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第二話「冷めかけのコーヒー」

土曜の午後、柚葉は駅近くのカフェにいた。カウンターの角の席。通路を挟んで反対側では、二人組の若い女性がスマホを見ながら笑っている。


ノートを開き、ペンを持ったものの、書き始めることができなかった。


テーブルの上には、コーヒーと、かすかに溶けかけた氷の入った水のグラス。スピーカーからはジャズのような曲が流れている。人の声と音楽と、カップを置く音が混じっている。ざわめきは嫌いではないが、言葉を選ぶのには少しうるさかった。


向こうの会話が断片的に耳に入ってきた。


「……あのときさ、ぜんっぜん空気読めてなかったよね〜」

「え、でも言わなきゃ伝わんなくない?」


声の調子が、まるで感情に輪郭をつけているように聞こえた。言葉よりも、話すときのテンポや、抑揚の方がその人の考えを表している気がする。内容は、よくわからない。けれど、あの空気を支配しているのは、言葉そのものじゃない。


柚葉はノートに、ゆっくりとこう書いた。


「わかってもらいたい気持ちと、わかってほしくない気持ちは、同じ場所にいることがある」


書いた瞬間、それがただの理屈じゃなく、自分のなかでずっと居場所を持たずに漂っていた感情だったと気づく。言語化する前は、それが何だったのかもわからなかった。ただ、重さだけが残っていた。


彼女はさらに続ける。


「音楽で例えると、旋律じゃなくて、で伝わることもある。話すときも同じ。言葉は旋律で、間が呼吸。私は間が先に来てしまう。」


ふと、カップを手に取った。冷めかけたコーヒーの表面に、店内の灯りがゆらめいていた。熱はなくても、苦味は変わらない。それはそれで悪くなかった。


家に帰っても、カフェでのざわめきが耳の奥に残っていた。なにか、まだ片付いていない感覚があった。


テーブルの上にノートを広げると、柚葉は少し迷ったあと、今日のページをめくり、新しい紙面に向かった。


「伝えたいと思ったときに、言葉が出てこない。なのに、あとになって、『こう言えばよかった』と思い出す。そのズレは、タイムラグというよりも、別の言語圏にいる感じに近い」


自分が何を感じていたのかを、即座に言葉にできない。でも、後からなら言える。そのことに、長いあいだ理由がつけられなかった。人付き合いが苦手なのも、単に内向的だからだと思っていた。


でも本当は、言葉の速度と、感情の反応が合わないだけだったのかもしれない。


「たとえば、録画された映像と、生中継の字幕がずれているみたいなもの。感情の本編が流れていても、字幕が追いつかない。だから私は、字幕を後から自分でつけているようなものなのかも」


その比喩を思いついたとき、柚葉はどこか救われた気がした。それは自分の「弱さ」のように思っていたものが、ただの仕様なのかもしれないという視点をくれた。


仕様は、直すものじゃなく、理解するもの。


彼女はさらに別のページに、思いついた単語を書き留めた。


「遅延通訳」

「非同期の理解」

「二拍遅れのことば」


どれも少し説明が必要な名前だけれど、いまの自分にはよく馴染む感じがした。自分にしか伝わらなくてもいい。大事なのは、今この瞬間の自分がそれで何かをつかまえているかどうかだ。


部屋の外では、通りを走る自転車のベルが鳴った。窓の向こうの空は、灰色と青が混じり合ったような色をしている。


コーヒーを飲み干し、柚葉は深く息をついた。


ずれていることに気づいた日。合わない速さで何かを追いかけていたことを、少しだけ肯定できた日。今日のページには、そんな手触りが残っていた。

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