フルン26歳、夏。~ないものねだり〜
「ロクマ」
あの娘が笑顔で駆け寄る先には、彼女を想う男が居る。
彼は風土病に悩む民の代表として、神託を見守る者として、彼女の養父母が経営するマリア商会の従業員として、彼女を敬い常に紳士的な態度で接するのだ。
「“西の皆の、その後の経過はいかが?お変わりがないと良いのだけれど”」
「“文に拠れば懸念していた症状もなく息災だと。マドレーヌの飴のお陰だ”」
彼は礼儀正しく頭を垂れ、体に触れるどころか息すら掛からない距離を保っている。バンタルの件で戸惑っているマドレーヌにはそれが心地良いらしく、このところ、西の民に贈った飴のことや新商品の開発のことや、いろんな話を2人でしている。
「ねーちゃん!」
「早く早く!」
それが終われば双子の妹弟が木剣片手にパタパタと走って来る。まだ幼い彼らは実に無邪気で、血の繋がらない母や姉と遊べることを純粋に喜んでいる。
「姫様」
「お嬢様」
村人や商会員と気軽に言葉交わし、困りごとはないかとか、開発中の品の使い心地なんかを聞いて。偶に芋や豆や、自家製の保存食を貰ったりしている。移民が多いからか珍しい食べ物もよく貰っている。
それなのに。
「あ」
家庭学習の合間。
頬に長い睫毛の影を落として、マドレーヌは微かな声を上げた。紫色のマグカップを満たす薬草茶の表面に幾つも立った漣は、まるで今の彼女の心を表しているようで。
「これ、おいしいよ」
素知らぬ振りで焼き菓子を口に運べば素直に頬張りもぐもぐ咀嚼するけれど、こうしている間にも彼女の頭を占めるのは、ここに居ない男の事。
「ねえ」
呼び掛けに顔を上げるけれど、心ここに在らずといったふうで。こんな近くに居るのに、その瞳は宝石みたいに冷たく澄んでいて、そこにぼくは映っていない。
他の人間に見せる笑顔もなくて、ああ、もう、まったく気に入らない。
「ぼくと恋人になってみない?」
本心を冗談めかした響きに乗せる。マドレーヌはちょっとだけ驚いて目を見開き、すぐにクスッと笑った。
「ありがとうございます。独り占めにすると多くの女性が悲しみますから、お気持ちだけ」
言い終わると、マドレーヌはこちらをじっと見つめてくる。きらきらした瞳は「上手くできたでしょう?」と言わんばかりで。
「よく出来ました」
この言い回しを教えたのはぼくだ。他の男に言い寄られた時に、ちゃんと断らせるために。
「いきなりだから、びっくりしちゃいました」
「これで慣れたから、次からは平気だね」
違う。ほんとうに言いたいのは、そんな言葉じゃなくて。でも、ぼくの過去が邪魔をする。後腐れのない既婚女性とばかり、それも不誠実な付き合いばかりしてきた事で、どれほど心からの言葉を捧げようとも、真に想う相手にはまるで伝わらない。
もしもぼくがバンタルだったら、ロクマだったら、真剣に悩んでくれたのかな。もしもぼくが弟だったら、こんな想いを抱えずに一緒に居られたのかな。もしもぼくが……。
「フルンお兄ちゃん?」
幾ら考えても、願っても、叶わない。ぼくはぼく以外にはなれなかった。ヘルゲート様にも、他の誰かにも、きっとなれない。
だから、ぼくはぼくとして、きみの傍に居続けるより他ないんだ。
「ダンスの練習を、しようか」
「はい」




