第1曲 憧れの歌姫たち
放課後の教室は、すでに夕日に染まっていた。
窓際の席で、春野あかりは小さなイヤホンを耳に押し込み、スマートフォンの画面を食い入るように見つめている。
画面に映るのは、ライブステージで歌う初音ミクの姿だ。
ツインテールが光の中で踊り、透き通るような歌声が会場を満たしていく。
何万人もの観客が、その歌声に酔いしれている。
画面越しでも伝わってくる、あの熱気。
あの一体感。
あの、言葉にできない感動。
「すごい……」
あかりは思わず呟いた。
何度見ても、この光景は胸を熱くさせる。
バーチャルシンガーという存在が、こんなにも多くの人を魅了している。
ステージの上で輝くミクは、まるで本物のアーティストのようだった。
いや、むしろそれ以上かもしれない。
ミクの歌声は、誰かが作った曲を歌っている。
ボーカロイド・プロデューサー、通称ボカロP。
彼らが紡いだメロディと言葉を、ミクが命を吹き込んで歌い上げる。
その関係性が、あかりにはたまらなく魅力的だった。
「あかりー、まだ見てるの?」
背後から声がかかって、あかりは慌ててイヤホンを外した。
振り返ると、クラスメイトの美咲が呆れたような顔で立っている。
「また初音ミクのライブ?もう何回目よ、それ」
「えへへ、だって何度見ても飽きないんだもん」
あかりは照れくさそうに笑った。
美咲は首を横に振りながらも、どこか微笑ましそうな表情を浮かべている。
「あかりって本当にボカロ好きだよね。いつも休み時間もボカロの曲聴いてるし」
「うん!もう大好き!」
あかりは目を輝かせて答えた。
本当に、心の底から好きなのだ。
ボカロの曲を聴いている時間が、一日の中で最も幸せな時間だった。
「でもさ」と美咲が少し真面目な顔になる。
「あかりって、自分でも曲作りたいって言ってたよね?」
「う、うん……」
その言葉に、あかりの表情が少し曇った。
そう、聴くだけじゃなくて、自分でも作りたい。
ボカロPになって、自分の曲を世界に届けたい。それが、あかりの夢だった。
でも、夢と現実は違う。
「初音ミクのソフト、買えそう?」
「それが……まだ無理かな」
あかりは力なく笑った。
初音ミクのソフトウェアは、高校生のあかりにとって決して安い買い物ではない。
親に頼むという選択肢もあったが、母は音楽活動にあまり良い顔をしなかった。
「勉強に集中しなさい」
母の口癖だった。
あかりは進学校に通っていて、母は大学進学を強く望んでいる。
音楽なんて、趣味で聴くくらいならいい。
でも、それ以上のことに時間を使うのは許されない。
「お小遣い、貯めてるんだけどね」
あかりはスマートフォンをポケットにしまいながら言った。
「毎月のお小遣いを少しずつ貯金してる。でも、まだ全然足りなくて」
「そっか……大変だね」
美咲は同情するような目で見つめてきた。
あかりは慌てて首を振る。
「大丈夫大丈夫!いつか絶対に買えるから。それまでは、勉強するよ」
「勉強?」
「音楽理論!」
あかりは胸を張って答えた。
「ソフトを買えない間に、音楽の勉強をしておこうと思って。コード進行とか、メロディの作り方とか、いろいろ本で勉強してるんだ」
実際、あかりの鞄の中には音楽理論の入門書が入っている。
図書館で借りた本を、毎晩少しずつ読んでいた。
正直、難しい。
何度読んでも理解できない部分もある。
でも、諦めたくなかった。
いつかボカロPになるために、今できることをやるしかない。
「あかりって、本当に努力家だよね」
美咲がしみじみと言った。
「私だったら絶対に続かないよ。難しい理論とか勉強するなんて」
「そうかな?私、結構おっちょこちょいだから、よく間違えるけどね」
「それはまあ……否定できないけど」
二人は顔を見合わせて笑った。
あかりは確かにおっちょこちょいだった。
授業中にノートを落としたり、提出物の締め切りをギリギリまで忘れていたり。
周りからは「天然」と言われることもある。
でも、好きなことには一途だった。ボカロへの愛は誰にも負けない自信がある。
「じゃあ、私帰るね。また明日」
「うん、バイバイ」
美咲が教室を出て行くと、あかりは再びスマートフォンを取り出した。
今度はミクのライブ映像ではなく、動画サイトを開く。
お気に入りのボカロPたちの新曲をチェックするのが、毎日の日課だった。
画面をスクロールしていくと、今日も新しい曲がたくさんアップロードされている。
どれも素晴らしい曲ばかりだ。
あかりは一つの動画をタップした。
『夜空のメロディ / 初音ミク』
再生数は既に十万回を超えている。
まだ投稿されて三日しか経っていないのに、この数字。
イントロが流れ始めた瞬間、あかりの心は掴まれた。
切ないピアノの旋律。
そこに重なるミクの歌声。
歌詞は、届かない想いを歌っていた。
大切な人に気持ちを伝えられない少女の物語。
ミクの歌声が、その感情を完璧に表現している。
「すごい……」
曲が終わる頃には、あかりの目には涙が浮かんでいた。
こんな曲を作れる人たちが、本当に羨ましい。
自分の想いを音楽にして、ミクに歌ってもらえる。
そして、それが何万人もの人に届く。
あかりも、いつかこんな曲を作りたい。
自分だけの物語を、ミクに歌ってもらいたい。
「いつか、絶対に……」
あかりは小さく呟いた。
窓の外では、夕日が沈みかけている。
オレンジ色の光が教室を染めていた。
あかりは鞄を掴んで立ち上がった。
帰って、また音楽理論の本を読もう。
今日は「テンションコード」の章まで進めたい。
教室を出ようとした時、ふと掲示板が目に入った。
そこには、様々な部活動の勧誘ポスターが貼られている。
軽音楽部、合唱部、吹奏楽部……音楽系の部活は充実している学校だった。
でも、あかりが興味を持っているのは、生の楽器ではなく、デジタルの音楽だ。
ボカロという、新しい音楽の形。
この学校に、ボカロ部みたいなものがあればいいのに。
そう思いながら、あかりは校舎を後にした。
家に帰ると、母はまだ仕事から帰っていなかった。
父は三年前に他界している。今は母と二人暮らしだ。
あかりは自分の部屋に入ると、机の上にあるノートパソコンを開いた。
このパソコンは、高校入学祝いに買ってもらったものだ。
スペックはそこまで高くないが、ネットサーフィンをしたり、動画を見たり、文書を作成したりするには十分だった。
ただ、音楽制作には少し心許ない。
あかりは無料の作曲ソフトをダウンロードしていた。
フリーウェアのDAWと呼ばれるソフトだ。
これで、簡単なメロディなら打ち込むことができる。
ただ、肝心のボーカルがない。
初音ミクのソフトがあれば、このDAWと組み合わせて曲を作ることができるのに。
あかりは画面に表示された空のピアノロールを見つめた。
ここに、自分の想いを形にしたい。でも、今の自分にはその手段がない。
「いつか、絶対に……」
再び、同じ言葉を呟いた。
あかりは鞄から音楽理論の本を取り出した。
今日も勉強しよう。
一歩ずつ、夢に近づいていくために。
ページを開いて、テンションコードの説明を読み始める。
セブンスコード、ナインスコード、イレブンスコード……
「うーん、難しい……」
正直、何が何だか分からない部分も多い。
でも、諦めない。
何度も読み返せば、きっと理解できる。
あかりは蛍光ペンで重要な部分にマーカーを引きながら、少しずつ読み進めていった。
時計を見ると、既に午後七時を過ぎていた。そろそろ母が帰ってくる時間だ。
あかりは本を閉じて、階下に降りた。夕食の準備をしなければ。
冷蔵庫を開けて、今夜の献立を考える。
昨日買った野菜と、冷凍してある肉を使って、何か作ろう。
料理をしながら、あかりの頭の中ではミクの歌声が響いていた。
さっき聴いた『夜空のメロディ』のメロディが、頭から離れない。
あんな曲を、自分も作ってみたい。
切ないメロディ。心に響く歌詞。
そして、それを完璧に歌い上げるミクの声。
「いつか……」
三度目の呟き。
でも、「いつか」はいつなのだろう。
貯金は、まだ目標額の半分にも届いていない。
このペースだと、あと一年以上かかる計算だ。
一年後、自分は高校三年生。受験生だ。
そんな時期に、音楽制作を始められるだろうか。
母は絶対に許さないだろう。
「どうしたらいいんだろう……」
あかりは小さく溜息をついた。
その時、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
母の声だ。
「おかえりなさい」
あかりは明るい声で答えた。
母の前では、悩んでいる顔を見せたくなかった。
「あら、もう夕食の準備してくれてるの?ありがとう」
母がキッチンに入ってきて、あかりの頭を優しく撫でた。
「お母さん、今日は遅くなっちゃって。助かるわ」
「ううん、大丈夫だよ」
母は疲れた表情をしていた。
看護師として働く母は、毎日忙しい。
あかりのために、一生懸命働いてくれている。
だから、これ以上負担をかけたくなかった。
音楽がやりたいなんて、わがままは言えない。
「そういえば、あかり」
母が着替えから戻ってきて、食卓に座りながら言った。
「次の中間テスト、頑張ってね。三年生になったら受験だから、今のうちから成績を上げておかないと」
「うん、分かってる」
あかりは作り笑顔で答えた。
母の期待に応えたい。
でも、音楽への想いも諦めたくない。
二つの気持ちの間で、あかりの心は揺れていた。
夕食を食べながら、母は仕事の話をしていた。
あかりは相槌を打ちながら、心ここにあらずという状態だった。
頭の中では、ミクの歌声が鳴り続けている。
食事が終わって、片付けを済ませると、あかりは再び自分の部屋に戻った。
ノートパソコンは、スリープモードになっている。
画面をタップして起動させると、さっきの作曲ソフトの画面が表示された。
空のピアノロール。
あかりは、試しにマウスで音符を打ち込んでみた。
ドレミファソラシド、基本的な音階だ。
再生ボタンを押すと、機械的なピアノの音が鳴った。
味気ない音だ。感情も何もない。
ここに、ボーカルが加われば……。ミクの歌声が響けば、きっと全然違う印象になるはずだ。
「ミクちゃん……」
あかりは画面の中のピアノロールに向かって呟いた。
「いつか、あなたに歌ってもらいたいな」
もちろん、返事はない。
ただの音楽制作ソフトの画面が、静かにあかりを見つめているだけだった。
あかりは、マウスを動かして、もう少し複雑なメロディを打ち込んでみた。
音楽理論の本で学んだコード進行を試してみる。
C、Am、F、G。基本的な進行だ。
再生してみると、確かにそれっぽい響きになった。
でも、何かが足りない。
やっぱり、ボーカルだ。
歌声がないと、曲は完成しない。
「いつになったら、ミクちゃんを迎えられるんだろう……」
あかりは再び溜息をついた。
窓の外を見ると、夜空には星が瞬いていた。
あの星空の下で、今も誰かがミクに歌わせた曲をアップロードしているのだろう。
世界中で、無数のボカロPたちが活動している。
あかりも、その一人になりたかった。
「絶対に、諦めない」
あかりは小さく呟いて、再びパソコンの画面に向き直った。
今は、できることをやるしかない。
音楽理論の勉強を続けて、メロディ作りの練習をして、いつかミクを迎える日のために準備をしておく。
その日が来るまで、夢を見続けよう。
憧れの歌姫に、自分の曲を歌ってもらう日を。
あかりは、空のピアノロールに向かって、また一つ音符を打ち込んだ。
夜は、まだ長い。
そして、あかりの夢への道のりも、まだまだ長かった。




