第4話:朝食の革命と、狂い始めた歯車
監獄の朝は、本来ならば絶望と共に明けるものでした。
重い鉄扉が開く音と、看守たちの苛立った怒鳴り声。そして、あの泥のような粥が運ばれてくる不快な音。
ですが、今の奈落監獄の最上階は、信じられないほど爽やかな香りに包まれていました。
「……リリアーヌ。今朝は何を作るつもりだ」
厨房の入り口で、ギルバート様が壁に背を預けて立っています。
彼は昨夜から、わたくしがこの厨房に立つ時間は必ずここに現れるようになりました。まるで、わたくしがどこかへ消えてしまわないか監視しているかのような、強い執着を感じます。
「今朝は、監獄の皆様にもお裾分けしようと思いまして。ハンスさん、そこの竈に火を入れてくださる?」
「はいよ、姐さん! 任せとけ!」
ハンスは、すでに看守というよりは、わたくしの見習い料理人のような顔をして、嬉々として薪を割っています。
わたくしは聖具の収納から、漆黒の毛並みを持つ魔獣から獲れる「黒森猪のベーコン」を取り出しました。
これを厚切りにすると、脂身が真珠のように白く輝きます。
さらに、昨夜のうちに仕込んでおいた「月見小麦」の生地を、円形に成形して焼いていきます。
「ふむ……。その肉、黒森猪か。凶暴な魔獣だが、これほどまでに澄んだ脂の香りがするとはな」
ギルバート様が興味深そうに覗き込んできます。
「素材の良さを引き出すのがわたくしの聖具ですわ。ハンスさん、その厚切りベーコンをフライパンへ。油は引かなくて結構よ、猪自身の脂で十分ですから」
ジュワアァッ! という、暴力的なまでに食欲をそそる音が厨房に響き渡りました。
燻製された煙の香ばしさと、焼けた肉の芳醇な香りが混ざり合い、開いた窓から監獄の階下へと流れていきます。
「う、うわあ……。なんだよ、この匂い。腹が減って、仕事どころじゃねえよ」
厨房の外に、他の看守たちが吸い寄せられるように集まってきました。
彼らは本来、囚人であるわたくしを監視する立場ですが、今は全員が鼻をヒクつかせ、魂を奪われたような顔をしています。
わたくしは、こんがりと焼けたベーコンと、とろける「琥珀チーズ」を、半分に割った月見小麦のパンで挟みました。
名付けて『黒森猪の厚切りベーコンマフィン・監獄の目覚めスタイル』です。
「さあ、まずはギルバート様。毒見をお願いしますわ」
一番最初に、一番美味しい出来栄えのものを差し出す。
これは、猛獣を手なずけるための鉄則です。
「……ああ」
ギルバート様は、大きな手でマフィンを掴みました。
熱々のパンを割り、豪快に一口。
「っ……。パンの表面はカリッとしているのに、中は驚くほどモチモチだ。そこに、この肉厚なベーコン……。噛むたびに、溢れんばかりの旨味が口の中で爆発する。チーズのコクが全体をまとめていて、後を引く美味さだ」
彼は無我夢中で食べ進めます。あんなに冷徹だった表情が、一口ごとに緩んでいくのがわかります。
「おい、俺たちにも食わせてくれ! 頼む!」
年配のベテラン看守が、耐えきれずに叫びました。
わたくしは微笑んで、用意していた分を次々と配っていきます。
「なんて味だ……! 今まで食ってた干し肉が、ただの木の皮に思えてくるぜ!」
「このパン、噛めば噛むほど甘みが出てくる。これなら、一日中走り回っても疲れない気がするよ」
看守たちが口々に感想を漏らし、厨房は活気に満たされました。
彼らの目に宿っていた澱んだ色が消え、生命力が宿っていくのが分かります。
わたくしの料理には、聖具による「活力上昇」の効果も付与されていますから。
ですが、そんな幸せな朝食の時間を切り裂くように、一人の伝令兵が駆け込んできました。
「看守長! 大変です! 王都から緊急の使者が参りました! ……それと、その……」
伝令兵は、看守たちが美味そうにマフィンを頬張っている異様な光景に絶句しました。
「何があった。言え」
ギルバート様が、最後の一口を飲み込み、瞬時に氷の看守長の顔に戻ります。
「はっ! 王都の宮廷料理がすべて泥のような味に変貌し、王太子様が激怒されているとのこと。さらに、王太子妃候補のメルティナ様が『聖女の祈り』を捧げても、作物の枯死が止まらないそうです……!」
わたくしは、手元に残ったマフィンを小さく一口食べました。
小麦の優しい甘さが、わたくしの心を満たします。
「あら。わたくしを『不浄の悪女』として追放しておきながら、随分と困っていらっしゃるようですわね」
わたくしがこの監獄に留まり、料理を続けることで、王国の結界となっていた「真の聖女の加護」は、すべてこの奈落監獄へと集まり始めています。
今や、この監獄こそが世界で最も豊かで、最も安全な場所。
「……リリアーヌ。王都の使者は、おそらくお前を連れ戻しに来たのだろう」
ギルバート様がわたくしの肩を抱き寄せ、耳元で低く囁きました。
その声には、隠しきれないほどの独占欲が滲んでいます。
「だが、安心しろ。たとえ王命であっても、俺が貴様を離さない。貴様は俺の……この監獄の、唯一の光だ」
「あら。わたくし、まだ罪人の身ですわよ? 看守長様」
「罪などどうとでもなる。必要ならば、俺がこの国を敵に回してでも、お前の厨房を守ってみせる」
ギルバート様の銀の瞳は、本気でした。
一方、王都側はまだ気づいていないのでしょう。
わたくしという「胃袋の支配者」を失ったことが、どれほど致命的な損失であったかということに。
さて、使者の方には、何をお出ししましょうか。
せっかくですから、彼らが二度と王都に帰りたくなくなるような、最高に不道徳な「おやつ」でも用意して差し上げましょう。




