第6話:王都からの使者と、冷え切ったスープの屈辱
奈落監獄の重厚な正門が、不快な音を立てて開かれました。
現れたのは、王都の華やかな刺繍を施した法衣に身を包む、カスティエル伯爵。王太子ジュリアンの側近であり、わたくしを「公爵家の泥を塗る女」と罵った男の一人です。
「……っ、何だこの臭いは。鼻が曲がりそうだ」
カスティエルは、ハンカチで鼻を押さえながら監獄の広場に足を踏み入れました。
彼の言う「臭い」とは、広場に漂うカレーの残り香のことでしょう。スパイスに慣れていない王都の貴族には、刺激が強すぎたようですわね。
ですが、彼のお腹は正直でした。
グゥ、と情けない音が響き、カスティエルの顔が赤く染まります。
「ようこそ、奈落監獄へ。カスティエル伯爵。わざわざこんな最果てまで、死刑執行の知らせでも届けに来てくださったのかしら?」
わたくしは、ギルバート様の執務室のソファに深く腰掛け、優雅に扇子を広げました。
その隣には、当然のようにギルバート様が、わたくしを守る騎士のごとき威圧感で立っています。
「リリアーヌ・フォン・アスタル! その不遜な態度は何だ! 貴様は罪人……ッ」
「言葉を慎め、伯爵」
ギルバート様の氷のような声が、部屋の温度を数度下げました。
彼は腰の剣の柄に手をかけ、カスティエルを冷たく射貫きます。
「……っ、ギルバート看守長。貴公まで、この悪女にたぶらかされたというのか? まあいい。リリアーヌ、王太子殿下からの慈悲深いお言葉を伝えてやる。殿下は、貴様を特別に赦免し、王都へ戻ることを許可された」
「あら、それは驚きましたわ。どうして急に心変わりを?」
「……現在、王都では原因不明の食糧難が起きている。貴様が愛用していたあの『フライパンの聖具』には、周囲の作物を活性化させる力があったのだろう? メルティナ様が祈っても効果がないのだ。貴様が戻り、その聖具を王宮に献上すれば、以前の罪をすべて水に流してやるとおっしゃっている」
わたくしは思わず、くすりと笑い声を漏らしました。
身勝手にも程がありますわね。
わたくしを冤罪で追い出し、聖具を取り上げる目的で呼び戻すだなんて。
「お断りしますわ。わたくし、ここでの食生活がとても気に入っておりますの」
「貴様、正気か!? こんな泥のような食事しか出ない掃き溜めで……!」
「泥、ですか? ハンスさん、カスティエル伯爵にも『監獄の食事』をお出しして差し上げて」
「へいよ、姐さん!」
待機していたハンスが、恭しく銀の盆を運び込みました。
そこに乗せられていたのは、わたくしが初日に出されたのと同じ、灰色の泥のような粥でした。
「な、なんだこれは……。こんな汚物、食べられるわけがないだろう!」
「おかしいですわね。あなたがたが『悪女にはこれで十分だ』と指定したメニューではありませんか。さあ、王都で飢えていらっしゃるのでしょ? まずはそれを召し上がれ」
カスティエルは青ざめ、ガタガタと震え始めました。
その横で、わたくしは聖具の収納から、キンキンに冷えた「氷結晶の魚」のカルパッチョと、温かな「真珠タマネギ」のポタージュを取り出しました。
ふわっ、と広がる上品で芳醇な香りに、カスティエルの瞳が吸い寄せられます。
「……リリアーヌ、それは」
「わたくしたちの昼食ですわ。ギルバート様、どうぞ」
わたくしがスープを差し出すと、ギルバート様は満足げにスプーンを手に取りました。
「ああ。……このポタージュ、真珠タマネギの甘みが極限まで引き出されているな。生クリームの滑らかさと、ほんのり香るハーブのアクセントが絶妙だ。……伯爵、貴様もどうだ? その泥の粥よりは、マシな味がするだろうが」
「……っ、あ、ああ……」
カスティエルは、ギルバート様が美味しそうにスープを飲み干す姿を、羨望と絶望が入り混じった目で見つめていました。
彼は、一口でいいからそのスープを恵んでほしいと、顔に書いてありました。
「ああ、残念。カスティエル伯爵。このスープはわたくしの大切な方のためのものですの。……泥の粥がお気に召さないのでしたら、そのままお帰りになって。王都で、メルティナ様の『不味いお料理』でも食べていればよろしいじゃない」
「き、貴様ぁ……ッ! 後悔させてやるぞ! 殿下が騎士団を率いてここを包囲すれば、貴様らなど——」
「やってみるがいい」
ギルバート様が、静かに一歩踏み出しました。
その全身から溢れ出した魔圧は、伯爵を物理的に押しつぶさんばかりの強度でした。
「この監獄の看守も囚人も、すでにリリアーヌの料理以外は受け付けない身体になっている。彼女を奪おうとする者は、例え王族であっても俺が、そしてこの監獄の全員が、総力を挙げて殲滅する」
ギルバート様の背後には、いつの間にかカレーを食べて活力を取り戻した凶悪犯たちが、不気味な笑みを浮かべて控えていました。
「ひ、ひぃぃっ……!」
カスティエルは腰を抜かし、泥の粥のボウルをひっくり返しながら、逃げるように部屋を飛び出していきました。
「……ふふ。おいたが過ぎましたかしら、看守長様」
「いや、爽快だった。……リリアーヌ、スープの代わりと言っては何だが、夜は少し甘いものが食べたい」
ギルバート様が、わたくしの指先に軽く触れ、熱っぽい視線を送ってきます。
その銀の瞳は、もはや恐怖の象徴ではなく、わたくしを求める一人の男のそれでした。
「よろしいですわ。……とろけるような『極上プリン』でも、用意して差し上げますわね」
わたくしは微笑みながら、次なるレシピを頭に描きました。
王国が崩壊へと突き進む中、この監獄だけが、甘い香りと幸福に包まれていくのでした。




