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第1話:泥の粥は、わたくしの誇りが許しません

 カチャリ、と重苦しい鉄格子の音が響きました。

 湿った冷気が肌を刺す地下深く。王国の最果てに位置する「奈落監獄」の独房に、わたくし、リリアーヌ・フォン・アスタルは閉じ込められていました。


 数日前まで、わたくしは公爵令嬢として、そして王太子の婚約者として、光り輝く宮廷の中心にいました。

 それが今では、義妹のメルティナを毒殺しようとした稀代の悪女という濡れ衣を着せられ、処刑を待つだけの身です。


「……ふふ。あんな稚拙な罠に引っかかるなんて、わたくしも焼きが回りましたわね」


 自嘲気味に笑い、わたくしは窓のない壁を見つめます。

 魔力を封じる「沈黙の石」で囲まれたこの部屋では、得意の魔法も使えません。

 ですが、わたくしを最も絶望させたのは、死への恐怖ではありませんでした。


 鉄格子の隙間から、無造作に差し入れられた「それ」です。


「……何かしら、この物体は」


 木製のボウルに入っているのは、灰色をしたドロドロの塊でした。

 表面には、この監獄の周りにしか生えないという、不衛生な「ザザ草」の千切れた葉が浮いています。

 鼻を突くのは、古い雑巾を煮詰めたような、耐え難い悪臭。


 わたくしは、震える手でそのボウルを持ち上げました。

 一口、スプーンですくって口に運びます。


「――っ、おえっ……!」


 舌の上に広がったのは、土の味と、腐敗した酸味、そして言葉にできないエグみでした。

 飲み込むことすら拒絶反応が出るような、これを食事と呼ぶにはあまりにも残酷な代物。


 その瞬間、わたくしの中で何かが「プツン」と音を立てて切れました。


 わたくしには、前世の記憶があります。

 現代日本という国で、三つ星レストランの副料理長として、一生を料理に捧げた記憶が。

 食材を愛し、技術を磨き、一口の幸福のためにすべてを賭けてきた魂が。


「ふざけないで……。ふざけないでくださいまし!」


 わたくしはボウルを床に叩きつけました。

 中身が床に飛び散りますが、もったいないという感情は微塵も湧きません。

 これは食材への冒涜です。命への侮辱です。


「誰か! 誰か来なさい! この料理を作った者を、今すぐここに連れてきなさい!」


 わたくしの叫び声が、静まり返った監獄に響き渡りました。

 ほどなくして、慌てた足音が聞こえてきます。

 やってきたのは、腰に鍵をぶら下げた若い看守でした。


「おい、何を騒いでやがる。……あちゃあ、飯をぶちまけやがったのか。贅沢な令嬢様だ。ここじゃそれが最高のご馳走なんだよ」


 看守は呆れたように肩をすくめます。

 その態度は、わたくしの怒りに油を注ぐだけでした。


「ご馳走? これが? 笑わせないで。これはただの汚物ですわ! 泥を混ぜたほうがまだマシな味がするでしょうね」

「なんだと……? この悪女が。罪人の分際で文句を言うな」

「罪人であっても、人間には『食べる』という権利があります。不味いものを食べさせられるのは、死刑よりも重い拷責ですわよ!」


 わたくしは鉄格子を掴み、看守を睨みつけました。

 その瞳に宿った意志の強さに、看守が一歩後ずさります。


「な、なんだよその目は……。だいたい、文句を言ったところで材料もねえし、まともな調理場もねえんだよ」

「材料がない? 道具がない? そんなものは言い訳になりません。本物の料理人なら、石ころからでもスープを取ってみせなさいな!」


 その時です。

 わたくしの胸の奥で、今まで感じたことのない熱い鼓動が脈打ちました。

 魔力を封じられているはずの身体から、黄金の光が溢れ出したのです。


「……えっ? 何だ、この光は!」


 看守が目を覆います。

 わたくしの目の前の空間が歪み、一振りの「フライパン」が姿を現しました。

 それはただの調理器具ではありません。

 柄の部分には美しい宝石が埋め込まれ、表面には神聖な紋章が刻まれています。


 伝説に聞く、使い手の魂を写すという「聖具」。

 剣でも杖でもなく、それは間違いなく「最高級のフライパン」でした。


「聖具……? 魔力封じの監獄で、聖具を発現させたっていうのか……!?」


 看守の驚愕を余所に、わたくしは自然とその柄を手に取っていました。

 しっくりと馴染む重み。

 さらに、わたくしの脳内に不思議な情報が流れ込んできます。


『女神のヘスティア・キッチン』。

 あらゆる食材の潜在能力を引き出し、毒素を浄化し、食べた者の魂を癒やす、伝説の聖調理具。

 その内部には、異世界の極上食材を保管できる「無限収納」まで備わっていました。


「……いいでしょう。誰も作らないというのなら、わたくしが作ります」


 わたくしは、聖具の収納から一つの果実を取り出しました。

 それは、この世界では幻とされる「緋色の焔リンゴ」。

 魔力を蓄え、焼くことで芳醇な蜜が溢れ出す至宝の果実です。


 さらに、本来ここにあるはずのない、最高級の「金牛のバター」を顕現させます。


「おい、貴様……何を始めるつもりだ」


 看守の問いかけには答えません。

 わたくしは、鉄格子の隙間から身を乗り出すようにして、空中にフライパンを固定しました。

 聖具そのものが熱を帯び、パチパチと心地よい音を立て始めます。


 バターを落とせば、一瞬で溶け出し、辺りにナッツのような香ばしく甘い香りが広がりました。

 監獄の腐った臭いが、上質なレストランの厨房のような香りに塗り替えられていきます。


 焔リンゴを素早くスライスし、フライパンへ。

 ジューッ、という小気味よい音が響き、蜜がバターと溶け合って黄金色のソースへと変わっていきます。


「……っ。なんだ、この匂いは。腹が、鳴るじゃないか……」


 看守が、抗いがたい誘惑に負けたように、ゴクリと喉を鳴らしました。


 その時でした。

 通路の奥から、冷徹で重厚な、空気を切り裂くような足音が近づいてきました。


「……何の騒ぎだ」


 低く、地響きのような声。

 そこに立っていたのは、漆黒の軍服に身を包んだ、銀の瞳を持つ男でした。

 奈落監獄の看守長、ギルバート・フォン・アイゼンシュタイン。

 「氷の死神」と恐れられ、一度として感情を見せたことがないという、この監獄の支配者です。


 看守長は、鉄格子の前でフライパンを振るうわたくしと、漂う甘美な香りを交互に見つめました。


「令嬢。貴様、監獄で何を焼いている」


 わたくしは、黄金色に焼き上がった焔リンゴのソテーを皿(これも聖具から出しました)に盛り付けると、優雅に微笑んで答えました。


「見て分かりませんこと? わたくしの、夕食ですわ」


 ギルバート看守長の鋭い視線が、わたくしの手元の料理に突き刺さりました。

 彼の頬が微かに引き攣ったのを、わたくしは見逃しませんでした。


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