで部屋を行き来することは減った。
西は相変わらず飲みに行っていた。
「今日も○○ちゃんと飲みだわ」
わざわざ言ってくる。
俺は「へー」と返す。
心のどこかで思う。
――俺は、なるとLINEしてるけどな。
最低だと思う。
でも、止められなかった。
⸻
十月。
研究室は学会準備で忙しくなる。
なると廊下ですれ違う時間は短くなったが、
夜は相変わらず画面の向こうで繋がっていた。
「将来どうするの?」
ある夜、なるが聞いた。
「まだ迷ってる。病院かなとは思ってるけど。」
「私も。」
同じ未来を想像している気がして、
胸が少し熱くなる。
会話が深くなるほど、
距離は縮まる。
気づけば、なるの一日の出来事を知らないと落ち着かなくなっていた。
今日は誰と話したのか。
何に笑ったのか。
誰に褒められたのか。
独占欲、という言葉が頭をよぎる。
でもまだ、言葉にしない。
⸻
十一月の終わり。
寒くなってきたある夜、
なるから唐突にメッセージが来た。
「最近、西と話してる?」
指が止まる。
「普通に、研究室で」
少し間が空く。
「そっか」
それだけだった。
なるも、分かっている。
私たちが進めば、
西との関係は壊れるかもしれないこと。
でも、誰も止めなかった。
止める理由より、
進みたい理由の方が大きくなっていた。
⸻
十二月が近づく。
街にイルミネーションが灯り始める。
研究室帰り、駅前を通るたびに思う。
――ここ、なると来たいな。
その瞬間、自分の気持ちを認めた。
これはもう、曖昧な好意じゃない。
好きだ。
なるを、ちゃんと好きだ。
西への遠慮も、罪悪感も、
全部込みで、それでも好きだ。
中途半端なのが一番卑怯だと思った。
だから決めた。
ちゃんと誘おう。
デートに。
そして、ちゃんと告白しよう。
逃げずに。
⸻
ある夜、LINEを打ちながら、
何度も文章を消した。
「今度さ」
消す。
「もしよかったら」
消す。
深呼吸。
『12月入ったら、どっか出かけない?二人で』
送信。
既読がつくまでの数秒が、やけに長い。
スマホを握る手が汗ばんでいる。
やがて表示が変わる。
『うん、行きたい』
その一言で、
心臓が大きく跳ねた。
もう戻れない。
冬の空気が、やけに澄んで感じた。
俺は、なるに告白する。
西を失う可能性を知りながら。
それでも。
『四年目の夏、失ったもの』
― 告白の日 ―
12月最初の土曜日。
イルミネーションで有名なショッピングモールを選んだ。
理由は単純だった。
告白しやすそうだったから。
昼過ぎに待ち合わせ。
なるは白いコートを着ていた。
マフラーに顔を半分埋めて、「寒いね」と笑う。
その仕草だけで、今日は特別な日になると分かった。
⸻
映画は最近人気の邦画。
お互い好きな俳優が出ていて、前から「観たいね」と話していたやつだ。
正直、内容はあまり覚えていない。
隣にいるなるの気配ばかり気になっていた。
ポップコーンを取るタイミング。
笑うところ。
泣きそうになっている横顔。
暗闇の中で、何度も思った。
――今、手を伸ばせば触れられる。
でも触れなかった。
まだ言葉にしていないから。
⸻
映画のあと、少し買い物をした。
メンズ服の店で、
「それ似合いそう」と言われて少し照れる。
雑貨屋で、
「こういうの好き」となるが手に取る小物を見る。
他愛もない会話が、やけに愛おしかった。
“付き合う前”の最後の時間かもしれない、と思った。
⸻
17時を過ぎる頃、外が暗くなり始めた。
ショッピングモール全体に、イルミネーションが灯る。
白と青の光が、ゆっくり瞬き始める。
外のベンチに座る。
吐く息が白い。
しばらく二人で、何も言わずに光を見ていた。
たぶん、なるも分かっていた。
今日は、その日だと。
空気が、少しだけ張りつめる。
⸻
言葉は、頭の中に用意してあった。
「好きだ」
「ちゃんと付き合いたい」
「西のことも含めて、全部覚悟してる」
何度もシミュレーションした。
なのに、喉が詰まる。
代わりに出てきたのは、大学の話だった。
「国家試験まであと一年ちょいか」
「研究、忙しくなるな」
どうでもいい会話が続く。
なるは黙って聞いている。
責めない。急かさない。
ただ、待っている。
その沈黙が、余計に胸を締め付ける。
逃げるな、と自分に言い聞かせる。
深呼吸。
「……ちゃんと、話したいことある」
声が少し震えた。
なるは小さく頷く。
イルミネーションの光が、彼女の横顔を照らす。
本当は言いたかった。
好きだ、と。
でも口から出たのは、違う言葉だった。
「……俺と、付き合ってほしい」
それだけ。
“好き”を飲み込んだ。
西の顔が浮かんだのか、
罪悪感が邪魔したのか、
自分でも分からない。
ただ、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
なるは少しだけ目を伏せて、
「うん」
と答えた。
それから、ほんの少し笑った。
安心したような、覚悟を決めたような笑顔。
その一言で、世界が変わった。
⸻
そのあと、モール内のレストランで夕食を食べた。
さっきまでと同じように話しているのに、
全部が少し違う。
テーブルの下で、手が触れそうになって、触れない。
帰り際、駅の改札前。
「じゃあ、またね」
いつもの別れ方。
でも、今日は違う。
「……彼氏、なんだよな」
なるが少し照れたように言う。
「うん」
その一言が、やけに現実味を帯びる。
正式に、付き合うことになった。
嬉しかった。
確かに嬉しかった。
でも同時に、
胸の奥に小さな棘が残っていた。
“好き”と言えなかったこと。
西のこと。
そしてこれから、失うかもしれないもの。
イルミネーションの光が遠ざかる。
俺は、何かを手に入れて、
何かを手放す準備をしていた。
『四年目の夏、失ったもの』
― けじめ ―
言うなら早い方がいい。
そう思ったのは、
自分のためだったのかもしれない。
アパートは徒歩一分。
夜の冷たい空気の中、
見慣れた外階段を上る。
何度も通った廊下。
何度も開けたドア。
呼び鈴を押す指が、やけに重い。
ピンポン。
数秒後、ドアが開く。
「おー、入れよ。」
いつもと同じ声。
少しだけ安心してしまう自分がいる。
「どうした?今日なんかあったか?」
部屋の匂いも、散らかったテーブルも、
缶ビールの空きも、全部いつも通り。
最近は二人で飲んでなかったけど、
この空気は変わっていなかった。
でも西は、分かっている顔をしていた。
俺が来た理由を。
最近、俺となるがよく話していたこと。
花火の日。
LINEが続いていたこと。
全部、察していたはずだ。
それでも、言わなきゃいけない。
友達だから。
逃げたら、もっと卑怯になる。
立ったまま言った。
「……話があってきた。」
西はソファに座りながら、
「なんだよ。」
少し笑う。
「なるのことだ。」
その瞬間、空気が止まった。
西は視線を逸らし、苦笑いする。
「なんだよ……なんかやだな。聞きたくないな。」
冗談めかしているけど、
声が少し低い。
俺は逃げなかった。
「俺、なると付き合うことになった。」
一拍。
「……ごめん。」
沈黙。
時計の音がやけに大きい。
西はしばらく何も言わなかった。
それから、ぽつりと。
「……なんでだよ。」
顔は上げないまま。
「なんで、なるなんだよ。」
その声には、怒りよりも、
理解できないという戸惑いがあった。
「俺が好きって、知ってたろ……」
知ってた。
一番近くで、聞いてた。
デートプランも、
夢みたいな話も。
全部。
「ごめん……」
それしか出てこなかった。
西は鼻で笑った。
自嘲みたいに。
「……いいよ。わかったよ。」
立ち上がらない。
こっちも座らない。
「話はそれだけな。」
淡々としている。
「わかったよ……じゃあな。」
その“じゃあな”が、妙に重い。
終わりの合図みたいだった。
「うん。それだけ。……じゃあね。」
ドアを開ける。
冷たい空気が流れ込む。
振り返らなかった。
振り返ったら、何か言い訳をしてしまいそうだった。
ドアが閉まる音が、やけに大きい。
⸻
外階段を下りながら、はっきり分かった。
俺は彼女を手に入れた。
その代わりに、
友達を失った。
殴られたわけでもない。
怒鳴られたわけでもない。
それなのに、あの静かな「じゃあな」が、
一番きつかった。
徒歩一分の距離が、
もう取り返しのつかない距離になった気がした。
夜空はやけに澄んでいた。
俺は選んだ。
その代償を、
これからずっと背負うことになる。
なるみを選んだことが正解だったのか、それは誰にもわからない。




