捌話 る
リトにより作り出された春の道を歩く。黙々と歩いた先が、首が痛くなるほど見上げなければならない断崖だった時はちょっと崩れ落ちそうになった。
どこかに隠し通路でもあるのかと期待したが、何のことはない、鬼達は皆ひょいひょいと崖を駆け上っていく。虚ろな目になった私をひょいっと抱えたリトが同じように崖を駆け上り始めた頃、私は無となった。深く考えない方がいいこともきっとある。
無心で運搬されて到達した頂上は、何もなかった。空虚な岩肌に雪が張り付いているだけだ。だが、そこから見える景色は圧巻の一言に尽きた。
私達が登ってきた崖の反対側に広がるのは、四季だった。
ここには春があった。夏があった。秋があった。冬があった。
全ての季節が凝縮された、小さな白国があった。
周囲を切り立った崖に囲まれているここは、雪山の頂上であるはずだ。なのに、雪が降り積もっているのは崖上のみで、そこから降った先にある平野には雪が降り積もっていない。
否、一部雪があるが、そこ以外は色鮮やかな花々が咲き誇り、美しい新緑が大地を彩り、紅葉が斜面を飾る。中心部には巨大な泉があり、光をきらめかせながら透明な水を各地へと流していた。意外と言うべきか、建物の類いは見当たらない。
だが、あちこちに白髪の鬼がいた。各々自由に暮らしているのか、特に仕事をしている様子は見られない。だが、争っているようにも見えなかった。建物は存在せず、ただ自然があるだけだ。
鬼の里は、鬼同士が食い合う血みどろの里である可能性も否定できなかったため、この光景を見て少しだけ拍子抜けした。
私の目から見れば身投げしているとしか思えぬ高さから、鬼達は次から次へと飛び降りていく。階段も縄も見当たらない。そうなると、私の次の運命は決まっている。
悪いとは思いつつ、恐る恐る手を伸ばしてリトの首へと回す。ここに来るまでにも似たような高さから飛び降りたが、あの時は突然すぎてしがみつく暇すらなかった。その結果、リトはこんな凄まじい高さから人を抱えても平気だと分かったが、同時に高いところから飛び降りる浮遊感は只の恐怖でしかないことも分かった。いつかこの浮遊感を楽しめる日が来るのだろうか絶対ないな。
首にしがみついた私をリトは引き離そうとはしなかった。それどころか、少し驚いた顔をしている。そんなに驚かれるのは心外だ。
その気持ちをこめ、顔のすぐ傍にあった少し尖った耳をつっついてみた。
「落とすぞ」
「私が浅慮であった申し訳ないこの通りだ許してくださいお願いしますごめんなさい!」
悪戯に使っていた手でぎゅうぎゅうにしがみつく。引き離されてなるものかと全力で抱きついていると、ふっと小さな吐息が聞こえた。
いま、笑ったのかな? それが何だか嬉しくて、くすぐったくて、リトの肩に顔を埋めながらこっそり笑う。
まあ、その直後に凄まじい浮遊感が訪れた訳で。私の心は再び無となった。
再び地面に降り立った後も、リトは私を下ろさなかったし、私も何も言わなかった。言えなかったとも言う。
無のままリトにより運搬されていく私を、沢山の鬼が見ていた。子どもや女はいない。男ばかりで、見た目も若い者から壮年にさしかかった者まで様々だ。
数は見えている範囲で百人ほどはいるだろうか。男達はそこら中に座り、酒瓶を傾けている。着ている着物は女物から男物まであまりこだわらないらしい。建物はないが、何故か調度品はあり、それも地面に直接置かれている。
何ともちぐはぐな世界だ。目が合った若い鬼がひらりと手を振った。長い爪がひらひらと振られ、ちりっと胸がざわついた。
「リト、下ろして」
周囲を確認している間に落ち着いた。今度は素直に下ろしてくれたリトの隣を歩く。膝も心も震えていない。落下の衝撃はもう平気だ。今はただ、頭を回転させる。
案内された場所は、小高い丘の上にある大きな椿の下だった。手入れがされているようには見えず、幹には見慣れぬ蔦が這い放題だが、椿はそんなことはものともせず立派な花が咲き誇っている。
落ちている花を気にせず踏み潰し、男は幹を背にどっかり根へと腰を下ろした。他の鬼達も、ばらばらその辺に座っていく。ここには椅子も敷物もなさそうだ。そう判断し、私も腰を下ろして足を組む。リトはその私のすぐ斜め後ろに座った。
「さて、何百年ぶりの王族かは忘れたけどよ、話くらいは聞いてやるよ」
「鬼の頭領へ話したいんだがな」
「ちょうどよかったな。頭領は俺だ」
立てた足の上に顎を置き、気怠げに言った鬼に、私はとりあえず話を切り出す前にこの鬼の名前を聞くべきかなぁと考えていた。
男の名はスオウというらしい。一通り説明が終わってからようやく聞けた名を、忘れないようとりあえず頭の隅に書き留める。すぐに紙へ書き付けることが出来ない時の癖だ。
スオウは興味なさげに私の話を聞いていた。話し終われば、がりがりと頭を掻きながら何やら考えている。
「ザーバットなぁ……いいぜ、手を貸してやる」
「いいのか?」
あまりにあっさり答えるではないか。表情には出さなかったが不思議な気持ちにはなる。それを見越してか、スオウは苦笑した。
「そうか、鬼の記述は燃えたって言ってたな。俺らはな、元はお前らと一緒で人間だったんだよ。だけど、突然変異ってやつ? そういうので、こうなっちまって。見た目の変化だけじゃなく、力だってほれ、人間よりあるだろ? だからまあ、うまくいかなくなっちまってな。結局離れて暮らした方が互いのためだと、俺達はここに引っ込んだんだ。俺達は見た目はこうでも、穏やかな気質なんだぜ? 当時の王も、俺達を不憫に思ってこういう環境を整えてくれたしな。その後も王家とはそれなりにいい関係だったんだぜ? まあ、その大火を機にぶつっと連絡が取れなくなっちまったから、いよいよ見捨てられたかと思ったんだが、そうじゃなくてよかったぜ。それに、元を正せば俺らも白の民だ。他国に攻め入られるのは我慢ならねぇ」
苦笑で牙を覗かせて、ぱしんと膝を打つ。
「よし、そうと決まりゃ出陣準備だ。わりぃんだが、七日欲しい。都まで鬼の足なら四日でつく。だが、王族のお墨付きがないと鬼の大移動は相当問題だろ。だからお前も七日待ってくれ。それが条件だ」
朗らかに笑うスオウに、私はにこりと笑って返した。
「無論だ。ザーバットは手強い。万全を期してもらえると有り難い。ところで、見たところ建物はないようだが、我々は七日間どこで寝泊まりすればいいのだ? 出来れば湯浴みも行いたいのだが」
「わりぃが、そんなもんはねぇ。ここは雨も雪も降らねぇから、寝泊まりはその辺でしてる。それが嫌なら適当に壁穴使ってくれ。湯浴みもその辺の水使って勝手にやってくれ」
ちりちりとざわつく肌にはあえて触れず、私は自分の顎に指を当てて苦笑を返す。
「生憎、酒で身体を洗う趣味はない。料理の下拵えでもあるまいに」
肩を竦めやれやれと首を振れば、スオウは細い眼を丸くし、やがて膝を叩いて笑い始めた。背を折り腹を抱え、ひいひい笑う。
「分かってたか! そいつはすまねぇ! ちょいとからかってやるつもりだったんだよ」
笑いすぎて苦しそうに引き攣っているのに、まだ笑い転げているスオウと一緒に周りの鬼達も声を上げて笑っている。私はやれやれともう一度肩を竦めた。
里の中心部にある巨大な泉とそこから流れている川は、全て酒だ。あまり強い匂いではないから最初は気づかなかったが、これだけそこかしらから酒の匂いが漂ってくれば嫌でも分かる。道理であちこちで鬼が酔っ払っているわけだ。
「悪いが酒は好まん子供舌だ。水がなければ困るな。ないのなら仕方がない。里の外で待つしかなさそうだ。流石に人であるこの身は水を飲まず七日間は堪えられん」
「わーってるよ。悪い悪い。ちょいとからかっただけだろ? 俺達はこんな暮らしだからな、お堅いのは性に合わねぇんだよ。水なら地下にあるから、そこのを適当に使ってくれ。それじゃあ、まあ、用意するかねぇ。よしてめぇら、ついてこーい」
ぱんっと膝を叩いて立ち上がり、ひらひらと手を振りながら去っていくスオウの後をぞろぞろと鬼が移動していく。結局、見晴らしのよいこの場所には、私とリト、そして踏み潰された椿の花が残った。
「さて」
私も立ち上がり、軽く服をはたいて汚れを落とす。
「婆さんや、寝床と水を確保しに行こうかね」
「せめて爺さんって呼んでくれる?」
里内は平和で穏やかだ。どうやら里外の季節問わず一年中この様相らしい。桜と梅と新緑と向日葵と紅葉と雪。全て一緒くたに見られるのは壮観であるが、ちょっと風情がないと知った。
鬼達の視線を感じながら、ゆっくり里内を見て回る。
鬼は先程と同じで一定以上近づいてこない。目が合えばにこりと笑い、ひらひら手を振ってくる。どの鬼も昼寝をしていたり、釣れるのかは知らないが酒の川で釣りをしていたり、酒を飲んでいたり、そこら中になっている果物を毟って食べたりと、呑気なものだ。
やがて、適当に見て回りながら見つけた洞窟を当面の寝床に定めた。ここは奥に行くほど下がっていき、突き当たりには水が湧いていたのだ。入り口側にも木や岩があり、外からの視線が遮られるのでちょうどよかった。
春と夏の範囲に近い場所なので、風は温かく快適だ。ここにしようとリトが言うので断る理由もなくほぼ即決だった。
リトが敷いてくれた上着に腰を下ろすと、荷を下ろしたリトも私の前に座る。赤い瞳がじっと私を見た。
「さて、俺に何か聞きたいことは?」
「そうだね。まず祠……隠し通路かな。それを見つけてほしいんだけど、そういうの得意?」
「………………得意だけどな? そういうことじゃなくてだな?」
「そういうことだよ。七日間ここにいるとまずいから、早いところ決着をつけたい」
まっすぐに見つめ返せば、しばらく黙って見つめ合うことになった。少し尖った耳には相変わらず金の耳飾りがある。少し目を凝らせば、光の加減なのか神気の狭間なのか赤黒い輪が見えることもある。
真っ黒に染まった爪で頬を掻いたリトは、がっくり肩を落とした。
「先におひい様の話を聞こうか」
「助かる。ここ、結界なんだよ。鬼を外に出さないための、結界。あちこちにその気配がある。恐らく、私達のご先祖様が張ったんだと思う。かなり強い奴だから、神の血が強く出ている代のご先祖様だと思う。もしかしたら初代である神の子くらい神と近いかも。流石に綻びも出てるみたいだから、そこからちらちら鬼が出ていたんじゃないかと私は見てる」
「成程な。それで、七日ってのは何だ?」
「人は七つまでは神の子。ここは四季が一カ所に集約されてる。一日が終われば、一年が終わったと見なすことが出来る。ここで七日を超えれば神の子は人の子となる。つまり、神との繋がり薄れるんだ。恐らくそうなれば、鬼は私達を殺せる。言い換えれば、それまでは手を出せないんだと思う。私が神の血、ここの結界作成者の子孫であることも大きいんだろうけど。ずっと私の勘が騒いでるから、この里は安全じゃない。鬼は王族の訪問だけを許可している。七日。ここは私の先祖が作った結界内。それらを踏まえた上で考えれば、鬼は私を食えばここから出られるのかもしれない。現に私の血を嘗めたあいつは私に触れることが出来た。それもあいつ自身が切りつけたものじゃない。あいつはまだ、私を傷つけることが出来ないはずだ」
スオウへ状況説明している間も、ずっと考えていたことをつらつら吐き出す。今までこの相手はソウジュだったが、ここにソウジュはいないのだ。
神水があれば水鏡が使えたが、あいにくこの里にある水は酒で、湧いている地下水にも神気は感じられなかった。
「ここが結界内なら、それを確立させている神具があるはずだ。さっき簡単にだが結界を見て回ったが、この結界は鬼をこの地に囲い込んでるんじゃなくて、出させないんだ。鬼に、出るなと命じてる。強制的に従わせてる結界なんだ。つまりその神具があれば、鬼に命じることが出来る。仕掛けたのが私達のご先祖様なら私にも使用できるはずだ。神具で鬼を従え、戦場に引っ張り出す。出来るならちゃんと同盟を組みたかったが、鬼は最初からこちらと手を組むつもりはないらしい。何せまともに話し合いも出来なかった。ならば仕方がない、道具として利用させてもらう。元より盗品で身を固めている連中に、情けは必要ない」
鬼が身を包んでいる着物から、地面に無造作に置かれている調度品から、死臭がした。それだけではなく、彼らの背後にべったりと張り付いている数え切れない死霊達。嘆きと恐怖と憎悪が張り付いたそれらが私へ伸ばす手を無視して、鬼と和やかに話し続けた。
基本的に鬼は外へと出られない。ならばそれを持ち込んでいる輩がいる。恐らくは人であろう。どう考えても真っ当な手段で手に入れてはいない。そして鬼も、それを分かって引き取っているのだ。鬼の中には揺れる死霊の陰を目で追っている輩もいたのだから。
鬼を白防衛のために利用する。元より鬼は、白の民に区分されていない。向こうもその選択を弾いた。話し合いの余地もなく、最初から省いたのだ。ならばお望み通り、存分に利用させてもらう。
うまくいけば、ザーバットと潰し合ってくれればいいとさえ思う。
非道と呼びたくば呼べばいい。鬼よりも鬼らしいと、残忍で冷酷で強突く張りの極悪人だと罵りたければ罵ればいい。王をそう罵れる民が残るのなら、私は鬼に食われたって構わない。
ザーバットの話をする度に、全身を焼かれるかのような不快感が纏わり付く。吐き気を通り越し、胸の奥から炎を吐き出せてしまえそうだった。私達の勘が、全力で逃げろと告げている。
ザーバットは本気だ。本気で白を潰しに来ている。
資料が足らずとも報告が届かずとも、分かる。私達には分かってしまう。
なればこその王なのだ。そして、それを分かっているのに、今更己の保身や、白の民を殺しその文化より生み出された着物や家具を奪っている鬼からの信頼など、望むはずがない。
これらは全て、ソウジュと話し合った上で決定したことだ。鬼の処遇も存在も、幾通りもの仮説を立ててきた。
それは今に始まったことではなく、何年も前から。
鬼は何故里にいるのか。本人達が望んで留まっているのか、封じ込められているのか。実際にこの地を見て分かった。これは結界だ。しかも、外部から内部を守るためではなく、外部へ出さないように封じ込める結界。
ならば鬼をどう扱うか、その結果をどう負うか、私達は既に決めてきた。今代の白王は、非道で冷酷な、後の世に悪辣と伝えられるであろう覚悟も、既に終えているのだ。
「どちらにせよ時間がない。とにかく神具を探そう」
これからの方針を決めた時、それまで一言も喋らなかったリトが動いた。その手が伸び、私の手を握る。冷たく白い手。その長い指先は何か染料を塗りつけたかのように真っ黒だ。まるで死人のようだと、少し思う。それなのに気味が悪いとはちっとも思えない自分に、少しだけ絶望した。
「お前を罵る者がいれば、俺はそいつを憎むだろう。俺は、許すよ。お前が何をしても、どこに行っても、仮令神が許さずとも、俺は絶対に許し続ける。だからシャラ、お前はお前を呪わなくていいんだ。お前の生まれを呪ってもいい。環境を呪ってもいい。お前に酷な選択をさせる全てを憎んでいい。けれど、自分自身だけはどうか呪わないでくれ。お前は、強く賢く美しい、とても優しい女だよ」
ソウジュ
ソウジュ ソウジュ ソウジュ
無意識に半身を呼んでいた。駄目だ、崩れる。この手を振りほどかないと、壊れる。
「お前の、お前達の選択が非道なんじゃない。お前達が背負っている物が重すぎるんだ。だから何が何でも選ばなければならなくて、けれどどの選択肢も人の身には重すぎる。ただ、それだけなんだ。王としてのお前の選択は国の責で、国の選択はお前の責ではない。お前達姉弟は確かに国の生命線ではあるが、国本体じゃない。お前達は、白じゃないんだ。お前達だって白の民で、守られるべき魂だ。それを忘れてはいけない。シャラ、君達はまだ十五になったばかりの子どもなんだよ」
ソウジュ、どうしようね。
君と遠く離れたことも、君がいないこともちっともつらくない。けれど淋しい。君がいないと、淋しいね。柔らかな言葉が酷い傷となるほどに。
「君達は愛すことにも愛されることにも慣れすぎていて、それが魂を削る行為だと知らない。知らないまま、その身を削り続けている。そんな莫大な愛を紡ぎ、受け止め続けられるのは神だけだ」
手を引き抜こうとするのにびくともしない。それならばせめて痛みを伴えばいいのに、痛くもない。なんて酷いことを。酷いことを言って酷いことをする。
「離せ、リト。不敬が過ぎる」
「そうだな。でも俺はいま、シャラに話しているから。この手を振りほどきたいなら、シャラの言葉で俺に伝えてくれ」
この人は、酷い人だったのだ。
「……やめて」
ソウジュ、ソウジュソウジュソウジュ。君に会いたい。
この人、私達に王以外の生き方を見出させようとする。それは酷く残酷な行為だと分かっているだろうに。
手で顔を覆うこともできず、俯くしかない自分が惨めになる。
「私達を救おうとなんて、しないで」
やめて、救わないで。私達の救いは、白の滅びなのだから。
「白には、王が必要なんだよ」
「うん」
「もう、王は私達しかいないんだよ」
「そうだね」
「白はこの地の神々によって成り立ってきた国なのに、神との明確な繋がりはもう私達の血しか存在しない。後はひたすらに、人間側からの一方的な祈りによるものでしかない。神との繋ぎを失えば、神々は最早この地に留まる理由さえ失う」
白の神々は、自然そのものだ。故に、決して慈悲深くはない。
豊穣を人間が糧とすることを咎めるわけではないが、かといって人間のために豊穣を作り出しているわけではない。ただただあるがまま、流れのまま、そこにいるだけだ。人間はそれらの余波で富み、貧しているだけなのだ。
白の神々は、白の大地をザーバットに渡すくらいならば白ごと滅ぼすだろう。
彼らはこの地にこだわる必要がない。神には神の世界があるのだ。白がなくなれば神々の世界へと帰って行くだろう。
そこが大陸が掲げる神と同一の地かどうかは分からないが、神々はこの地への執着を持たない。害されれば怒りを持つだろうが、己を滅ぼしてまで守る事はしない。大陸に比べればちっぽけなこの島国を不毛の地へと変えたところで、気にはしないだろう。
私達にとっては、それだけは何としても避けねばならぬ絶望だとしても。
「だからこそ王が居るんだよ。……王が、要るんだよ。神子としての側面を持つ王が、神との繋がりを持つ王がいることで、この国は神をこの地に止めているんだから」
私達には生まれた時より他の道など存在しない。他の道があるのなら、その選択が残されているのなら、そもそも生まれてこなかった命だ。
「他の道を見せてもいい。私達を哀れんでもいい。同情してもいい。愚かだと蔑んでもいい。だけど、王を、この白の王だけは救おうとしないで。それだけは絶対に許さない」
顔を上げず、私の手を握る彼の黒い爪だけを見て喋り続ける。相手の反応を確かめることも、窺うこともしない。相手に配慮なんてしない。
傲慢で自分勝手で、かといって投げやりになっているわけでもない。相手がどんな反応を示そうが変化をするつもりが欠片もないからこその傍若無人なのだ。
私達は、白の砦だ。
白が白で在り続ける為のという意味でもそうだし、この地に生命を芽吹かせるという意味でも。命の最後の砦が医師であるように、白の、国の最後の砦が私達だ。私達より後には何もない。私達が踏みとどまれなければ白は国ごと地を失う。
相手がどんな気持ちになろうが構わない。どうでもいい。傷つこうが呆れようが怒ろうが悲しもうが喜ぼうが、どうでもいい。
だって私は王なのだ。私達より上に人は存在せず、私と同じ場所に居るのはソウジュ一人。
大丈夫。私達は私達で循環していける。仮令どちらかが死んだとしても、私達は私達で完結して生きていけるのだ。
それが、それだけが、私達に許された救いなのだ。だから、要らない。他の救いなど、要らないのだ。
それなのに、この人の手は私から離れない。
「分かっているよ。君達は酷く真面目で気高い。この激動の時代に振り回される白に何より必要な人物でありながら、王であるには優しすぎる」
シャラ。名を、呼ばれる。こんな時こそおひい様と呼んでくれればいいものを。この人はとことん酷い人だ。
「大丈夫。大丈夫だよ。その為に俺がいるんだ。その為に、俺はいま、ここにいるんだよ。大丈夫。鬼はうまく使えるし、白はザーバットに勝てるし、君達は互いを失わない。……いい子。いい子だね。君達はとても優しい、いい子だよ」
優しさも甘さも、周りの大人達から余すほど貰ってきた。二人で受け取ってもまだ持て余すほどに。
だからこそ、私達は王で在り続ける。そう決めたのだ。
それなのにどうして、この人の声はこんなにも柔らかに人の心に染み入ってくるのか。受け入れていい類いのものではない。この声も、言葉も、私達は受け取ってはならないものだ。それなのに、勝手に染み入ってくる。
痛む瞳の奥から勝手に染みだそうとした滴を堪える。これ以上は、本当に矜持が許さない。
しかし、気がつけば俯いていた視界が上がっていく。柔らかく解けた赤い瞳が、苦しい。だって、こんなにも柔らかな瞳で柔らかな言葉を紡いでいるのに、それは私に向けてではないのだ。どこまでも姉王としてではなく、シャラとしての私を解くくせに、守るくせに、この人の行動指針は別にある。
ぐっと噛みしめた私の唇が、勝手に解けた。
「救われなければならないのは、貴方のほうなのに」
私の意思とは関係なく紡がれた言葉に、赤い瞳が見開かれた。そして、くしゃりと笑う。
「そこにいるの、マリア」
私を守ると言い、白を守ると言い、私を解くくせに、私を恋しい女の為の依代とするのか。これ以上の侮辱があるだろうか。
今度はするりと抜け出せた手を自分の物だけで繋ぎ合わせる。もう手を取られたりしないよう、もう繋がなくていいよう、固く握りしめた。
私はソウジュとだけ握れていればいい。私達はそうして生きてきたし、これからもそうやって生きていく。私達は個人として誰かの未練になどなりたくはないのだから、それでいい。
胸が砕け散りそうなほど痛むのは、気のせいだ。
「鬼は夜の方が動きが活発になると聞くから、出来れば捜索は昼間にしたいんだけど、どうかな。神気は地面、地下から流れているように感じるから、やっぱり通路か何かがあると思うの。リトはどう思う?」
「そうだね。俺、少し行きたい場所があるんだけど、鬼達はあんたに手を出せないのは確実か?」
跳んだり跳ねたり、思っていたより髪が酷いことになっている。軽く整えてどうにかなりそうではなかったので、諦めていっそ解く。耳にかかっていた髪を下ろし、頬を覆う。
「恐らくは。だけどここにある神気を集めてここの入り口に結界を張るくらいは可能だよ。その程度には私も神子だから。で、行きたい場所っていうのは? 心当たりでもあるってこと?」
「無いように見えるか?」
にこりと笑うその顔が、頼もしいと思うより、疑わしいと思うより、憎らしいと思ってしまった。全てをない交ぜにした表情は苦笑にしかならない。
「後で説明してね」
「さあなぁ。でも、いいのか? 俺を疑わなくて。どうやらこの結界内、表面上の繕いが剥がれるようだから、俺、相当な姿だけど」
尖った耳に牙。黒く染まった爪。角がないだけで鬼と大差ない異形の姿に赤黒い輪。だから何だというのだ。貴方が私をマリアの依代として扱った以上に酷いことなど、ないではないか。
「今更だよ。私は私の勘をソウジュの次に信じているから。困ったことに、君にはまーったく反応しないんだよね。でも、どうやら天の戸内から連れて来ちゃった何かには妙に反応してこっちも困ってる。落ち着いたら祓うつもりだから、この何かにお心当たりがある方はお早めにどうぞ」
肩を竦めて茶化せば、困ったように笑う。その顔が、いらついてならない。
こんなことで嫌みったらしく茶化してしまう自分が何より腹立たしい。
思わず力を篭めて爪で抉ってしまった指に痛みが走る。視線を落とせば、さっき小刀で切った傷口を抉ってしまったようだ。根元を握りしめているせいで、血が丸い形となって現れる。小さく息を吐き、その指を差し出す。
「嫌じゃなかったら飲んどく?」
「俺は確かに魔性の類いだけど、人の血肉を喰らわなくても腹は膨れるよ」
「違うわよ。今から結界張るけど、私の血を摂取しておけば結界に左右されることなく出入りできるの。要は、合鍵いるかどうかって話。それに、もしその神具にも似たような結界が施されてた場合、この血があるとないとじゃ大分違うと思う」
「ああ、成程……待て、それはあの鬼にも反映される効果か?」
血が止まってしまわないよう指の付け根を一度解放し、再び絞る。そんなに深い傷じゃないから、早く決めてくれないと血が止まってしまう。
「多少は。けど、私が許可して与えた血と勝手に嘗めた血じゃ差は出る。ましてあっちは刃物を通してしか摂取してない。刃物は断ち切るものだから、刃についた物を摂取しても大した効果は得られないよ。勿論、私が意図的に付与した物は別だけど」
リトは少し考える。その間も丸い血は少しずつ大きくなり、やがて巨大化を止めた。止まったなと他人事のように思う。
「だけど気をつけて。私が呪をかければ、この血を取り込んだ貴方は私に支配を許すことになる。神子の血肉を取り込むとはそういうことよ。それを納得できるのなら、どうぞ」
飲まないならもう拭き取っていいだろうか。無駄に溢れ出した血が惨めで、何だか今の私の気持ちと重なって見える。だったら早く拭い去りたい。そして無かったことに出来たなら、この胸の痛みも無駄な物だと処理できるだろう。
手拭いを取り出すのも億劫で、服の裾に擦りつけようとしていた指が取られひっくり返される。重力に従って指から伝い落ちた一滴の赤は、その下で開けられていた口へと消えていく。
たった一滴。されど一滴。
受け入れられない無駄な物となった方がどれだけ楽だったか。ああ、馬鹿みたいだ。
喉が動き、完全に嚥下したことが分かる。リトはゆっくりと立ち上がった。
「王の血を与えられる。黒羅にとってこれ以上の栄誉があるだろうか。我が王、我が主。君の先祖の神具を、必ず君に捧げると誓うよ」
恭しく頭を下げた彼を見る私は、どんな顔をしていたのか、もう分からなかった。
私が完全に結界を張ったことを見届け、リトはするりと姿を消した。今度は私がそれを見届ける。
リトの気配が完全に消えてから、のろのろと動き出し、荷から厚手の上着を取り出す。里内が温かいからと一旦しまっていた雪山用の上着を荷の後ろへと引き、その上に寝転がる。
大きな荷で隠れる位置に陣取っているので、もし鬼が覗きに来ても私の姿は見えないだろう。更にさっきまでかぶっていた上着を脱いでから、頭までかぶり直す。こうすれば、もう誰にも私の姿は見えない。
私へ向けられる害意でちりちりと肌が焼ける。無様な感情でじりじりと胸が焦げ付く。
丸まりながら、自身を抱きしめる。いつも抱きしめ合ってきたソウジュはここにいない。離れていても私達は抱きしめ合えた。手を繋いでいられた。片方が怪我をすれば同じ位置に変化が訪れる程に、私達は常に一緒であった。そうして生きてきた。それなのに、今はどうにも耐え難い。
「馬鹿みたい……」
胸元を握りしめ、更に丸まる。
出会ってたったの数日で何の痛みを発するつもりだ。愚かで浅はかで浅ましい。この痛みは、天の戸内から連れてきた何かの、彼がマリアと呼ぶ、彼の愛した人の感情であろう。
それに引き摺られているだけだ。依代となった神子にはままあることだ。今まで私達は自分を互いへ置いていたから何物にも引っ張られず済んだだけで、今はまんまと引っ張られてこの様だ。
馬鹿みたい馬鹿みたい馬鹿みたい。これは私の痛みじゃない。これは私の熱じゃない。
これは私の恋じゃない。
これは全てマリアと呼ばれた女の物で。私に向けられる彼の優しさも同様に、全て、彼女のために構成された物だ。私の物じゃない。私へ向けての愛じゃない。分かっている。分かっているのに何て体たらく。
何て無様な、なり損ないの恋。
今はそんな色恋沙汰に割く気力も体力も時間も暇も無い。そうでなくとも、こんな数日で何が恋だ。勘違いどころの話ではない。
これは私を通したマリアが彼へと向ける感情で、私を通してマリアへ向ける彼の愛で。私には何ら関係の無いことだ。
分かっている。分かっているのに、馬鹿な女。初めての恋をこんな形で迎えるとは無様にも程がある。
真っ当な恋ではないこの想いは無残に砕け散る権利すらないなり損ないだ。
傷を負う権利はなく、流す涙は滑稽で、ただただ存在しない物として生まれてしまった私の恋は、生み出した私を呪うくらいしかすることがない。
世界で何より無意味なもの。
「……ああ、でも、丁度いいのか」
私は、王だから。
初めての恋がこんな出来損ないなら、二度と真っ当な恋など出来まい。ならば丁度いい。恋などしてはならない女が、恋をし損なった。これはただそれだけのことで、白にとって望ましい結果である。
だからどうか祝ってください。
浅ましい私を呪うしか能の無いこの恋を、誰か。恋に溺れ過ちを犯す愚王が現れる可能性が摘み取られ、白の為にはよかったのだと、白の未来は安泰だと、祝ってください。
この無残な残骸が、たとえこじつけであったとしても意味あるものだと思わせてほしかった。