星の雨
私は雨が好きだ。
天気予報も、見ないことにしている。
友達と遊びに行く予定があり、待ち合わせ場所に向かっていると、絹のような湿り気が感じられた。
いつものように騒然としている街は、細いはずの私の肩にさえも何度も擦られ、鬱陶しく思い、その雑踏を避けるように、車道側から左にずれていくことにした。
ふと横を見ると、美容室があった。
その前に立ち止まった私は、さぞ迷惑なことだろう……という意識を意図的に断ち、目の前のガラスを見ると、一瞬だけ、大きな瞳に見られていると錯覚する。それはもちろん私の瞳、カラコンで誤魔化された薄茶色の瞳。視野を広げると、リップのグラデーションさえも映り込んでいた。それに、実は気に入っている低い鼻を騙し絵のように立てたメイクが、可愛げを演出している。
どうせ、集合時間までの時間にはまだまだ余裕がある。
それに……不思議と、こちらにもお友だちが待っている気がして。しばらくは、そこに留まることにした。
「雨が降る」
この霊感だけは、必ず当たる。
事実、ほんの僅かに、頭頂に柔らかい針が刺さる。その針は四肢へと差し込み、羊皮紙のような色をしたブラウスは湿り気を帯びる。選びに選んだ、フェミニンなコーデが台無しになっていくのがわかる。それと同時に、早朝に丁寧に巻いた髪の毛が、不細工になっていく。
雑踏の音が、明らかに大きくなる。
数秒もしないうちに針は太くなり、それも乱雑にぶつかるようになっていった。バサリ、バサリと傘が開く音がする。むしろ、それだけが不快だった。
メイクが崩れていく。心地のいい雨。
ふふっ、やーめた。
予定を変更することにして、今日は家に帰ることにしよう。濡れて滑るスマホをなんとかタップして、電車が止まった旨を予測変換で打ち込み、ドタキャンの連絡を送った。
もしも、雨が嫌いだったら。友達と遊べなくなるなんて。意外と人懐っこい私には耐えられなかっただろうな。
そうしてまたガラスを見ると……え、わ、はあ!!?
ボロボロになったわたしが、元気そうな笑顔で手を振っていた。
――
雨が好きな理由を思い浮かべる。
いくつかあるけど、まずは……こうやってドタキャンしても、相当に雨がひどいと納得してくれそうなところだ。ことに、さっきみたいに急に降ると、都合がいい。こんなことを繰り返している自覚はあるし、ぶっちゃけ本当は向こうもうんざりしてそうだけど、口実には十分。と、自分に言い聞かせた。
そして……いつかは晴れてくれるところが、いちばん好き。本当はこれだけが好きなのかもしれない。なんとか家に帰って、メイクを落として、シャワーを浴びて。さっぱりとした身体で諸々を済ませて、ドライヤーをかけているときに日差しが差し込むと、ひときわに最高だ。そんなこと、思い出す限りに全然ないけど。帰り道に晴れちゃって、そこそこの確率で虹が見えるのはわりとあって、嬉しい。
ちゃぶ台をひっくり返すと、雨なんて好きじゃないのかもしれない。
本当は友達と会うのにバッチリと可愛く見せたい、そんなぶりっ子の裏返しかもしれない。
でも、そんなことはどうでもよかった。
変だな?
全部、全然違う気がする。
ただただ、誰かが励ましてくれるような気がして。
「お姉さん、お友だちになろ!」
そんな言葉が、頭の表側に広がってきた。
――
どう、考えても、ぁ、違うよ、えへへ?
遅れて認識した、超常的な現象。こう見えてホラー好きな私でさえ、バクバクと戦慄していた。
ドスン。地面に響く痛み。お尻がじっとりとする。
腰が、抜けていた。
ちょろちょろ、ちょろ……と、太ももの根もとまで、意識してはならないぬくもりを感じてしまう。つまりは、こう、そのぉ……あの、粗相、ええ、やはり、意識してはならないことをしている。絶対。なんかもう気絶したほうがいいのかな。
どんどん錯乱していくのがわかる。
幸いなのかな……わかんないけど、土砂降りが何もかもを押し流していて、アレを私以外に気付く人はいなかったはずで。違う、現実逃避だ。そんなことじゃなくて、目の前を無理やり見ようとする。
ガラスに映るわたしは、片手で膝を揃えていて。何かを見せつけるように、右手に溜まった水溜りを転がしていた。
なんとなく――ガラス越しなのもあって――キラキラしているように見えた。大切な物を守るように、ずっと平行にくるくるしていた。
こちらに向けている、にこにことした笑顔は、しかしよく見ると私自身ではないのかもしれない。
ちょうどピントは合っているはずなのに、小さい。つまり遠く見えている?
それに、雨の中の視界で歪んで見えただけで、ボロボロに泥だらけだったようにすら感じる。そもそも、よく考えれば服装だって異なるし、いつもより鼻も低い気がする。でも、まつ毛はずっと長い。子どもの頃はよく褒められていたな。それは、私自身である象徴だった。
うまく思考が働かない。
まつ毛が長いなんて、傍証でしかないはずだ。でも、例え大きく容姿が異なっていても、それが"わたし"である確信が先にあった。
走馬灯の類なのかも。だって、わたしが雨なんて――――だったことさえ、私に重なるように思い出す。
頭の中のガラスにピントを合わせろ。直視しよう。現実からの解離が挟まる。
掴めなくなる。
それが、最後の意識だった。
――
数刻ほど、気絶していたのだろう。
都会なんてああ無情、救急車すらも呼ばれてないらしい。頭の痛みはない。大丈夫。しかし、目の前の美容室のスタッフですら私を見逃していたと考えると、少しだけ不機嫌になった。
思い出せ。
気絶した理由を、探り出す。
そう、ドッペルゲンガーが写っていたのだ。
鏡面の中だから、厳密にはそうでないのかもしれない……けど、そんなことはどうでもよかった。
先程錯乱していたからか、それとも気絶から醒めたからか、思考が冷静に進んでいく。
あっけらかん。
なんかもう、そういう話じゃなかった。
私の部屋にいました。
私と、わたしが。
「おっはよー!!」
私自身というよりもなんかこう、間違いなく違うんだよね、デフォルメにしては極めてリアルで。あー、なるほどね。
齢にして二桁に届かないくらい幼い。周りと比べても、いっとう無邪気そのものの頃の"わたし"が目の前にいた。
女児服としては有名なキャラクターのTシャツが目に入り、ジーン生地の紺色のスカートが雑に履かれている。そこから伸びる四肢、特に太ももは意外にも太ましくて、膝下は真っ直ぐにして、当然のように素足だった。
気絶前に見た違和感は、そういうことだったのだろう。
先ほどはまつ毛に目を奪われていたけれど、焦げ茶色のクリクリとした瞳からは否応なしに好奇心が惹き立ち、ちょっと猫口なのも愛らしい。そうだ、小学生の頃はまだアヒル口としてからかわれてなくて、自分でもお気に入りのチャームポイントだった気がする。
さらさらのストレートヘアをぶんぶん振りまわしたと思えば、わわわっ、ぎゅっとした熱を感じる。子どもの体温って本当に高いんだね……私のヘソ上くらいに前髪をこすりつけると、もっとギュッと締め付けてくる。細い割には意外とふにふにしてて柔らか
「きゃっ!?」
い、とよぎった頃には重心を崩されていて、ベッドに押し倒されていた。
身体を擦り付けるように、よじのぼるように、まだ下膨れの残る顔のわたしが、私の瞳を、わたしが覗き込んでいる。しばらく、覗き込んでいる。
んむっ!? ま、前歯が当たってる、ぁ、べったりとキスをされてる。と、思考が追いつく頃には、そのまま寝込まれてしまっていた。
すぅすぅ、すぅすぅ。自由すぎる。
私だって、もう予定なんて知るものか。
いっそこのまま眠ります。よだれも、甘んじて受け入れましょう。
『お姉さん、お友だちになってくれてありがと!』
――
起きてみると、何もなかったかのように目が醒めた。
さっきの戯れは単なる夢だったのかもしれない。
あれ? どこからどこまでが夢だったの?
でも、何故か。
わからないけど。いつか、こうしたかった。
そんな気がしていた。
――
雨なんて、大っっきらい。
お友だちと遊びに行きたいのに、お母さんが「今日は雨降る予報があるの。ダメよ」って言ってくるもん。わたしだってもう大人なのに、ずっと言い聞かせてきて、じゃまして来るの。
わたしは家から飛び出して、でも、きっと友だちも公園にいるわけないから、できるだけ遠くに遊びに行ったの。
遊びに行ったというか、家もお母さんもすごくいやで、ずっとずっと、知らないところまで、走り出したの!
そうしたら、大きな大きな道路に出て、お母さんとお買い物に行くときしか出ないところまで来ちゃって、そこで、はじめて雨が降ってきたの。
見たこともない雨。
すっごく、カラフルで、きれいな雨。
キラキラしたお星さまみたいで、とってもうれしかった。
建て物、ぬれる信号機、これって街灯かな? よくわかんないけど、キラキラとしたお星さまがどんどん落ちてくる。しかも、虹色とりどりなんだもん!
右手をいっぱいに伸ばしてつかんだら、キラキラとした水たまりになってる。そこに反射するお星さまの色は、どんどん変わって、ねえ、すごいよ!
星ってつかまえることだってできるの!
だれか見て見て!
ふわふわした大人のお洋服を着た、でも他の人とは全然ちがう、悲しそうに歩いているお姉さんがいた。
どんどん雨粒が大きくなって、宝石みたいに大きくかがやくほど、その影みたいに、お姉さんはもっともっと悲しそうにしてる。
他のいっぱいの人がむずかしい顔をして歩く中で、お姉さんひとりだけ立ち止まってるみたい。
かわいそう。崩れ落ちて、泣いているみたい。はやく行って、つかまえた星を見せて、はげましてあげないと!
でも、いっぱいの人にじゃまされて、もみくちゃにされて、届かないの。ねえ、みんな、じゃましないで。
右手の中の星だけは、お姉さんに見せてあげるために、守りたいの。
お姉さん、本当にさびしそう。友だちがいなくなっちゃったのかな。
じゃあね、わたしが友だちになってあげる。
走って向かってると、他の大人にぶつけられて、転んじゃって、左の方に転がっちゃった。痛いよ。さみしいよ。でも、あのお姉さんのほうが、ずっと、もっとさみしいよ!
立ち上がろうとして、左のかべに手を付けたら、吸い込まれる感じがして。
いつの間にか、お姉さんの前に来てた。
手のひらの星だけは、つかまえたまま。
怖がらせたら絶対ダメ。できるだけ元気にみせるの。
宝物を見せて、はげましてあげるの!
――
「お姉さん、お友だちになろ!」