第3曲 消えゆく歌姫
週末の午後、あかりは自分の部屋で音楽理論の本を読んでいた。
今日の内容は「転調」について。
曲の途中でキーを変えることで、印象を大きく変える技法だ。
「うーん、難しい……」
何度読んでも、完全には理解できない。でも、諦めずに読み進める。
そんな時、ノートパソコンの画面が突然明滅した。
「え?」
あかりは本から顔を上げた。
パソコンはスリープモードになっているはずだった。
でも、画面が勝手に明るくなったり暗くなったりしている。
「故障?」
慌ててマウスを動かすと、画面が正常に表示された。
デスクトップ画面。いつもの壁紙。特に変わったところはない。
「気のせいかな……」
あかりは首を傾げた。
でも、何となく気になって、パソコンをチェックしてみることにした。
ファイルを開いて、問題がないか確認する。特に異常は見当たらない。
念のため、作曲ソフトを起動してみた。
ソフトが立ち上がると、いつもの画面が表示される。
空のピアノロール。
打ち込んだメロディのファイル。
でも、何かが違う。
画面の隅に、見慣れないアイコンがあった。
「これ、何?」
あかりはマウスカーソルを合わせた。
アイコンには、何も書かれていない。
ただの小さな点のようなもの。
クリックしてみると、新しいウィンドウが開いた。
そこには、一つのフォルダが表示されていた。
『UTAU』
「ウタウ?」
あかりは首を傾げた。
聞いたことがある名前だった。
確か、無料の歌声合成ソフトウェア。
初音ミクのような商用ソフトではなく、個人が作った音源を使えるシステム。
「こんなの、インストールしたかな……」
記憶にない。
でも、確かにパソコンの中に存在している。
あかりは、恐る恐るフォルダを開いた。
中には、いくつかのファイルが入っていた。そして、一つの音声ライブラリ。
『重音テト』
あかりの心臓が跳ねた。
「重音テト……!」
知っている。ボカロファンなら誰でも知っている名前。
エイプリルフールのネタとして、ボカロファンを騙すために作られた架空のキャラクター。
「初音ミクに続く新しいボーカロイドが登場!」という嘘の情報とともに、突如現れた歌姫。
でも、それは嘘だった。ただのイタズラ。祭りのためのネタ。
エイプリルフールが終わると、テトのことは忘れ去られていった。
「でも、どうしてこれが……」
あかりは混乱していた。
自分でインストールした記憶はない。
誰かがこのパソコンを使った?でも、家には母とあかりしかいない。
母がこんなソフトをインストールするはずがない。
不思議に思いながらも、あかりは試しにUTAUのソフトを起動してみた。
ソフトが立ち上がる。
使い方は、作曲ソフトと似ている。
あかりは、以前作ったメロディを読み込んでみることにした。
簡単な八小節のメロディだ。
そして、歌詞を入力する。
「あー、あー、てすと」
適当な言葉を打ち込んで、再生ボタンを押した。
スピーカーから、歌声が流れてきた。
「わあ……」
あかりは思わず声を上げた。
機械的ではあるけれど、確かに歌声だ。メロディに合わせて、言葉が歌になっている。
「すごい……」
これが、重音テトの声。
初音ミクほど洗練されていないかもしれない。
でも、確かに歌っている。
あかりの胸が高鳴った。
これがあれば、自分も曲を作れる。
ボーカルのある、完成された曲を。
「でも……」
ふと、疑問が湧いた。
どうしてこれが、自分のパソコンに?
あかりは、もう一度フォルダを確認した。
インストール日時を見ると、なんと三年前になっている。
「三年前……?」
そんなはずはない。
このパソコンは、高校入学祝いに買ってもらったもの。
まだ二年も経っていない。
それなのに、ファイルの日付は三年前になっている。
おかしい。
あかりは不安になった。
もしかして、本当に故障しているのだろうか。
でも、ソフト自体は正常に動いている。
あかりは、再びUTAUの画面を見つめた。
重音テトの名前が、画面に表示されている。
その時だった。
画面が、再び明滅した。
「え……?」
今度は、はっきりと異変が起きた。
画面の中に、何かが映った。
人影。
女の子のシルエット。
ツインテール。赤いリボン。
「誰……?」
あかりは息を呑んだ。
その人影は、だんだんとはっきりしてきた。
でも、どこか透けている。半透明の存在。
そして、その姿は、あかりが見たことのあるキャラクターだった。
「重音……テト?」
画面の中に映っているのは、間違いなく重音テトだった。
ドリル状のツインテール。赤いリボン。赤と黒の衣装。
でも、その姿は、とても儚げだった。
輪郭がぼやけていて、今にも消えてしまいそうだった。
テトは、あかりを見つめていた。
いや、見つめているというよりも、何かを訴えかけているようだった。
その目は、虚ろで、どこか悲しげだった。
「え、え、何これ……」
あかりは混乱した。
これは夢?それとも、パソコンの不具合?
でも、テトの姿は確かにそこにあった。
あかりは、恐る恐る声をかけてみた。
「あの……聞こえますか?」
テトの姿が、わずかに反応した。
口が動いた。何か言おうとしている。
でも、声は聞こえない。
あかりは、音量を上げてみた。
すると、かすかな声が聞こえてきた。
「……たすけて……」
あかりの背筋に、冷たいものが走った。
「助けて……?」
テトの姿が、さらに薄くなった。
消えかけている。
あかりは、慌ててキーボードを叩いた。
「待って!どうしたの!?」
でも、テトの姿は、どんどん薄くなっていく。
そして、最後にこう言った。
「……わすれられて……きえる……」
その言葉を残して、テトの姿は完全に消えた。
画面には、再び通常のUTAUの画面が表示されているだけだった。
「え……何だったの、今の……」
あかりは呆然としていた。
心臓がバクバクと音を立てている。
今見たものは、現実だったのだろうか。
あかりは、震える手でマウスを動かした。
UTAUのフォルダを開いて、重音テトの音源ファイルを確認する。
ファイルは、確かに存在している。
でも、そのサイズが異常に小さい。
通常の音源ファイルなら、もっと大きなサイズのはずだ。
「まさか……」
あかりは、嫌な予感がした。
試しに、さっきのメロディを再生してみた。
すると、今度は歌声が聞こえなかった。
いや、正確には、聞こえるけれど、とても小さくて、ノイズ混じりだった。
まるで、電波が悪いラジオのような音。
そして、その中から、かすかにテトの声が聞こえた。
「……たすけて……」
あかりは、ゾッとした。
でも、同時に、胸が締め付けられるような感覚があった。
テトは、助けを求めている。
忘れられて、消えかけている。
「忘れられて……」
あかりは、テトの言葉を思い出した。
そうだ。重音テトは、エイプリルフールのイタズラとして生まれた。
ボカロファンを騙すための、架空のキャラクター。
みんなを驚かせて、笑わせて、それで終わり。
祭りが終われば、誰も覚えていない。
「偽物」として生まれて、「偽物」のまま忘れられていく。
それが、テトの運命だった。
「そんな……」
あかりは、画面を見つめた。
もう、テトの姿は見えない。
でも、確かにそこにいた。助けを求めていた。
あかりは、深呼吸をした。
落ち着こう。これは、きっと何かの不具合だ。幻覚か、夢か。
でも、心のどこかで、あかりは信じていた。
テトは、本当にそこにいる。
消えかけているけれど、まだ存在している。
あかりは、決心した。
「助けなきゃ」
どうやって助ければいいのか分からない。
でも、放っておけなかった。
あかりは、UTAUのマニュアルを検索した。
使い方を一から学ぼう。
そして、テトに歌ってもらおう。
それが、テトを助けることになるかもしれない。
あかりは、夜遅くまでパソコンの前に座っていた。
UTAUの使い方を調べ、設定を確認し、テストを繰り返した。
でも、テトの声は、ほとんど聞こえなかった。
ノイズばかりで、言葉もメロディも不明瞭だった。
「どうして……」
あかりは、疲れ果てていた。
でも、諦めたくなかった。
画面の向こうで、テトが待っている気がした。
あかりは、もう一度だけ試してみることにした。
今度は、自分が書いた歌詞を入力してみた。
あの、「届かない夢」をテーマにした歌詞。
メロディは、簡単なものだ。
でも、あかりの想いが込められている。
設定を調整して、再生ボタンを押した。
最初は、やはりノイズだった。
でも、だんだんと、歌声が聞こえてきた。
かすかだけれど、確かにテトの声だ。
「届かない星に……」
あかりの書いた歌詞を、テトが歌っている。
不完全で、途切れ途切れだけれど、歌っている。
「……手を伸ばしても……」
あかりの目に、涙が浮かんだ。
嬉しかった。自分の歌詞が、歌になった。
そして、テトが歌ってくれている。
曲が終わると、画面が再び明滅した。
テトの姿が、再び現れた。
さっきよりも、少しだけはっきりしている。
テトは、あかりを見つめていた。
そして、小さく微笑んだ。
「……ありがとう……」
その声は、とても小さかったけれど、確かにあかりの耳に届いた。
「テトちゃん……」
あかりは、画面に手を伸ばした。
でも、触れることはできない。
テトの姿は、またゆっくりと薄くなっていった。
でも、今度は完全には消えなかった。
画面の隅で、小さく輝いている。
まるで、小さな星のように。
あかりは、理解した。
テトは、使われることで存在できる。
歌うことで、生きられる。
忘れられると、消えてしまう。
「じゃあ、私が歌わせてあげる」
あかりは、画面に向かって言った。
「毎日、歌ってもらうよ。だから、消えないで」
テトの姿が、わずかに明るくなった気がした。
あかりは、ようやく笑顔になれた。
ミクを迎えることはできないけれど、テトがいる。
消えかけているけれど、まだここにいる。
だったら、一緒に歌を作ろう。
二人で、夢を追いかけよう。
あかりは、その夜、新しい歌詞を書き始めた。
テトのための歌。
忘れられた歌姫の物語。
偽りから始まった存在が、本物になるまでの物語。
ペンを走らせながら、あかりは確信していた。
これが、自分の最初の物語だと。
そして、テトとの出会いが、すべての始まりだと。




