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第一話「下書きの余白」

カーテンの隙間から午前の光が差し込んでいた。真っ白な天井に、カーテンの影がうっすら揺れている。


宮内柚葉は、目を覚ましてもすぐには動かない。平日の朝よりも静かな土曜の空気に、しばらく身を沈めていた。仕事は週に四日。土日は完全に空いている。月曜は在宅。そんなリズムにも、もうすっかり慣れた。


冷蔵庫の中の牛乳が残り少ないことを思い出し、ようやく体を起こす。コーヒーの湯を沸かす間、柚葉は窓を開けて、朝の空気を吸い込んだ。風はなかったが、空気は乾いていて、まだほんの少し涼しさが残っている。


部屋の隅、作業机の上に、いつものノートがある。厚手の紙に、シンプルな無地の表紙。彼女はそれをそっと開き、数日前のページをめくった。


「くもったままの午後、ひとりで駅前を歩いていたときの感じ。たとえば、誰かに名前をつけてもらわないと存在できない影、みたいな」


数日前に書いた一文を読み返して、柚葉はわずかに眉をひそめた。


——何を考えていたんだろう。


思考が形を成さずにこぼれていく感覚が、最近少し強くなった気がしている。気づけば忘れていて、あとで思い出そうとしても、何を考えていたのかすらわからない。ふと思ったことや、感覚的な違和、重たさや薄さ、どこかに引っかかるような感じ。それらがまるごと、沈黙に飲み込まれる。


それがもったいなく思えて、数週間前からノートを開くようになった。


今日のページに日付を入れ、柚葉はペンを持つ。まだ何も書かれていない白い余白に、何を書くべきか迷った。


——何を書けば、あのときの自分とつながれるんだろう。


彼女はふと、小さなメモを書き加えた。


「感じたまま、書かずに済ませたことが、後になって思い出せないのは、言葉がなかったからだと思う」


その文の横に、細く鉛筆で線を引き、まるで注釈のように続けた。


「名前をつけると、たしかに存在していた気がする。定義じゃなくて、しるしとしての名前。」


コーヒーの湯が沸く音が聞こえた。立ち上がり、台所へ向かう。豆は前日に挽いておいたものだ。ペーパーフィルターにゆっくりと湯を注ぎ、部屋にコーヒーの香りが立ち込めていく。


そういえば、絵画教室で園田さんが言っていた。


「絵ってね、余白がその人の時間の取り方に出るのよ。ぎっしり描く人は、間を埋めようとする。逆にぽつんと描く人は、自分のまわりにある空気を信じてる」


その言葉を思い出して、柚葉は少し笑った。自分はどっちだろう。たしか、あのとき描いたのは、リンゴと透明なガラス瓶だった。瓶の向こうに透けて見える赤色にこだわって、全体の構図が偏ったまま、背景は白く残した。


「空気を信じてる」なんて、自分に言えるだろうか。余白が怖くて、何かで埋めないと落ち着かないときもある。それでも、今こうしてノートに書きながら、空いている部分があることにほっとしているのも事実だった。


コーヒーを持って戻り、柚葉はノートの続きを書く。


「考えるって、思っているよりずっと手間がかかる。だから、書いておくのは、あとでその手間をもう一度かけなくていいようにするため」


一文ごとに少し間をあける。文字と言葉のあいだにある「余白」が、まるで呼吸する隙間のように感じられた。


そのとき、スマートフォンに通知がきた。画面には、絵画教室のエミからの短いメッセージ。


「来週のモチーフ、“自分の好きな形”らしいですよー。何かある?」


柚葉は少し考え、返信は後でいいかと画面を伏せた。


“好きな形”——何を描こう。たぶん、形そのものじゃなく、それに何を重ねてきたか、ということなのだろう。たとえば、幾何学的なものに惹かれる自分がいる。あるいは、かすかにずれた対称。ずれてるけどバランスが取れてるもの。


彼女はノートに、そっとその言葉を書き加えた。


「ずれていても、倒れないバランス。そういう形に、安心を感じるのかもしれない。」


ページの左下に、ふと思いついた図形を走り描きした。三角形と円を少しずらして重ねたもの。その重なりに、思いのほか「今」の自分がよくあらわれている気がした。


一つ一つの言葉が、曖昧な輪郭の中から浮かび上がるようだった。定義ではなく、感覚をなぞるように書くことで、ぼやけたまま通り過ぎていった日々が、かすかに輪郭を取り戻していく。


書き終えたページを閉じると、空白の時間もまた、自分の一部であるように感じられた。

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