表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

一つ手に入れると一つ失う

作者: KMMK
掲載日:2026/02/16

俺は友人の西が好きな子である、なるみと仲良くなるにつれ、友達の好きな子では割り切れなくなる。西との友情をとるかなるみをとるか、悩み、葛藤する。

『四年目の夏、失ったもの』


大学四年の夏、俺には彼女ができた。

代わりに、友人を一人失った。


西とは、隣の研究室だった。

テーマは違うが、実験フロアは同じ。顔を合わせる頻度は自然と増える。


決定的だったのはアパートだ。


俺と西の一人暮らしの部屋は、徒歩一分。

玄関を出て角を曲がれば、もう西の部屋の灯りが見える距離だった。


「カップ麺ある?」

「あるけど代わりにビールくれ。」


そんなやり取りが当たり前で、

実験が長引いた夜はそのままどちらかの部屋でだらだらする。

恋愛の話も、将来の不安も、国家試験の愚痴も、全部その六畳の部屋で消費された。


だからこそ、西の“なる”への想いも、俺は最前列で聞いていた。



「マジでさ、なる可愛いんだよ。」


西は何度もそう言った。


俺は正直、その時はそこまでピンと来ていなかった。

確かに綺麗だとは思う。でも、グループの中のクールな子、という印象止まりだった。


西のデート計画を聞きながらも、

俺はどこか一歩引いた場所にいた。


そしてデートは、予想通り終わった。


なるは西に対して明確な“脈なし”を示したらしい。

態度で分かるタイプだと、俺は事前に聞いていた。


西は落ち込んだ。

徒歩一分の距離は、その時やけに近かった。


夜中、缶ビール片手に西が言った。


「俺さ、何がダメだったんだろ。」


答えられなかった。

知っていたからこそ、余計に。



転機は、研究室合同飲み会だった。


夏前の、少し蒸し暑い夜。

隣の研究室と合同で、駅前の居酒屋を貸し切った。


珍しく、西は来なかった。

実験が押したのか、それともまだ引きずっていたのか。


俺はたまたま、なるの隣の席になった。


最初は他愛もない話だった。

実験の失敗談、教授の癖、国家試験の不安。


アルコールが回ってきた頃、俺はふと聞いた。


「さ、なんで西ダメだったの?」


完全に興味本位だった。

恋愛感情なんて、まだなかった。


なるは箸を止めた。


少しだけ考えてから、言った。


「うーん…優しいよね。でも、なんか違った。」


「違うって?」


「私のこと好きすぎた。」


意外な答えだった。


「好きすぎるの、ダメなの?」


「うん。なんかね、最初から“彼女”として扱われてる感じがして。私のこと、ちゃんと知らないまま理想だけ見られてる気がした。」


その言葉が、妙に残った。


「もっと普通に話したかったな。」


なるはそう言って、グラスを口に運んだ。


その横顔を、俺は初めてちゃんと見た気がした。


クールなんじゃない。

警戒しているだけなんだ。


その夜、俺たちは思ったより話した。


なるは研究が嫌いではないこと。

将来は病院薬剤師も少し考えていること。

高校時代は意外と部活でバリバリ走っていたこと。


「今日、めっちゃ話してるね。」


帰り際、なるが笑った。


「西いないからじゃない?」


冗談で言ったつもりだった。


「そうかも。」


彼女は否定しなかった。



それからだ。


研究室で顔を合わせると、自然と話すようになった。

実験の合間、廊下、エレベーター前。


西を介さずに、なると直接繋がっている感覚。


最初は本当に何もなかった。

“西の好きだった子”というラベルが、俺の中でまだ強かった。


でも、気づけば。


なるが他の男子と話していると、少しだけ気になった。

LINEの通知が来ると、反射的にスマホを見た。


ある日、アパートに帰る途中、徒歩一分の道を歩きながら思った。


――これ、まずくないか。


玄関を開けると、すぐ隣の西の部屋の灯りが見える。


俺はその灯りを見ながら、

なるの笑顔を思い出していた。


あの日の飲み会から、

何かが静かに、確実に動き始めていた。


『四年目の夏、失ったもの』


― 花火の夜 ―


西は少し荒れていた。


振られた反動なのか、

近場の女友達と飲みに行く回数が増えた。

それは別に構わない。


でも、俺への態度は確実に変わった。


「悪い、飲み会の店お前予約しといて。」

「キャンプのレンタカーもよろしく。俺バイトあるから。」


今までなら半分ずつやっていたことを、

当たり前のように俺に回す。


徒歩一分の距離は相変わらず近いのに、

気持ちの距離は妙に遠かった。


ある夜、俺はまみとかずとのLINEグループで盛り上がっていた。


昔からの飲み仲間。

恋愛の愚痴も、バイト先の話も、くだらない下ネタも全部共有してきたメンバー。


「今週末、近くで花火大会あるらしいよ」


かずの一言で流れが決まった。


「行くか?」

「行こ行こ!」


その時、俺はふと思った。


――なる、誘ってみるか。


まみはなるとも仲がいい。


「ノリでなるも誘ってみてよ」


軽い気持ちだった。

いや、正直に言えば少し意地が混ざっていた。


西は最近、俺を雑に扱う。

なら、俺がなると親しくなっても文句はないだろう。


仕返しみたいな、子どもじみた感情。


まみはすぐ返信した。


「いいよ、聞いてみる」


数分後。


「なるOKだって」


胸が少しだけ高鳴った。


理由なんて、その時は深く考えなかった。



花火大会当日。


人混みと、屋台の匂いと、蒸し暑い夜風。


なるは白地に紺の柄の浴衣を着ていた。

普段のクールな服装とは違って、少し柔らかく見えた。


「似合ってるじゃん」


俺が言うと、


「ありがと。暑いけどね」


そう言って、少し照れたように笑った。


その笑顔に、一瞬だけ言葉を失った。


まだ、この時点では“好き”とは思っていなかった。

ただ、綺麗だと思っただけだ。



屋台を回り、たこ焼きやかき氷を分け合う。


かずは騒ぎ、まみは笑い、

四人でいる空気は自然だった。


でも途中から、まみの動きが明らかに変わった。


「私たち、あっちの屋台見てくるね」


かずの腕を引っ張って、人混みに消える。


俺となるが、取り残された。


「あ、察した?」


なるが苦笑いする。


「たぶんな。」


少し気まずい沈黙。


遠くで、最初の花火が上がった。


ドン、と腹に響く音。


空が一瞬、白くなる。


人の流れに押されて、なるの手が俺の腕に触れた。


「ごめん」


すぐ離れたけど、

その温度が残った。


「西、最近元気?」


不意に、なるが聞いた。


「荒れてるな」


正直に答えた。


「そっか…」


なるは空を見上げたまま言った。


「私のせいかな」


「違うだろ」


即答だった。


「西は西で、ちゃんと整理する時間がいるだけ。」


俺は、いつの間にかなるの肩を守るように立っていた。

人混みから少しでも遠ざけるように。


その時、気づいた。


――俺、守ろうとしてる。


仕返しのためじゃない。

西への当てつけでもない。


ただ、なるが傷ついた顔をするのが嫌だった。


大きな花火が上がる。


夜空いっぱいに広がる光。


なるの横顔が、その光に照らされる。


「今日、楽しい」


ぽつりと、なるが言った。


「四人だから?」


俺は聞いた。


なるは少しだけ考えてから、


「ううん。」


一拍。


「あなたと話してるの、楽しい。」


胸の奥が、静かにひっくり返った。


その瞬間、全部わかった。


これは意地じゃない。

仕返しでもない。

偶然でもない。


俺は、なるを好きになっている。


花火の音がやけに遠く感じた。


世界が静かになって、

隣にいる彼女だけがはっきり見える。


その時、初めて思った。


――西、ごめん。


まだ何も始まっていないのに、

もう失う予感がしていた。


夜空に消える光を見上げながら、

俺は自分の感情から目を逸らせなくなっていた。


『四年目の夏、失ったもの』


― なる視点:花火の夜 ―


正直に言えば、最初は気が進まなかった。


まみからLINEが来たとき、少し迷った。


「今週末、花火行くんだけど来ない?

〇〇(=彼)も来るよ」


その名前を見たとき、指が止まった。


西じゃない。


それだけで、少しだけ気持ちが軽くなった自分がいた。


私は西を振った。

はっきりと。


優しかった。でも、重かった。

最初から“彼女候補”として扱われている感じがして、息が詰まった。


あの人(=彼)は違った。


合同飲み会のとき、

真正面から聞いてきた。


「なんで西ダメだったの?」


悪気も、探りもない。

ただの興味本位。


でも、あれが嬉しかった。


私を“物語のヒロイン”としてじゃなく、

一人の人間として扱ってくれたから。


だから花火の誘いも、断らなかった。



浴衣は、クローゼットの奥から出した。


別に気合いを入れたわけじゃない。

そう思い込もうとした。


鏡の前で少しだけ髪を整えて、

「暑いだけ」と自分に言い聞かせた。


待ち合わせ場所に着くと、

彼はいつも通りのTシャツ姿で立っていた。


少し安心した。


目が合った瞬間、

一瞬だけ、言葉を探している顔をした。


「似合ってるじゃん」


不器用な褒め方。


でも、ちゃんと目を見て言ってくれた。


胸の奥が、少しだけ熱くなった。



四人でいる時間は楽だった。


かずは騒ぐし、まみは気が利く。

彼はその真ん中で、自然に笑っている。


西といるときの彼は、

どこか“聞き役”だった。


でも今日は違う。


ちゃんと自分の話をして、

ちゃんと私の話を聞いてくれる。


途中から、まみの動きが露骨になった。


「あっち見てくるねー」


わざとらしい。


でも、ありがたかった。


二人きりになった瞬間、

心臓がうるさくなる。


「察した?」


と笑ってみせたけれど、

本当は逃げ道が欲しかった。


花火が上がる。


音が身体に響く。


人に押されて、

思わず彼の腕を掴んだ。


一瞬、固まったのがわかった。


すぐ離したけれど、

あの温度が指に残る。


――まずい。


自覚したくない気持ちが、ゆっくり浮かぶ。



「西、最近元気?」


聞いたのは、確認したかったから。


彼がどう答えるか。


「荒れてるな」


即答だった。


でもその声には、責める色がなかった。


私は少し救われた。


「私のせいかな」


本音だった。


すると彼は、間を置かずに言った。


「違うだろ」


その言い方が、優しかった。


私を守るように、

人混みから少し前に立つ。


無意識なんだろうな、と思った。


その自然さが、苦しかった。


西は私を“好きな人”として扱った。

この人は、ただ隣に立っている。


なのに、こっちの方が落ち着く。


大きな花火が上がる。


夜空が白くなる。


横顔を見られている気がして、

少しだけ視線を逸らす。


言わないつもりだったのに、

口が勝手に動いた。


「今日、楽しい」


本当だった。


「四人だから?」


その質問が、ずるい。


少しだけ考えたふりをする。


でも答えは決まっていた。


「ううん。」


一呼吸。


「あなたと話してるの、楽しい。」


言った瞬間、

取り返しがつかない気がした。


彼の表情が変わる。


驚きと、戸惑いと、

それから――覚悟みたいなもの。


その顔を見て、確信した。


私も、同じだ。


これは気まぐれじゃない。

西への罪悪感でもない。


静かに、確実に、

好きになっている。


最後の花火が夜空に広がる。


光が消えたあと、

妙に静かな時間が流れた。


私はその沈黙を壊さなかった。


壊したら、全部動き出してしまうから。


でももう遅い。


あの夜、

私は自分の気持ちを知ってしまった。


そしてきっと、

誰かを傷つける未来も。


『四年目の夏、失ったもの』


― 冬が近づく ―


花火の夜以降、なるとのLINEは止まらなくなった。


きっかけは些細だった。


「今日のレポートやばくない?」

「教授また無茶振りしてきたね」


そんな他愛もない会話。


でもそれが、毎日続いた。


日付が変わっても、終わらない。

「おやすみ」を言わないわけじゃない。


言うけれど、そのあとまた続く。


「てかさ」

「今思い出したけど」


どちらかが話題を足す。


結局、どちらかが寝落ちして既読が止まる。

朝になって「ごめん寝てた」と来る。


それが当たり前になっていた。


終わらせたくなかったのか、

本当に眠かっただけなのか。


きっと、どちらも。



西とは相変わらずだった。


隣の研究室。

徒歩一分のアパート。


顔を合わせれば普通に話す。

でも、前みたいにくだらないことで部屋を行き来することは減った。


西は相変わらず飲みに行っていた。


「今日も○○ちゃんと飲みだわ」


わざわざ言ってくる。


俺は「へー」と返す。


心のどこかで思う。


――俺は、なるとLINEしてるけどな。


最低だと思う。

でも、止められなかった。



十月。

研究室は学会準備で忙しくなる。


なると廊下ですれ違う時間は短くなったが、

夜は相変わらず画面の向こうで繋がっていた。


「将来どうするの?」


ある夜、なるが聞いた。


「まだ迷ってる。病院かなとは思ってるけど。」


「私も。」


同じ未来を想像している気がして、

胸が少し熱くなる。


会話が深くなるほど、

距離は縮まる。


気づけば、なるの一日の出来事を知らないと落ち着かなくなっていた。


今日は誰と話したのか。

何に笑ったのか。

誰に褒められたのか。


独占欲、という言葉が頭をよぎる。


でもまだ、言葉にしない。



十一月の終わり。


寒くなってきたある夜、

なるから唐突にメッセージが来た。


「最近、西と話してる?」


指が止まる。


「普通に、研究室で」


少し間が空く。


「そっか」


それだけだった。


なるも、分かっている。


私たちが進めば、

西との関係は壊れるかもしれないこと。


でも、誰も止めなかった。


止める理由より、

進みたい理由の方が大きくなっていた。



十二月が近づく。


街にイルミネーションが灯り始める。


研究室帰り、駅前を通るたびに思う。


――ここ、なると来たいな。


その瞬間、自分の気持ちを認めた。


これはもう、曖昧な好意じゃない。


好きだ。


なるを、ちゃんと好きだ。


西への遠慮も、罪悪感も、

全部込みで、それでも好きだ。


中途半端なのが一番卑怯だと思った。


だから決めた。


ちゃんと誘おう。


デートに。


そして、ちゃんと告白しよう。


逃げずに。



ある夜、LINEを打ちながら、

何度も文章を消した。


「今度さ」

消す。


「もしよかったら」

消す。


深呼吸。


『12月入ったら、どっか出かけない?二人で』


送信。


既読がつくまでの数秒が、やけに長い。


スマホを握る手が汗ばんでいる。


やがて表示が変わる。


『うん、行きたい』


その一言で、

心臓が大きく跳ねた。


もう戻れない。


冬の空気が、やけに澄んで感じた。


俺は、なるに告白する。


西を失う可能性を知りながら。


それでも。


『四年目の夏、失ったもの』


― 告白の日 ―


12月最初の土曜日。


イルミネーションで有名なショッピングモールを選んだ。

理由は単純だった。

告白しやすそうだったから。


昼過ぎに待ち合わせ。


なるは白いコートを着ていた。

マフラーに顔を半分埋めて、「寒いね」と笑う。


その仕草だけで、今日は特別な日になると分かった。



映画は最近人気の邦画。

お互い好きな俳優が出ていて、前から「観たいね」と話していたやつだ。


正直、内容はあまり覚えていない。


隣にいるなるの気配ばかり気になっていた。

ポップコーンを取るタイミング。

笑うところ。

泣きそうになっている横顔。


暗闇の中で、何度も思った。


――今、手を伸ばせば触れられる。


でも触れなかった。


まだ言葉にしていないから。



映画のあと、少し買い物をした。


メンズ服の店で、

「それ似合いそう」と言われて少し照れる。


雑貨屋で、

「こういうの好き」となるが手に取る小物を見る。


他愛もない会話が、やけに愛おしかった。


“付き合う前”の最後の時間かもしれない、と思った。



17時を過ぎる頃、外が暗くなり始めた。


ショッピングモール全体に、イルミネーションが灯る。


白と青の光が、ゆっくり瞬き始める。


外のベンチに座る。


吐く息が白い。


しばらく二人で、何も言わずに光を見ていた。


たぶん、なるも分かっていた。


今日は、その日だと。


空気が、少しだけ張りつめる。



言葉は、頭の中に用意してあった。


「好きだ」

「ちゃんと付き合いたい」

「西のことも含めて、全部覚悟してる」


何度もシミュレーションした。


なのに、喉が詰まる。


代わりに出てきたのは、大学の話だった。


「国家試験まであと一年ちょいか」

「研究、忙しくなるな」


どうでもいい会話が続く。


なるは黙って聞いている。


責めない。急かさない。


ただ、待っている。


その沈黙が、余計に胸を締め付ける。


逃げるな、と自分に言い聞かせる。


深呼吸。


「……ちゃんと、話したいことある」


声が少し震えた。


なるは小さく頷く。


イルミネーションの光が、彼女の横顔を照らす。


本当は言いたかった。


好きだ、と。


でも口から出たのは、違う言葉だった。


「……俺と、付き合ってほしい」


それだけ。


“好き”を飲み込んだ。


西の顔が浮かんだのか、

罪悪感が邪魔したのか、

自分でも分からない。


ただ、胸の奥に小さな引っかかりが残った。


なるは少しだけ目を伏せて、


「うん」


と答えた。


それから、ほんの少し笑った。


安心したような、覚悟を決めたような笑顔。


その一言で、世界が変わった。



そのあと、モール内のレストランで夕食を食べた。


さっきまでと同じように話しているのに、

全部が少し違う。


テーブルの下で、手が触れそうになって、触れない。


帰り際、駅の改札前。


「じゃあ、またね」


いつもの別れ方。


でも、今日は違う。


「……彼氏、なんだよな」


なるが少し照れたように言う。


「うん」


その一言が、やけに現実味を帯びる。


正式に、付き合うことになった。


嬉しかった。


確かに嬉しかった。


でも同時に、

胸の奥に小さな棘が残っていた。


“好き”と言えなかったこと。


西のこと。


そしてこれから、失うかもしれないもの。


イルミネーションの光が遠ざかる。


俺は、何かを手に入れて、

何かを手放す準備をしていた。


『四年目の夏、失ったもの』


― けじめ ―


言うなら早い方がいい。


そう思ったのは、

自分のためだったのかもしれない。


アパートは徒歩一分。


夜の冷たい空気の中、

見慣れた外階段を上る。


何度も通った廊下。

何度も開けたドア。


呼び鈴を押す指が、やけに重い。


ピンポン。


数秒後、ドアが開く。


「おー、入れよ。」


いつもと同じ声。

少しだけ安心してしまう自分がいる。


「どうした?今日なんかあったか?」


部屋の匂いも、散らかったテーブルも、

缶ビールの空きも、全部いつも通り。


最近は二人で飲んでなかったけど、

この空気は変わっていなかった。


でも西は、分かっている顔をしていた。


俺が来た理由を。


最近、俺となるがよく話していたこと。

花火の日。

LINEが続いていたこと。


全部、察していたはずだ。


それでも、言わなきゃいけない。


友達だから。


逃げたら、もっと卑怯になる。


立ったまま言った。


「……話があってきた。」


西はソファに座りながら、


「なんだよ。」


少し笑う。


「なるのことだ。」


その瞬間、空気が止まった。


西は視線を逸らし、苦笑いする。


「なんだよ……なんかやだな。聞きたくないな。」


冗談めかしているけど、

声が少し低い。


俺は逃げなかった。


「俺、なると付き合うことになった。」


一拍。


「……ごめん。」


沈黙。


時計の音がやけに大きい。


西はしばらく何も言わなかった。


それから、ぽつりと。


「……なんでだよ。」


顔は上げないまま。


「なんで、なるなんだよ。」


その声には、怒りよりも、

理解できないという戸惑いがあった。


「俺が好きって、知ってたろ……」


知ってた。


一番近くで、聞いてた。


デートプランも、

夢みたいな話も。


全部。


「ごめん……」


それしか出てこなかった。


西は鼻で笑った。


自嘲みたいに。


「……いいよ。わかったよ。」


立ち上がらない。


こっちも座らない。


「話はそれだけな。」


淡々としている。


「わかったよ……じゃあな。」


その“じゃあな”が、妙に重い。


終わりの合図みたいだった。


「うん。それだけ。……じゃあね。」


ドアを開ける。


冷たい空気が流れ込む。


振り返らなかった。


振り返ったら、何か言い訳をしてしまいそうだった。


ドアが閉まる音が、やけに大きい。



外階段を下りながら、はっきり分かった。


俺は彼女を手に入れた。


その代わりに、


友達を失った。


殴られたわけでもない。

怒鳴られたわけでもない。


それなのに、あの静かな「じゃあな」が、

一番きつかった。


徒歩一分の距離が、

もう取り返しのつかない距離になった気がした。


夜空はやけに澄んでいた。


俺は選んだ。


その代償を、

これからずっと背負うことになる。



なるみを選んだことが正解だったのか、それは誰にもわからない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ