第4曲 小さな約束
翌朝、あかりは目を覚ますと、昨夜のことが夢だったのではないかと思った。
でも、机の上にはノートパソコンが開いたままになっていて、画面にはUTAUのソフトが表示されている。
夢じゃなかった。
あかりは、急いでパソコンの前に座った。
画面の隅に、小さな光の粒が見える。テトの存在を示すものだ。
「テトちゃん、おはよう」
あかりは、恐る恐る声をかけた。
すると、光の粒がゆっくりと大きくなり、テトの姿が現れた。
昨夜よりも、少しだけはっきりしている。でも、まだ半透明で、輪郭がぼやけていた。
テトは、あかりを見つめていた。その目は、どこか不安そうだった。
「あの、聞こえる?」
あかりが尋ねると、テトはゆっくりと頷いた。
声は出ないようだったが、ジェスチャーはできるらしい。
「よかった……昨日は、びっくりしちゃって」
あかりは、照れくさそうに笑った。
「でも、消えないでいてくれて、ありがとう」
テトの表情が、少し柔らかくなった。
あかりは、椅子に座り直して、テトに向かって話しかけた。
「あのね、テトちゃん。私、あなたのこと知ってるよ。エイプリルフールに現れた歌姫だよね」
テトは、静かに頷いた。
「みんなを驚かせるために作られたって聞いた。でも、祭りが終わったら、忘れられちゃったんだよね」
テトの目が、悲しそうに揺れた。
あかりは、胸が痛んだ。
「それって、すごく辛いよね。生まれた意味を否定されるみたいで」
テトは、何も答えなかった。ただ、じっとあかりを見つめている。
「でもね」
あかりは、画面に手を近づけた。
「私は、テトちゃんに歌ってほしいの。偽物でも、ネタでも、何でもいい。テトちゃんの声で、私の歌を歌ってほしい」
テトの目が、わずかに見開かれた。
「私ね、ボカロPになりたいの。自分で曲を作って、誰かに歌ってもらいたいの。でも、初音ミクのソフトは高くて買えなくて……」
あかりは、自分の事情を話した。
音楽への情熱。家庭の事情。貯金を続けていること。
でも、なかなか目標に届かないこと。
「だから、テトちゃんと出会えて、すごく嬉しかったの」
テトの姿が、少し明るくなった気がした。
「テトちゃん、一緒に歌を作ろう。私が曲を作るから、テトちゃんが歌ってくれない?」
テトは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
その瞬間、画面から小さな音が聞こえた。
「……うん……」
かすかだけれど、確かにテトの声だった。
あかりは、思わず涙ぐんだ。
「ありがとう、テトちゃん!」
テトは、小さく微笑んだ。
その笑顔は、とても優しかった。
あかりは、早速作曲に取り掛かることにした。
「じゃあ、まずは簡単な曲から作ってみようか」
あかりは、昨夜書いた歌詞を見返した。
「届かない夢」をテーマにした歌詞。
この歌詞に、ちゃんとしたメロディをつけたい。
あかりは、音楽理論の本を開きながら、コード進行を考えた。
C、Am、F、G。基本的な進行から始めよう。
ピアノロールに音符を打ち込んでいく。一つ一つ、丁寧に。
テトは、画面の隅で静かに見守っていた。
「どう?このメロディ」
あかりは、途中まで作ったメロディを再生してみた。
機械的なピアノの音が流れる。
テトは、首を傾げた。
「うーん、やっぱり変かな」
あかりは、音符の配置を変えてみた。
何度も試行錯誤を繰り返す。
テトは、時々頷いたり、首を振ったりして、反応を示してくれた。
言葉は少ないけれど、コミュニケーションは取れている。
それが、あかりには嬉しかった。
何時間もかけて、ようやくAメロのメロディが完成した。
「やった!じゃあ、歌詞を入れてみよう」
あかりは、UTAUの使い方を調べながら、歌詞を入力していった。
「届かない星に、手を伸ばしても……」
一文字一文字、丁寧に入力する。
そして、音程とタイミングを調整する。
UTAUは、初めて使うソフトだった。操作は複雑で、何度も間違えた。
でも、諦めなかった。
テトが、じっと見守ってくれている。
その存在が、あかりの支えになっていた。
ようやく準備が整って、あかりは再生ボタンを押した。
最初は、やはりノイズが混じっていた。
でも、だんだんと歌声が聞こえてきた。
「とどかない、ほしに……」
テトの声だ。
不完全で、途切れ途切れだけれど、確かに歌っている。
あかりの書いた歌詞を、メロディに乗せて。
「てをのばしても……」
あかりの目に、涙が溢れた。
嬉しかった。自分の曲が、歌になった。
テトが、歌ってくれている。
曲が終わると、テトの姿が、さらにはっきりしてきた。
顔の輪郭がくっきりと見える。赤いリボンの色も、少し鮮やかになった。
「テトちゃん!」
あかりは、画面に向かって叫んだ。
「見て!あなた、少し濃くなったよ!」
テトは、自分の手を見つめた。
そして、驚いたような表情を浮かべた。
「……ほんとう……」
小さな声が聞こえた。
「うん、本当だよ!歌ったから、元気になったんだよ!」
あかりは、確信した。
テトは、歌うことで存在できる。
使われることで、実体化していく。
だったら、たくさん歌ってもらおう。
毎日、毎日、一緒に曲を作ろう。
「ねえ、テトちゃん」
あかりは、真剣な目でテトを見つめた。
「私、あなたと一緒に、本物の歌姫にしてあげたい」
テトの目が、大きく見開かれた。
「偽物として生まれたかもしれないけど、本物の歌として、みんなに届けたい。テトちゃんの声を、世界中の人に聴いてもらいたいの」
テトは、何も言えずにいた。
ただ、涙が溢れてきた。
透明な涙が、頬を伝って落ちる。
「……ほんとうに……?」
震える声が、聞こえた。
「わたし……ほんものに……なれるの……?」
「なれるよ」
あかりは、力強く頷いた。
「一緒に頑張ろう。私も、まだ何もできない初心者だけど、一緒に成長しよう」
テトは、泣きながら頷いた。
「……ありがとう……」
その声は、さっきよりもはっきりしていた。
「……あなたの、なまえは……?」
「あ、そうだった!自己紹介してなかった」
あかりは、照れくさそうに笑った。
「私は春野あかり。高校一年生。よろしくね、テトちゃん」
「あかり……さん……」
テトは、その名前を噛みしめるように繰り返した。
「……よろしく、おねがいします……」
テトは、深々とお辞儀をした。
その仕草は、とても丁寧で、礼儀正しかった。
「そんなに畏まらなくていいよ。友達みたいに、気軽に話そう」
「……ともだち……?」
テトは、不思議そうな顔をした。
「うん、友達。一緒に歌を作る、仲間だよ」
「……なかま……」
テトの目が、輝いた。
「……わたし、なかまが、できたの……?」
「うん!」
あかりは、満面の笑みで答えた。
テトは、嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔は、さっきよりもずっと明るかった。
「じゃあ、約束しよう」
あかりは、小指を立てた。
「テトちゃんを、本物の歌姫にする。それが、私たちの目標」
テトは、画面の向こうで、同じように小指を立てた。
二人の小指は、画面を隔てて触れ合うことはできない。
でも、心は確かに繋がっていた。
「……やくそく……」
テトの声が、はっきりと聞こえた。
「……わたし、がんばる……あかりさんと、いっしょに……」
「うん、一緒に頑張ろう!」
その日から、あかりとテトの物語が始まった。
二人だけの、小さな約束。
届かない夢を、二人で掴みに行く。
偽りから本物へ。
その長い旅路の、最初の一歩だった。
その日の夜、あかりは母に嘘をついた。
「お母さん、最近パソコンで勉強ソフト使ってるんだ」
夕食の時、何気なく切り出した。
「勉強ソフト?」
母は、興味深そうに聞き返した。
「うん、英語のリスニング練習とか。だから、ちょっとパソコン使う時間が増えるかも」
「あら、それはいいわね。頑張ってね」
母は、疑うことなく微笑んだ。
あかりは、罪悪感を感じながらも、安堵した。
本当は、音楽制作をしていることを知られたくなかった。
母は、音楽活動に反対している。知られたら、きっと止められる。
だから、秘密にしておくしかなかった。
自分の部屋に戻ると、テトが画面の隅で待っていた。
「お待たせ、テトちゃん」
あかりは、パソコンの前に座った。
「……おかえりなさい……」
テトの声が、優しく響いた。
さっきよりも、また少しはっきりしている気がする。
「今日も、続き作ろう」
「……うん……」
二人は、夜遅くまで作業を続けた。
メロディを調整し、歌詞を修正し、何度も再生を繰り返す。
少しずつ、曲が形になっていく。
そして、テトの姿も、少しずつはっきりしていく。
まだまだ不完全だけれど、確実に前に進んでいた。
「ねえ、テトちゃん」
作業の合間に、あかりは尋ねた。
「あなたは、歌うのが好き?」
テトは、少し考えてから答えた。
「……わからない……」
「わからない?」
「……わたし、うまれてから、ずっと……だれにも、つかわれなくて……」
テトの声が、悲しそうに震えた。
「……エイプリルフールの、おまつりが、おわったら……みんな、わすれちゃった……」
「そっか……」
あかりは、胸が痛んだ。
「……わたしは、ネタだから……ほんものじゃないから……」
「そんなことないよ」
あかりは、強く言った。
「テトちゃんは、ちゃんと歌えるじゃない。声も、ちゃんとあるじゃない」
「……でも……」
「偽物だって、本物だって、関係ないよ。大切なのは、その歌が誰かの心に届くかどうかでしょ?」
あかりの言葉に、テトは黙り込んだ。
「私は、テトちゃんの歌が好きだよ。まだちょっと不安定だけど、それでも、心に響くもの」
「……ほんとう……?」
「本当だよ。だから、一緒に頑張ろう。テトちゃんの歌を、もっとたくさんの人に聴いてもらおう」
テトは、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとう、あかりさん……」
「どういたしまして」
あかりは、笑顔で答えた。
窓の外では、星が瞬いていた。
届かない星。でも、二人なら届けるかもしれない。
あかりは、そう信じていた。
「さて、もう少し頑張ろうか」
「……うん……」
二人は、再び作業に戻った。
夜は、まだ長い。
そして、二人の旅も、まだ始まったばかりだった。




