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第5話:囚人たちの胃袋と、黄金のスパイス


 監獄の空気が、明らかに変わり始めていました。

 朝のマフィンの香りが階下にまで届いたせいか、普段は唸り声と罵声しか聞こえない一般収容区画から、異様な静けさと、期待に満ちた熱気が伝わってきたのです。


「姐さん、大変だ! 下の凶悪犯たちが『俺たちにもあの匂いの正体を食わせろ!』って、檻を叩いて大騒ぎしてる!」


 ハンスが慌てた様子で厨房に飛び込んできました。


「騒がしいな。放っておけ。あいつらにリリアーヌの料理を食わせる必要はない」


 ギルバート様は不機嫌そうに腕を組み、わたくしの後ろに陣取っています。彼はどうやら、わたくしが自分以外の誰かに料理を振る舞うのが、これっぽっちも面白くないようです。


「あら、看守長様。お腹が空きすぎると、人間は魔物よりも凶暴になりますわよ? 治安を維持したいのであれば、彼らの胃袋も一度黙らせておくべきですわ」


 わたくしは、聖具の収納からいくつもの小瓶を取り出しました。

 中に入っているのは、真っ赤な「火龍の爪」や、黄金色に輝く「大地の根」、そして目が覚めるような香りの「陽だまりスパイス」。

 これらを聖具のすり鉢で細かく粉砕し、絶妙な配合で混ぜ合わせていきます。


「リリアーヌ、それは何だ。今までに嗅いだことのない、鼻を突くような刺激的な香りだが……」


 ギルバート様が、不思議そうに鼻を動かしました。


「これは『カレー』という、わたくしの秘蔵の料理ですわ。これ一つで、どんな荒くれ者も大人しくなりますの」


 まずは大きな鍋に「金牛のバター」を熱し、細かく刻んだ「涙タマネギ」を飴色になるまでじっくり炒めます。そこに、朝に使った黒森猪の残りの部位を、一口大に切って投入しました。


 ジュワッ、という音と共に肉が躍り、スパイスを投入した瞬間、厨房の中に爆発的な香りが広がりました。


「……っ、何だこの香りは! 胸が熱くなるような、それでいて食欲が無理やり引きずり出されるような……!」


 ハンスがふらふらと鍋に近づいてきます。

 わたくしはさらに「星霜牛の骨」から取った透明なスープを注ぎ、コトコトと煮込み始めました。


 数時間後。

 監獄の広場には、特別に許可を得た囚人たちが整列していました。彼らは王国内でも指折りの凶悪犯たちですが、今は全員が、鍋から漂う「魔性の香り」に骨抜きにされています。


「さあ、遠慮せずに召し上がれ。『黒森猪の極上スパイシーカレー・監獄の熱狂仕立て』ですわ」


 わたくしは、炊きたての「銀粒米」の上に、たっぷりのカレーをかけて配り始めました。

 最初に受け取ったのは、全身傷だらけの大男、巨漢のバルカスでした。


「フン、令嬢の作る飯なんて、上品すぎて腹の足しに……――ッ!?」


 バルカスが一口、山盛りのカレーを口に放り込んだ瞬間。

 彼の目が、これ以上ないほど見開かれました。


「熱い! 辛い! だが……止まらねえ! この肉、口の中で溶けやがった! 後から来るこの痺れるような刺激が、全身の血を沸き立たせるようだぜ!」


「本当だ! この黄色い粒々の米に、ソースが絡んで最高にうめえ! おい、おかわりだ! おかわりをくれ!」


 別の囚人も、皿を舐めるような勢いで食べ進めます。

 彼らの顔からは険が取れ、ただ純粋に「美味いものを食う喜び」に浸る少年のようになっていました。


「……リリアーヌ。俺の分は、どこだ」


 背後から、低く、圧の強い声が聞こえました。

 見れば、ギルバート様が自分専用の特等席(といっても、わたくしのすぐ隣ですが)で、空の皿を持って待機していました。


「はい、看守長様。あなたには、特別にスパイスを強めにしたものを用意しましたわ」


 わたくしが皿を差し出すと、彼は待ちきれない様子でスプーンを動かしました。


「……ッ、はぁ……。辛い。だが、その後に来る野菜の甘みと肉の重厚な旨味が、波のように押し寄せてくる。この『カレー』という料理……一度食べれば、二度と前の生活には戻れないほどの魔力があるな」


 ギルバート様は額に微かな汗を浮かべながら、夢中で食べ進めます。


「これだ……。この熱だ。俺の空っぽだった胃が、今、確かに満たされている。……ハンス、聞こえるか」


「は、はい、看守長!」


 カレーを頬張っていたハンスが直立不動になります。


「今日からこの監獄の第一法度を定める。……リリアーヌを悲しませる者は、死罪。彼女の料理を侮辱する者は、一族郎党処刑だ」


「おう! 異議なしだぜ、旦那!」

「姐さんに指一本触れさせねえ!」


 囚人たちが、カレーの皿を掲げて一斉にときの声を上げました。

 もはやここは監獄ではなく、一人の料理人を頂点とした「美食の要塞」と化していました。


「ふふ、皆様に喜んでいただけて何よりですわ」


 わたくしは優雅に微笑みますが、内心では確信していました。

 これほどまでの活力が監獄に満ちれば、外の世界との差は広がる一方です。


 その頃、監獄の門の外には、王都から派遣された豪華な馬車が到着していました。

 中から降りてきたのは、わたくしを追放した張本人、王太子ジュリアンの側近です。


 彼は監獄から漏れ出す「カレー」の香りに顔を顰めましたが、そのお腹は正直に、グゥ、と大きく鳴り響いていました。

 さあ、贅沢に慣れた王都の使者様が、この「暴力的なまでの美味」にどこまで耐えられるかしら?


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