マドレーヌ13歳、晩秋。~図書館の精霊、ふたたび~
司書のいるカウンター。閲覧席。書架の間。
ゆっくり歩きながら不自然にならない程度に周囲を見回すが、どこにも姿はない。寂しさが胸を過るけれど約束をしていたわけではないし、そのように親しい間柄でもない。仕方ないな、マドレーヌは小さくかぶりを振り、溜息を吐いた。
「レディ、何かお探しですか?」
柔らかな声が耳を打つ。
栗色の髪に栗色の瞳。太い黒縁眼鏡。腕の部分だけよれよれになったシャツ。
「はい。あなたを…、精霊様を探していました」
*****
「私は見ての通り武の方はからきしですから、参考になりましたかどうか」
「いいえ、助かりました。花型の砂糖菓子やお花の砂糖漬け、飴がけナッツなんて、わたし一人では決して思いつきません」
図書館員の休憩室で、マドレーヌは図書館の精霊にぺこりと頭を下げた。相談していたのはポルックスへのお礼について。当人には「ついでだし、差し入れもいっぱい貰ったから」と固辞されたけれど、あの携帯食は広告兼賄賂のようなものだ。年上の男性に気兼ねなく受け取って貰える品はないかと悩み相談したところ、提案されたのが男一人では入りづらい店や購入するには勇気の要る可愛いスイーツだった。砂糖菓子やナッツの類なら日持ちもするし、忙しくて食事を取りそびれた時にもさっと摘まめる。
「私などで宜しかったのですか?」
「いつもは家族に相談しているのですけど、今は少し……それどころじゃなくて」
コメルシー邸は伯爵夫人の件もあって何かと忙しい。相談すれば親身になって聞いてくれるのだろうが、日々疲労の色を濃くしているのを目の当たりにしては気が引けた。そうこうしているうちに王都へ村の商品を運ぶ定期運行の荷馬車に運ばれて田舎の父親からの手紙が到来。父からの言付けもあって図書館の精霊を頼ることにした。
「相談役として、麗しのレディにお選びいただき光栄です」
態とらしく恭しい礼をする精霊の傍らには、先程まで読んでいたのだろう、一冊の古びた本がある。王国でよく見る革張りの、しかし、表紙に書かれてあるどでかい6文字は王国のものではない。
「その『薬用植物図鑑』、随分と古いものですね」
「ご存じですか、嬉しいな。この本を知っている方にお会いするのは本当に久しぶりです」
「もっと新しい時代の写本ですけれど、父が持っています。わたしは田舎の村の出なので困ったらよく頼っていました」
医者などいない小村では、病気も怪我も野山で手に入る薬草が頼りだ。身近な薬草・薬木を絵入りで実用例も示して紹介する家庭の医学書『薬用植物図鑑』にはどれだけ世話になったことか。そういえば何故か日本語で書かれていたな、と今更ながら思い至る。物心ついた時から当たり前にあったので気にも留めていなかったが。
「お気を悪くされるかもしれませんが、羨ましいです。私などはこうして書を読むばかりで、植物の効能は知っていても殆どは実物を見たことがありませんから」
図書館の精霊は仕草が優雅で物腰も落ち着いている。きっと生まれも育ちも都会で、裕福な家の出身だろう。採取できる野山も森も近くにないだろうし、危険を冒して藪に分け入るタイプではなさそうだ。
「あ、そうだ。忘れるところでした」
マドレーヌは慌ててバッグから薬草を漉き込んだ紙包みを出した。「お世話になった図書館の精霊様へのお礼です。父の代わりに渡してください」と、手紙と一緒に薬草茶も添えられていたのだ。
「こちら、村の薬草を使って父が調合した薬草茶です。精霊様の分も送られてきました」
マドレーヌの分の紙包みは赤い紐、図書館の精霊の分は何で染めたか紫色の紐で結ばれていた。邸でひとつ淹れてみると、ふんわり甘い香りが広がり気分が安らいだ。村にいるときは毎日飲んでいた味がもう懐かしいと思えるほどの時間を王都で過ごしたか、という思いと、「帰っておいで」「帰りたくなったでしょう?」の言葉をすぐ側で囁かれたようで、なんとも複雑な気分に浸ったのだった。
「なんと貴重なものを」
「粗野な田舎のお茶ですので、お口に合いますかどうか」
「きっと。私はこのお茶をこよなく愛すると、今から確信していますよ」
「ありがとうございます。その…ご気分をお悪くされるかもしれませんが。精霊様は父によく似ているのです。ですから、精霊様がこのお茶を気に入ってくださるなら嬉しいです」
「博学で教養深いお父様と似ているだなんて、喜びこそすれ、気分を害する理由がどこにありましょう?」
「よかった。あ、そろそろ迎えの来る時間ですので、わたしはこれで失礼します」
「ああ、もうそんな時間ですか。馬車留めまで送りましょう」
「いいえ、お心だけ頂戴いたします。精霊様、ほんとうにありがとうございました」
*****
ささくれ立っていた心が丁寧に軟膏を塗った後のように整えられていく。
会えるかどうか、会えたとしてもたった一刻ほど。互いに名も知らず、誰何もせず、ただ漫然と交わす言葉の心地よさ。家名を忘れ職務を離れ、ただの一人の人間としての時を過ごした精霊は現実世界に戻るために図書館を後にする。
「薬草茶、か」
優雅とは言い難いが気持ちのこもった丁寧な礼と言葉。果たして、高貴な人々の欺瞞に満ちたそれと、どちらが他者の心を打つものか。
手漉きの紙を紐で結えただけの粗末な包み。見慣れぬそれに部下は眉を顰めたが、どうにも手放し難く、そっと包みを開いた。中には小さな麻袋が10ばかり。ほんのり甘く爽やかな香りに遠い日の記憶が蘇る。それはまだ、幸福だった子供時代。世界を疑わずにいられた幼子の頃。
「―――様」
とうの昔に失われた人の名を、口の中でそっと呟く。それは思慕か、それとも懺悔か、判然としない想いだけが広がる。その呼びかけに応えるように、麻袋の間で小さな紙片がかさりと揺れた。二つ折りの小さな紙には、繊細な文字があった。
――楽しい心は素晴らしい薬です。押し潰された魂は骨を枯らしてしまいます。――