ヨシノガリング・サガ
地獄の35連勤が終わりました。
というわけで、佐賀に行きます。
佐賀に行く目的はひとつ、吉野ケ里遺跡だ。まあ、日本人ならみんな知ってるだろう。なんせ世界史選択だった私でもその名前を知っているくらいだ。
前回、板付遺跡に行ったとき、いつかきっとそのうち吉野ケ里遺跡に行けたら行こうかなぁ…知らんけど。と思っていたが、今がその“いつか”なのだ。
が、さすがに佐賀くんだりまで行ってひとつだけというのも移動費がもったいない気がする(貧乏性)ので、ついでに佐賀城とかも行こうか。
そんなこんなでまずは佐賀城に行きます。
佐賀城は1611年に建てられた、佐賀鍋島氏の居城、らしい。
なんでも佐賀藩は近代化に積極的で、いろいろと当時の最新技術が集まっていた、らしい。
まあ、すべて現地に行ったあと博物館で読んだもので、行く前は知らなかったのだが。
だが未知の場所へ行くというのも旅の楽しみのひとつだろう。未知の城にわくわくしながらバスを降り、佐賀城本丸歴史博物館の入口まで来た。
開いてなかった。開館9時半だった。
現在の時刻は8時すぎ。
え、だる……。
ていうか地図アプリにきっちり開館時間書いてるしな。スマホ使いこなせてなさすぎでしょ、自分。情弱乙。
己のあほを嘆いても仕方ない。近くのベンチで九時半まで待つことにした。
日陰がない、喫茶店もまだ空いてない、飲み物もない、暑い、死ぬ……。事前にちゃんと調べていれば……無知とはなんと恐ろしい。
一時間近く虚無っていると、ようやく会館時間。なんかもうすでに疲れてるんですけど。
重い足取りで建物に入る。博物館は佐賀城の本丸御殿を復元した、木製の立派な建物。
靴を脱ぎ、中に入ると、さっきまでの疲れが吹き飛んだ。
扉を開けるや出迎えてくれたのは、冷たい風。
エアコンが効いている。嗚呼、なんとすばらしきかな近代文明。
一息ついてさっそく展示物へ。
最初にあったのは鎧と銃だ。鎧は、なんかよくわからんが名器らしい。めっちゃ長ったらしい名前。
まじまじと観察。たしかに、陸上自衛隊で使ってる防弾チョッキよりは動きやすそうだ。重さはわからないが、肩回りは広く開いていて動きやすそうだし、通気性もいいから熱中症にもならなさそう。というか、自衛隊のチョッキがクソ過ぎてあれよりひどい防具あんのかってレベル。なんでプレートキャリアにしないの? 防衛費増やしたんならミサイルとかじゃなくてまず歩兵の装備充実させろよ。どんなに航空優勢とれても地上戦で負けたら意味ないだろうがバカがよお。
閑話休題。
ついで銃だが、なんか、普通。ぱっと見、現代の小銃とそんなに変わらない。ただ、鉄の銃身はむき出しで木などで覆われていないので、熱くならないのかと心配になる。連射できないから銃身がそこまで熱くならなかったのか、手袋がぶ厚かったのか。とにかく銃身を覆わなくていいような使い方だったのだろう。
銃は4種類あり、スペンサー銃という、南北戦争で使われた銃もある。コンパクトで取り回しが楽そう。アメリカ史もそのうちちゃんと調べたい。
武器はそこそこに次の展示へ。
お次は城の設計図などがあるコーナー。完成した年なんかもここに書いてあった。
初代藩主が完成させて以来、江戸時代を通じて佐賀藩36万石の政治の中心だったとか。
……なるほど。わからん。石高ってなんなん? 聞いたことはあるけど。
わからんことはグーグル先生に聞くしかない。
36万石。当時の石高では全国10位。現在価格にすれば1000億円。
佐賀県の税収が6千億円らしいから、六分の一。当時の人口や、日本全体の石高なんかも調べなければより詳しいことはわからないのだろうが、面倒なのでいいや。ようするにけっこうでかい、ってこと。
さらに進むと、組木の模型があった。釘を使わずに木材を固定する手法だ。木材がいくつかのパーツに切り出されており、凹凸を組み合わせるとすべてのパーツが固定される。
手に取って組み合わせてみると、メカニカルな感じに感動。めちゃくちゃ木工したい。昔は工作好きで家具とか自分で作ってたんだけど、働いてからはぜんぜんしてない。久しぶりになんか作りたい。ていうかこれずっと遊んでたい。
だが本当にずっと遊んでるわけにもいかない。このあとも予定あるし。
名残惜しいが、組木と別れ次へ進む。
そのあとは佐賀藩の教育機関である弘文館や、大隈重信、日本初の反射炉と大砲などもあったが、組木以上の感動はなkった。
すべての展示物を回り、外に出る。
さーて、お次は城に行きますかね、と思ったのだが、城はどこだ?
周囲を見回すも、それっぽいものはない。地図を見てもない。とりあえずこの辺を歩き回りながら探そうと、道路を挟んだ向こうにある佐賀城公園に行った。
公園でここら一帯の地図を見て、はじめてわかった。
ここが城だったんだ。もっとも、今は佐賀城公園だが。
現在地は佐賀城公園の、緯度が真ん中で経度は少し左にずれている。
相当広い範囲が濠に囲まれているが、この中すべてが城だったのだ。復元されたのは博物館として使われてる本丸御殿だけ。てっきり名古屋城みたいに城本体があるのかと思っていた。
時計を確認すると、10時半。予定よりだいぶ早いが、見るものもないので仕方ない。佐賀城は終わりにし、吉野ケ里遺跡行きのバスに乗る。
しばしバスに揺られ、降り、また問題が発生した。
迷子になった。
地図アプリで示されていた道路が閉鎖されていたのが原因だ。おい、グーグル先生どうなってんだよ、お前のこと信じてたのに!
便利なインターネットに慣れ切った現代人わい、ネットの情報頼れず、終わったわ♪
ネットが使えない以上、自分でなんとかするしかない。
一時間ほどさまよい歩き、看板を頼りにどうにか入口にたどり着く。また入る前に疲れ切ってるんですけど?
入口をくぐってすぐ、チケット売り場があった。しっかり観光資源にされていた。
売り場の周りは整備されており、休憩所もある。一度エアコンの効いた休憩室に入ってスマホを開いた。ざっと吉野ケ里遺跡について調べた。
この一日で学んだことは下調べの大切さだ。しっかり見る場所を定め、頭の中で道順を組み立てる。
よし、完璧。日々成長しすぎてる自分が怖い。成長速度が範馬勇次郎並み。まあ、次の旅行のときは全部忘れてノープランで行くんだろうけど。
吉野ヶ里遺跡は巨大な環濠に囲まれた遺跡だ。大きな外濠の中にはさらに二つの内濠があり、それぞれ南内郭、北内郭と呼ばれている。この二つの内郭を見ることにした。
まずは南内郭へ足を向けた。内郭の柵は高いが、隙間がけっこうある。細身の人なら抜けられる場所もあるんじゃないだろうか。
門の上は櫓になっており、見張りが立っていたと解説にある。
いざ門をくぐろうとしたとき、そばに展示室があるのを見つけた。きっとエアコンが効いているだろう。迷いなく展示室に入った。
展示室はそこまで広くはないが、吉野ヶ里遺跡のイメージを掴むのには役に立つ。
まず最初に三枚の図が並べてある、それぞれ弥生時代前期、中期、後期の状況が書かれてある。それを見れば吉野ヶ里遺跡を中心としたクニの形成過程がわかる。
弥生時代前期、吉野ケ里丘陵南部に濠を持った集落ができる。集落は濠の外にまで拡大していき、やがて拡大した範囲すべてが濠で囲われる。大きな濠の中には南北それぞれの内郭ができる。
図の右側には航空写真があり、古代のそれぞれの場所が現代のどこに対応しているのかがわかるようになっていた。
さらに進むと、戦争のはじまりや首長の出現などの展示があり、最後にビデオがあった。
ビデオいわく、吉野ケ里を中心としたクニは日本全土、さらには中国とも交易を行っていた。ここでは農具は出土するが、畑が見つかっていない。
なら、ここは工業品だけを作り、食料は輸入に頼っていたのではないか。原始の社会は自給自足していたイメージがあるが、ここまで大体的に交易を行なっているのなら不可能でもないだろう。
などと妄想を膨らましてみても、具体的な知識が欠けるので当て推量でしかないが。
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展示室を出て南内郭へ入る。中はかなり広い。板付遺跡と比べ、住居も立派だ。櫓が二つあり、入り口から見て左右の端にある。
さっそく櫓に登ってみた。高い。かなり広範囲が見渡せる。二つの櫓それぞれに見張りが立てば全周を見れるだろう。
ただ、火力はいまいちだ。二つの櫓と、門の上の櫓。三つの櫓の上に弓兵を置いても全周はカバーできない。上に登れるのはせいぜい3人程度だから火力も不十分。柵は濠の外側に立っているので、隙間から外をうつこともできない。
となれば、戦争になれば非戦闘員を濠の中に入れ、戦闘員は外に出て侵攻してくる敵部隊を壊滅させていたのだろうか。まあ、外濠もあるし、北内郭との連絡もとれるので、板付遺跡と比べれば防御力が格段に上がっていることはまちがいない。
ここで少し地理についても触れておく。
吉野ヶ里遺跡は北に脊振山地、南には佐賀平野、さらに南下すると有明海がある。ただ、縄文時代は海岸線がもっと内陸にあったので、2~3kmで海に着いたらしい。
海が近いことが交易で有利なのは明らか。では、守りはどうか。
一見すると、前方は海に開かれ、背後は山に守られているように見える。しかし、山地、あるいは山脈というのは一般的に考えられているほど防衛線に向いていない。それは19世紀初頭を生きたドイツの軍人・クラウゼヴィッツが説明する通りだ。
クラウゼヴィッツいわく、山脈は敵の行動を遅らせる相対的防御にならば有効だ。しかし攻撃してくる敵を撃破する、絶対的防御には向いていない。
ならば地形そのものはさして守りに強いわけでもない。十分な兵力で攻めれば落とせる。
では、十分な兵力とはどれほどのものか。
当時、濠の中には最大で1200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5400人の人口があった。
一般的に、攻撃と防御なら防御のほうが有利だ。防御を突破するには、攻撃側は三倍の兵力が必要とされている。
攻撃は三倍の数が必要。これは第一次世界大戦で戦ったイギリスの軍人兼作家のリデルハートが説いたもの。
しかし、第二次世界大戦で戦ったドイツ将校は攻撃のときは敵の5倍、なんなら10倍の兵力が欲しいと言っている。
さらに古代の戦いに目を向けるなら、アレシア攻防戦がある。
それはローマ軍5万とガリア軍35万の戦いだ。ローマは防御、攻撃はガリア。ローマは当然、立て篭もるための防御陣地を作っている。
結果は、三度の攻防戦ののち、ローマの勝利。実に7倍の兵力差をひっくり返したといえる。これはローマ軍の指揮官がかの天才、ユリウス・カエサルであり、兵5万がそのカエサルものとで7年間戦ってきた精鋭であることを差し引いても防御の有利を示して余りある。
ちなみに「ローマの技術力は世界一いいいいいい!!!!!(当時)」だったので、作った防御陣地も半端じゃない。
3.6メートルの防壁には一定の間隔で胸間城壁と監視塔が並び、その外側には4.5メートルの濠が二重に走り、三層のトラップが並び、一番外側には幅6メートルの濠を掘る。
ローマ軍はこれを一ヶ月で完成させたのだが、ぶっちゃけ吉野ヶ里遺跡の恒久防壁よりも堅固だ。
吉野ヶ里遺跡はまず外濠があり、内郭を囲む防壁、内濠、濠の内側に逆茂木(先端を尖らせた杭を並べたトラップ)。
比較すると、吉野ケ里は
濠2、防壁1、トラップ1
対するローマは、
濠3、防壁1、トラップ3
櫓や胸間城壁を考慮しなくても、ローマ陣地の半分でしかない。もう面倒なので施設自体の防御力は、吉野ヶ里はローマの半分ということにする。
ここまでの数字をまとめると、
リデルハートの理論では3倍。
ドイツ将校の経験では5〜10倍。
カエサルの実例では7倍以上。(つまり、吉野ヶ里換算だと3.5倍以上)
これが防御の有利を、兵力に換算したときの倍率。
なら、吉野ヶ里を攻撃するのに必要な兵力の基準は5倍。3.5倍なら不安で、10倍なら安心、といったところか。
では、吉野ヶ里遺跡の兵力は。
まず、全人口が5400。当時は専業の兵士などはいないだろう。いたかもしれないが、有事のさいには戦えるもの全員が武器をとって戦ったはずだ。では、5400の中に占める戦える人間の割合はどれくらいか。
こちらも似た事例から想像するしかないが、同時代の古代ゲルマン人がだいたい人口の3分の1が戦闘要員だったので、同じ割合としよう。
5400÷3=1800 (人)
なら、攻撃するための兵力の基準は9000人。最低でも3.5倍の6300人は欲しい。
では、当時6300人の兵士を集めるクニはあったのか。
まず、ここら一帯で最大のクニが吉野ヶ里なのだから、一国でこの数は無理だ。複数のクニが連合すればわからないが、敵が結束しないようにするのはもはや軍事ではなく外交の仕事。そして軍事施設は遺跡として残るが外交の記録は残らない。
今ここで出せる結論としては、敵が結束しないよう外交でうまく振る舞えば戦争によって滅びることはない、ということだ。
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お次は北内郭。
内郭同士はさして離れておらず、1分ほどで着く。
北内郭の門に立ち、驚いた。
枡形になっていたからだ。
桝形は城を守るための作りの一つだ。
それこそ佐賀城のような、現代人がイメージする「The・日本の城!」みたいな城で使われる構造で、門を入ってすぐに曲がり角を設けることで敵の勢いを削ぐことを目的としている。
北内郭の入り口は枡形になっていた。
ちなみに濠だが、柵と合わせると高さは6メートルほど。一箇所、濠に降りられるところがあり、自分の身長との比較で目算しただけなので正しいかはわからないが、濠自体の深さが3.5メートル、柵が2.5メートルくらいだった。
桝形、6メートルの内濠を持つ集落二つ、点在する櫓、さらに外濠。
こう考えると吉野ヶ里遺跡の防御力はそれなりのものだ。さっきはローマと比べてしまったが、あの超古代文明と比べるのがまちがっていたかもしれない。ローマの敵と違って当時の日本には攻城兵器だってないだろうしな。すまん、吉野ヶ里、俺誤解してたよ。
吉野ヶ里の防御力に感嘆しながら北内郭も見て回る。さらに墳墓まで見て、遺跡見学は終わり。
本当はこのあと八女市に行ってかの有名な八女茶を飲んだり和風カフェに行ったりしたかったのだが、金がないので諦めた。
そんなわけで、貧乏人はこのあたりで筆を置くとする。