第三話「鉛筆の芯と赤の具」
絵画教室の日は、空の色がよく目に入る。
日曜の昼前、柚葉は自転車をこいでいた。建物の間を抜けて見上げた空は、真っ青というより、どこか水気のある薄い群青。日差しはあったが、風がすっと背中を押してくる。教室は月に一度、公共施設の小さな会議室で開かれている。
会場に着くと、すでに何人かが準備を始めていた。いつもの円卓。中央に置かれたモチーフは、透明な瓶と、一房のぶどう。そして少しずつしおれかけた赤いダリアの花。
すぐに「好きな形」の意味がわかるわけではなかった。でも、そこにはきっと、何かしらの「余白」があるのだと思った。
講師の園田さんが、椅子に座ったまま声をかけた。
「今日のテーマは『記憶の残り香』ってことでね。いつもより、感情を乗せて描いてみてください」
ざわめきの中で、柚葉はいつもどおり席を選び、スケッチブックを広げた。鉛筆を手に取る。描きはじめると、周囲の声はだんだん遠くなっていく。
まずは構図。瓶の傾き、ぶどうの粒の位置、そしてダリアの茎の折れ具合。鉛筆の芯でなぞる線が、机の振動にわずかに揺れた。紙のざらつきに触れながら、彼女は少しずつ世界との距離を測っていった。
と、そのとき。
「柚葉さん、ぶどうの影ってそんなに濃くするんですね。理由あるんですか?」
すぐ隣の席、高橋エミが、興味深そうに声をかけてきた。
「あ、いや……なんとなく……」
声に出した瞬間、自分でも拍子抜けするような返答だった。思っていることはあったのに、急に言葉にしようとすると、芯のない返事になってしまう。なぜ濃くしたのか。影の部分に惹かれていたのは確かだ。だけど、どうしてなのかを、口に出す言葉に変えることができなかった。
エミはそれ以上追及せず、「へえ」とだけ言って、また自分の画面に向き直った。
けれど、柚葉の手は止まっていた。
そのまま描き続けていればよかったのに、頭の中でぐるぐると、言えなかった答えを探し始めてしまう。
——なぜ、ぶどうの影を濃くしたのか。
家に帰る道すがら、柚葉は考えていた。午後の光はやわらかく、歩道の植え込みに咲いた紫の花が風に揺れている。
言えなかったことが、ずっと体のどこかに引っかかっている。それが恥ずかしさなのか、もどかしさなのか、自分でもはっきりしない。
部屋に戻っても、彼女はバッグを置いたまま、ノートを取り出した。
「影に惹かれたのは、たぶん、それが“あるのにない”ものだったから」
そう書いたあと、しばらくじっとしていた。
「光があるから、影がある。でも、影そのものには輪郭がない。それでも、形を残している。そういうものを、私は信じたくなるらしい」
書いた文章を何度も読み返しているうちに、自分のなかで納得できる部分が少しずつ浮かんできた。
——ああ、そうか。だから濃くしたんだ。
描くときは、言葉にしていなかった。でも、あの一瞬の選択には、ちゃんと理由があった。エミの問いかけがなければ、それに気づけなかったかもしれない。
柚葉は絵を持ち帰っていたスケッチブックを開き、完成したばかりの静物画を改めて見つめた。
ダリアの赤が、思っていたよりも強く、画面の中で浮き上がっていた。その色が、どこか自分の中の何かと重なって見えた。
「赤は、熱じゃなくて、残った温度」
ぽつりとそうつぶやきながら、柚葉はノートに書き足した。
「“赤の具”は、燃えているわけじゃない。ただ、燃え終わったあとに残っていた熱の記憶を、水に溶かしたようなもの。だから、にじむ。だから、染みる。」
書きながら、自分の言葉に少しだけ驚いていた。
ふだん、絵を描くときにはこんなふうに意味を探そうとはしない。ただ、筆に任せて、色と形の流れに乗る。けれど、それらの無意識の選択に、こんなにもはっきりと「思い」が混ざっていることに気づけたことが、今日の収穫だった。
思えば、ノートに言葉を書くようになってから、自分の中で少しずつ「つながる」感覚が増えてきたような気がする。
断片だった感情に、ことばという細い糸がかかる。
まだまだ全てを編めるわけじゃない。でも、たった一つの言葉でも、その糸を引っ張れば、沈んでいたものが水面に浮かび上がってくる。
そんなふうに思えたのは、今日が初めてだったかもしれない。
夜、部屋の明かりの下で、柚葉は再び鉛筆を手に取り、描きかけのスケッチの端に、静かに陰影を足した。
強い赤のそばに、深いグレーを置くと、どちらの色も落ち着いて、きちんと画面の中で呼吸するようになった。
余白もまた、意味の一部。
彼女はスケッチを閉じ、ノートにそっと一文を書き添えた。
「意味のないことなんて、本当はなかった。ただ、まだ言葉がないだけだった」
その言葉と一緒に、鉛筆の芯の小さなかけらが、机の上に転がった。