第2話:鉄仮面の喉が鳴る時
「監獄で夕食、だと……?」
ギルバート看守長の声は、地を這うような低音でした。
彼の銀色の瞳が、わたくしの手元にある黄金色の皿を鋭く射抜きます。
そこには、たっぷりの金牛のバターでソテーされ、蜜がとろりと溢れ出した緋色の焔リンゴが重なっていました。
監獄の冷たく湿った空気が、一瞬にして甘く香ばしい香りに支配されています。
横に立つ若い看守——先ほどまでわたくしを罵倒していた彼は、もはや言葉を失い、喉を激しく上下させていました。
「左様ですわ、看守長。出された食事が、およそ人間の口に運ぶべきものではありませんでしたから。わたくしの自衛策ですわ」
「……ここは奈落監獄だ。魔法を封じ、あらゆる贅沢を剥奪し、罪を償わせるための場所だ。貴様、その聖具をどこから出した」
ギルバート様が、一歩、わたくしの独房に近づきました。
鉄格子の隙間から、彼の高い鼻腔がピクリと動くのが見えます。
彼は厳しい表情を崩しませんが、わたくしの料理人としての目は誤魔化せません。
彼の視線は、皿から立ち上る湯気の動きに、完璧に捕らえられていました。
「どこから、と問われましても。わたくしの誇りが、このフライパンを呼び寄せたとしか申し上げられませんわ」
わたくしは聖具の収納から、これまた繊細な細工が施された銀のフォークを取り出しました。
そして、まだ熱々の焔リンゴを一口サイズに切り分けます。
バターの塩気と、リンゴの果汁が混ざり合い、美しいキャラメル色のソースとなって滴りました。
「……ふう、ふう」
軽く息を吹きかけ、まずはわたくし自身が口に運びます。
その瞬間、脳を突き抜けるような至福が訪れました。
「——んっ、……美味しいですわ」
シャク、という歯ごたえの後に、じゅわりと広がる濃厚な甘み。
金牛のバターの深いコクが、焔リンゴの微かな酸味を包み込み、最高のハーモニーを奏でています。
前世で扱ってきた最高級の食材にも引けを取らない、いえ、魔力を含んでいる分、それを凌駕するほどの生命力に満ちた味でした。
「おい、令嬢……。本当にそれを食っているのか。毒見もなしに」
看守が震える声で尋ねてきました。
「毒? 失礼なことを言わないでくださいまし。これは世界で一番安全で、慈愛に満ちた食べ物ですわよ。……よろしければ、あなたもいかが? 看守さん」
わたくしはフォークに刺した一切れを、鉄格子の隙間から差し出しました。
看守は一瞬、ギルバート様の顔色を窺いましたが、食欲の暴走には勝てなかったようです。
ひったくるようにして、それを口に放り込みました。
「——っ!? なんだ、これ……っ。熱い、けど、うまっ……! 甘いのに、なんだか力が湧いてくる。俺、今まで何を食ってたんだ……? あんな泥の粥、もう二度と食えねえ……!」
若い看守は、涙目になりながら咀嚼していました。
彼は今、この瞬間に「食の喜び」を知ってしまったのです。
「貴様……看守をたぶらかすつもりか」
ギルバート様の冷徹な声が響きましたが、その声には先ほどまでの威圧感が欠けていました。
わたくしは確信します。
彼は今、猛烈にこの料理を欲している。
しかも、単なる空腹ではありません。彼の瞳の奥には、砂漠で水を求めるような、切実な「渇き」が見えました。
「たぶらかすなんて心外ですわ。美味しいものを共有するのは、人間として当然の礼儀でしょう? 看守長様も、そうは思いませんか?」
わたくしは、最後の一切れをフォークに突き刺しました。
それは最も蜜が溜まった、一番美味しい部位です。
「いりませんわよね。鉄仮面と名高い看守長様が、囚人の作ったおやつを欲しがるはずがありませんもの。これはわたくしが——」
「……待て」
わたくしが口に運ぼうとした瞬間、ギルバート様の大きな手が鉄格子を掴みました。
指先が白くなるほどの力です。
「……毒がないか、俺が確かめる」
苦しい言い訳ですわね。
わたくしは心の中で微笑みながら、フォークを彼の唇へと近づけました。
ギルバート様は、プライドと食欲の間で葛藤するように一瞬だけ眉を寄せましたが、やがて諦めたように口を開きました。
熱い一切れが、彼の口内に消えます。
しんと、静寂が訪れました。
ギルバート様は目を見開き、彫像のように固まっています。
一秒、二秒。
やがて、彼の喉が大きく動き、ゴクリと嚥下する音が聞こえました。
「…………味が、する」
消え入るような、掠れた声でした。
「何を、おっしゃっていますの? 味がするのは当たり前でしょう」
「違うんだ。俺は、数年前から呪いの後遺症で、何を食べても砂の味しかしなかった。……腹は減るのに、満たされない。何を食べても、不快感しかなかったんだ」
ギルバート様の銀の瞳が、微かに潤んでいるように見えました。
彼は自分の掌を見つめ、それからわたくしを強く見据えました。
「今、俺の口の中には、暴力的なまでの熱と甘みが残っている。……これは、本物だ。お前、一体何を入れた」
「愛と、少々のバター。そして、わたくしのプライドですわ」
わたくしは胸を張って答えました。
ギルバート様は、そのまま鉄格子に額を押し当てるようにして、荒い息をつきました。
その姿は、冷徹な死神などではなく、迷子の子供のようでもありました。
「……足りない」
「はい?」
「これだけでは、全く足りない。もっとだ。もっと、俺の胃を、この感覚で満たしてくれ……。リリアーヌ・フォン・アスタル。お前をこのまま処刑台に送ることなど、もう、俺の胃袋が許さない」
あら。
どうやら、予想以上に深く「胃袋を掴んで」しまったようですわね。
「看守長様。わたくしにこれ以上の料理を作らせたいのであれば、この不潔な独房と、あの泥の粥をどうにかしていただきたいですわ」
「分かった。……おい、今すぐ彼女を最上階の特別室へ移せ。調理道具と、ありったけの食材を揃えろ。拒否する者は、俺が斬る」
「ええっ!? 看守長、それは職権乱用では——」
若い看守が叫びますが、ギルバート様は「黙れ」と言わんばかりの眼光で黙らせました。
「リリアーヌ。お前は今日から、俺の専属料理人だ。……いいな、誰にも一口もやるな。お前の作るものは、すべて俺が検品べる」
看守長様の瞳に、冷徹な理性の代わりに、ドロリとした執着の炎が灯りました。
どうやら、わたくしの監獄生活は、思わぬ方向へ転がり始めたようです。
でも、望むところですわ。
料理を愛さない者に、未来はありませんもの。
「よろしいでしょう。わたくしの腕、存分に思い知らせて差し上げますわ」
わたくしは優雅にカーテシーを捧げ、心の中で次なる献立を練り始めました。
まずは、あの荒んだ厨房の「大掃除」から始めなくてはなりませんわね。




