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漆話  、





 出発はやはり日も昇らぬ早朝に。その予定だったが、宿の主人夫婦から猛反対を受けた。その理由は、扉を開けてすぐに分かった。


「開かない……」


 開かなかったのである。




 一晩の間に扉を超える高さに積もった雪は、押戸の扉をぴったり塞いでいた。まあこの場合、引き戸であろうが結果は変わらなかっただろう。開けばいいというものではない。

 熊が髭を揺らしながらのそのそ言うに、いつも二階から出て雪かきするのだそうだ。どうやら雪かきが終わるまで待つしかなさそうだ。しかし、これは困った。片道四日の予定は、今日中に鬼の里に着くことを前提としての予定だ。この分にはもう一泊必要かもしれない。

 肩を落としていると、リトが小さく欠伸をしながら肩を回した。


「二階からなら出られるのか?」

「ああ。だが、雪をかかねば歩けたもんじゃないぞ」

「大丈夫。シャラ、おぶうから出発しよう。昨日休んだ分、今日を取り戻そう」


 さらりと言ったリトに、熊と一緒にぎょっとする。本人はとんでもないことを言い出した自覚はないのか、荷を前に持ち直しながら大きな上着を取り出した。荷ごと包める厚い上着は雨除け用の物だ。


「ほら、乗って」

「待って、リト。冗談でしょう?」

「まさか。俺はいつだって本気だよ。この程度ならいける。時間ないから、早く」


 急かされ、仕方なくその背に乗る。一度やってみて失敗しなければ分からない類いの人間なのかもしれないと思ったからだ。私の重さで潰れられてはそれはそれで傷を負うが、背に腹は代えられない。どっちにしても私には致命傷だが、リトさえ元気なら何とかなると思っておこう。

 しぶしぶ乗っかると、しゃがんでいたリトは思っていたより楽々と立ち上がってしまった。背にいる私ごと大きめの上着を羽織り、前で止める。


「どの窓から出られるって?」

「あ、ああ、こっちだが……本当に大丈夫なのか? 踏み固められていない雪だから埋まるぞ」


 案内された窓は分厚い硝子窓だった。重い音を立てて開かれた真下にまで雪が積もっている。


「問題ない。じゃあな、世話になった」


 そう言うや否や、リトは人を一人背負っているとは思えない身軽さでひらりと窓を飛び越えた。

 ざくりと霜よりは細かい音を立てて降り立った雪には、リトの足首ほどしか埋まっていない。そうか、術かとようやく納得がいった。これなら雪に沈むことなく歩いて行ける。リトが私の重さに潰されない限りは。

 雪の上に平然と立つリトをぽかんと見ていた熊に礼を言っている間に、リトは歩き始めていた。慌ててその首にしがみつく。抱きついて分かったが、リトは大分薄着だ。これは身体が冷えもすると、抱きついた身体の冷たさにぶるりと震えた。


「リト、こんなに薄着だったの? 寒いよ」


 人には風邪を引くだの何だの言うくせに自分だって相当だ。


「あんまり着込むと動きづらいからな。それに、俺は寒さや暑さに強いんだよ。さて、ここまで来たら宿屋から見えない。走るから、しっかり掴まってろよ」


 この雪の中を歩くだけでもとんでもないのに、走るだと?

 理解が追いつかない間に、既にリトは走り出していた。顔に当たる風の冷たさに頬が凍り付いたかのようにずきずき痛む。けれどそんなこと気にはならなかった。

 だって、何て早さだろう。およそ人が走っているとは思えない。彼が屈強な男ならそれも可能だったのかもしれない。けれどここは人々の営みを埋めてしまった雪の上で、更に人を背負った状態なのだ。いくら術を使っているとはいえ、こんな速度で雪の上を走れるものなのだろうか。何の障害のない土の上だって、こんなに速く走れる人を見たことはない。

 獣のようにしなやかで、きっと獣よりも早い。

 あっという間に全ての景色を置き去りにして、息一つ乱さずに走り続けている。だというのに、私を背負うその肩は随分と薄い。この状態でこんな走りを出来るようにも、山賊を皆殺しに出来るようにも思えない薄く冷たい身体。


 人では、ないのかもしれない。

 何故だかすとんと胸に落ちた結論は、違和を全く感じさせず腑に落ちるだけだ。

 鬼、なのだろうか。

 しかし鬼には角がある。それにあの夢は、一体何なのだろうか。私が天の戸から連れてきてしまったものは、恐らくあの女に繋がる何かだ。

 彼女が、リトの大切な人だったのだろうか。そもそも、あれはリトだったのだろうか。

 顔立ちは、似ている。だけど髪や瞳の色以前に、雰囲気がまるで違う。私の知っているリトは、春の柔らかさを纏ったような温かな空気ではなく、冬の過酷な冷たさか夏の容赦がない灼熱が似合う人だ。


 この人に、何があったのだろう。それは私が暴いていいものなのだろうか。

 普段であればきっと釘付けになってしまう雪原の景色を見ることなく、私は彼の肩に顔を埋めた。彼はそれを寒さによるものと判断したのだろう。私ごと包んでいる上着の襟を詰め、風を塞いだ。






「マリア、おせんたく上手になったね」


 足下から小さな手で裾を引かれ、視線を落とす。そこには三つ編みを揺らすそばかすの少女が立っていた。この女の名はどうやらマリアというらしい。天の戸内で聞こえた名と相違ない。

 目の前には真っ白に洗われた布が一面に干されている。そうかな。女がそう言えば、少女は大きく頷く。


「さいしょは、お洗たくもおりょう理もおそうじも、ぜーんぶダメダメだったのに、大したものだって、ミケ言ってたよ。ねー、ミケ」

「わ、ターニャ、バカ! しー!」


 空になった洗濯籠を運ぼうとしていたミケがすっ飛んできて、ターニャの口を塞いだ。四つのターニャよりもいくつか年上のミケは慌ててターニャの身体をひょいっと抱き上げた。それはそれでご満悦だったのか、ターニャはふっくらとした頬を緩ませ、足を揺らしている。


「お、俺じゃねぇし! えーと、そうだ! 司祭様! 司祭様が言ってたんだ!」

「おや、私でしたか。それは知りませんでしたねぇ」


 建物の裏手にある菜園に水をやっていたリトがひょいっと現れると、ミケはターニャを抱えたままぴゃっと飛び上がった。ターニャは楽しかったようできゃらきゃら笑う。


「え、えっと、あの……ごめんなさい、俺が言いました……」

「はい。大丈夫ですよ。神は全てを見ていらっしゃいます。貴方が正直に言えたことも、ちゃんと見ておいでですから、きっとお許しくださいますとも。さあ、二人とも、今日の当番ご苦労様です。皆と遊んでおいでなさい。機関車を見に行くのなら線路には絶対に立ち入ってはなりませんよ」


 二人はぱっと目を輝かせた。


 この教会には二人を合わせて九人の子ども達がいる。誰もが孤児だ。その子ども達は、当番の二人以外は皆機関車を見に行っている。数年前、蒸気機関車が発明されたと大々的に発表され、一年前から運行が開始された。その線路が最近この町にも伸びたのである。

 子ども達は機関車を見るために線路の傍に集まり、いつ通るともしれない機関車を待ちわびているのだ。


「はい、司さいさま!」

「神にちかって!」


 ミケはターニャの手を引き、走り去っていく。運ぼうとしていた洗濯籠の存在は頭からすっぽり抜けたらしい。置き去りになった籠を苦笑しながら拾い上げたリトは、風にはためく洗濯物と、その向こうの抜けるような青空を見て眼を細めた。


「マリアがこの教会に来てもう二ヶ月ですか。早いものですね」


 当初は芋の皮一つ満足に剥けなかった女を、リトも子ども達も決して見捨てず根気よく生活の術を教えていった。本当に大変なご迷惑を。しおしお頭を下げる女に、リトはあははと声を上げて笑った。


「いえいえ。私も最初は何も出来ませんでした。料理を覚えたのも洗濯を覚えたのも、この教会に来てからですし。地方は魔物の出現は多いのに、司祭の数も質も圧倒的に中央に寄っている。だからと立候補したのはいいですが、それまでは有り難いことに生活を整える苦労をしたことがなくて。目玉焼きを消し炭にした罪を神に謝罪したことから生活が始まるだなんて想像もしていませんでした」


 リトは恥ずかしそうに笑う。しかし女は笑っていない。つい先日も卵の殻入り消し炭を作った身ゆえ、笑うことなどどうして出来よう。ふいーっと視線を逸らしていく女に、リトは噴き出す。


「そんな私でも、今では九人の子ども達の食事を作れるようになるのです。大丈夫ですよ。まあ、まさか魔物祓いより育児が主になるとは思っていませんでしたが……おや? ベンさん、どうしましたか?」


 ぱっと視線の向きを変えたリトは、いつの間にか表から回ってきた中年の男を見て声をかけた。帽子を片手で取り、白髪が目立ってきた頭をぺこりと下げた男は、教会から少し離れた場所で農業をしている。


「こりゃどうも司祭様。すいやせんが、今朝方畑の野菜が三つほど腐ってまして、見て頂けませんかね」

「ええ、分かりました。……しかし、最近多いですね。つい先日もビルさんの牧場で仔牛が殺されましたし……戦争があるわけでもないのにやけに魔物の動きが活発です。機関車が通って人の往来が増えているからでしょうか。少し気をつけておきましょう」


 魔物とは伝承上の生き物ではない。この世の生き物でもない。魔界から地上に這い出てくる魔性の物だ。

 作物を腐らせ、家畜を殺し、病を流行らせ、人々に死と堕落を撒き散らすことに快感を感じる、神の敵である。

 小指の先程の大きさであったり、獣の姿をしているものはまだいい。本当に危険な物は人の形をしている悪魔だ。人の形をしている悪魔は、言葉を介し、頭が回り、息を呑むほど美しいのだという。力も桁違いで、泉を一晩で毒の池にすることもあれば、街を火の海にし、国を滅ぼしたことさえある。

 女はリトと教会の本から、それを学んだ。

 だから、リトのように力ある司祭が必要なのだ。司祭は魔物を祓うことが出来る。実際に祓った魔物を見せてもらったこともあった。それは小柄な魔物で姿形は鼠に似ていたが、唇は大きく裂け、足は蜘蛛のようで、額には角が生えていた。泡を吹いていた馬の腹から出てきたのだそうだ。

 悪魔は普通の人間ではどうしようもない。殺すには、司祭の力が必要なのだ。


「かもしれませんな。あの機関車つーものは、そりゃあとおーくからきなさるんですよね? ああ、それとお忙しいとは思うんですが、ナンシーの婆さんが腰をやっちまったみたいで、診てやってくれませんかね」

「ええ、分かりました。ですが、何度も言いますが、私は医師ではありませんので簡単な処置しか出来ません。早く医師の後継が見つかるといいんですがねぇ」

「ビル爺さんが寿命でおっ死んじまってから中々ねぇ。こんな田舎まで来てくださる物好きなお医師様はそうそういなさらないんですわ」

「物好きな司祭もいるから大丈夫ですよ」


 穏やかに微笑むリトに、ベンは感嘆の声を上げる。


「いやぁ、本当に司祭様にはお世話になりっぱなしでさぁ。司祭様は中央のお偉い司祭様なんでしょう? ここに赴任された際も、お貴族様方が泡食ってらっしゃいましたし。まだお若いのに立派ですわ」

「まだまだ未熟な身故、お恥ずかしい限りです。私一人が出来ることなど限られていますよ。私は皆様が幸せで、世界が平和で穏やかなものになるよう微力ながらお手伝いさせて頂いているだけです」


 女はリトから洗濯籠を受け取った。リトは少しくすぐったそうに微笑む。ここに来たばかりの頃は、乳飲み子から一番大きくても十歳に届かないやんちゃ盛りのミケまで、一人で世話していて何かと忙しそうだった。初めて女と会った時も、数ヶ月ぶりにのんびりしていたのだと笑っていた。

 女も、少しでもリトの役に立てることが嬉しかったようで、どうやら笑ったようだった。



「それでは少し出てきます。何かありましたら連絡を」


 女は頷き、行ってらっしゃいと告げた。それを見たベンが、まるで若夫婦のようだとからから笑う。女と、珍しくもリトまでもが顔を赤く染めた様を見て、ベンは腹を揺らして笑った。

 困った顔で女を見たリトの頭を囲っている細く美しい光の輪を、女は眩しげに見つめていた。





 光の輪がじわりと色を変える。雪の上に飛び散った赤黒い命の塊のように、醜悪で吐き気を催す深い赤へと色を変えた輪が、視界の中で周囲の光を吸い込んでいた。

 思わず手を伸ばす。あんなにも神々しく恐ろしいほど美しかった光はどこへいってしまったのだろう。ふらりと伸ばした手は、突如伸びてきた手に逆手に掴まれた。


「こら、ちゃんと掴まってなきゃ落ちるぞ」

「……ん、ごめん。何か、寝ぼけてた」

「寝てたな。この状態で眠れるとはかなり豪胆だな。流石おひい様。それに、それだけ疲れてるって事なんだろうな。いいさ、寝とけよ。落ちないよう俺も気をつけるからさ」


 相変わらず凄まじい速度で走り抜けている。一向に速度が落ちないどころかあがっているのではないだろうか。

 それなのに、剥き出しの頬も鼻も赤くなっていない。白い息すら出ていなくて、ここまで来ると不思議では片付けられなかった。だからといって、恐ろしくはないから困ったものだ。

 私の持つ神子としての勘は、神に由来するものだから、時に思わぬ結果を齎すことがある。今回もそうなのかもしれないと、何となく思った。神の基準で神の判断で、知らせるべきものを知らせてくれる。

 神は、己達の大地の継続を含めた上で、白を愛している。しかしそれは神の愛だから、人間の基準とは違っていた。私が生き伸びることに力を貸してくれるのは、私が姉王として白に必要な王であるから。私達に都合よく現れるのは、白を守るという目的が私達と重なっているからと、私達の血に神の血が混ざっているからが多少あるだけで、神の愛は人間の幸せと同義ではない。神は人間の都合も幸も不幸も生も死も、その末路も気にはしない。


 君は、誰?


 だからこそ、私はその問いを飲みこむしかない。

 神を裏切ったと言い切るこの人の過去に何があったのか、リトが話さないのなら聞くべきではない。神は慈悲深さよりも残酷さの方が際立つ存在であると知っているからこそ、私は口を噤んだ。

 夢を見なければ夢を見なければ夢を見なければ。

 囁き続ける声に背を向け、意識を閉ざす。天の戸内から連れてきてしまったらしい女かそれに似た何かなのか、判断がつかない存在が私に何をさせたいのかは分からない。けれどリト本人が何かを望んでいないのなら、私は手を出すべきではない。

 だって私は王で、それ以外では世間知らずな小娘なのだから。



 分かっている。私達はいつだってきちんと区分けしていた。出来ていた。私達は人の人生に関われる立場にない。王としても、人としても。王は個人に肩入れしてはならず、個人として人の人生に携われるほど親しい人はいない。

 分かっている。大丈夫。少し、女に引き摺られただけだ。それか、寒いから。まだ春が遠いこの地で、雪よりは温かい、けれど人よりは冷たい温度のこの人の背が、痛いだけで。

 だから私は、白の明日以外、望むものは何もないのだ。









 それは突然現れた。遠目にはただの山にしか見えなかったが、近づいてみればそこがぱっくり口を開けていると分かる。

 左右を断崖に挟まれた道は、天井は塞がれていないはずなのに不思議と雪が積もっていない。断崖にもそこに辿り着くための道なき道も全てが真っ白だったというのに、ここには剥き出しの土しかなかった。代わりに、草花の気配もない。季節どころか生き物の気配もしない場所は、まるで世界の果てのようだった。


「鬼について記載された書物はほとんど残っていないけど、ここへの地図は残っていて助かったね。ところでリトさん、下ろしてください」


 目的地に辿り着いても何故か私を下ろそうとしないリトの頬を後ろから挟み、潰す。心配になるほど冷たいけれど、全く赤くなっていない。代わりに瞳は煌々と赤く輝いているから、余計に肌の白さが際立つ。


「リト、下ろして」


 重ねて、頼むというよりは命令に近い形で告げれば、見るからにしぶしぶと手を離してくれた。

 前で止められていた上着を脱いだリトは、私を下ろしながらその上着を私にかぶせ、背から下ろした荷を地面へと置いた。流石に上着を取ってしまうわけにはいかず、慌てて脱ごうした私の前で、黒い月が現れる。

 音もなく抜かれた黒鋼の切っ先は地面を向いていたが、赤い瞳はまっすぐに前を向いていた。


「こんな奥深い雪山に来るなんざ、物好きか訳ありか。頭の足りねぇ駆け落ち夫婦なら飛んで火に入る夏の虫って寸法だってのによ、黒羅連れとなると話は変わるぜ。めんどくせぇなぁ」


 舌打ちと共に飛び降りてきたのは、雪に紛れ込みそうなほど白い男達だった。

 白い髪に白い肌。瞳と長い爪の赤は鮮烈な色を放っている。誰もに生えている角へざっと視線を這わせた。色も本数も大きさもどうやらそれぞれらしい。

 鬼の共通点は、耳が少し尖っていること、角が生えていること、白髪で瞳の色が赤いことのようだ。


 一番先頭にいる二十代前半ほどに見える男が着ている着物はどうやら女物のようだが、違和を感じさせないくらいには似合っていた。ただし身体的には白いので、色鮮やかな着物がやけに派手に見える。

 髪にもかんざしが刺さっているから、どうやら派手な色がお好みらしい。他の鬼にもちらほらそういう者がいるので、鬼の服装規定は随分緩やかなようだ。


「おい、女。てめぇ、何もんだ?」


 長く尖った爪で指され、肩を竦めて見せた。


「名を問いたくば己から名乗ってもらいたいものだが、今回は訪問者の立場として大人しく名乗りを上げておこうか」


 これだけ寒い地にあって、白い息を吐いているのは私だけだ。


「我は今代の白国王シャラである。鬼の頭領に話がある故、この地を訪ねた。里への立ち入りを許可して頂きたい」

「あ?」


 細い眉をひょいっと上げた男は、どうにも目つきが悪く見える。眉だけでなく眼も細いからだろうか。更にいうならば、鬱陶しそうにひん曲げた口元から尖った歯がぞろりと覗いている辺りでもう全てが悪く見える。一般人は即刻回れ右すべき要素がそろい踏みだ。

 男は長い爪を顎に当て、眼をひん曲げた。


「王族なら、里への出入りの儀礼を知らねぇとは言わせねぇぞ」

「すまないが、それらの資料は六百年前の大火で失われた。現在王家が所持している蔵書には、里への地図しか残されていない」


 大変申し訳ないが事実である。石版に刻まれてもいたのだが、如何せん建物が壊れた際に割れた上に焦げ付いてしまったらしい。男は六百年前……と呟き、舌打ちした。


「風神と火ノ神が大喧嘩やらかしたあの時か。そりゃあ燃えるわな」


 がりがりと頭を掻く青年は一体幾つなのだろう。鬼は長生きだと聞いたことがあるが、まさかその時代から生きているのだろうか。


 ちなみに六百年前の大火についての蔵書は残されていた。色々小難しいことが回りくどく書かれているが、要約すれば、偉大なる神様相手にこんなこと言っちゃいけないしそもそも考えちゃいけないし、普段はほんと感謝してるんだけど、この大喧嘩、正直すっごい迷惑、ほんとあり得ない、何なの、みたいな記述が残されている。

 分かる。神様同士の色恋沙汰や喧嘩は事欠かないが、都のど真ん中で大喧嘩やらかすのはほんとやめてほしい。おかげでこちらは大惨事である。


 大きな溜息を吐いた男は懐に手を突っ込み、無造作に掴みだしたそれをこっちへ向けて放り投げた。回転しながら飛んでくる物体の正体を見極める前に眼前に迫ったそれを、リトが片手で掴み取った。目の前でぴたりと止まったものは小刀だった。


「それでてめぇを切れ」

「指でいいか?」

「首でも腹でも切りたきゃ切れよ」


 どうでもよさそうに促されて切腹するつもりはないので指にしよう。リトの手から小刀を抜き取りながらまじまじと見つめる。刀身は曇っていないし、何かが塗られた形跡はなさそうだ。それでも目で見える範囲には限りがあるので本当は一度拭った方がよさそうだが、危険な感じはしないので大丈夫だろう。それにこれだけの寒さだ。もし毒が塗られても、血の巡りが悪くなっている今ならすぐに全身に回る心配はないだろう。多分。


「…………リト」


 そんなことを考えながら未だ抜き取れていない小刀を見つめる。何だこれ、びくともしない。仕方がないので、リトに握らせたまま指を切ったら睨まれた。どうしろというのだ。寒さでかじかんでいてうまく力加減が出来ず、思ったより広範囲を切ってしまった。だが、良くも悪くも寒さのせいで痛みを感じない。


「投げ返せ」


 尊大な態度で顎をしゃくった鬼めがけて、光が飛んだ。鬼は一瞬目を見開いたが、その指には小刀を挟んでいる。


「おお危な。てめぇ、大層な犬飼ってやがんな」

「主人想いの可愛い奴なんだ」


 いやぁ、それほどでも。頭を掻きながら答えたが、嫌そうな顔をした鬼が私の血がついた小刀の刃に舌を這わせていて、私も思わず嫌そうな顔をしてしまった。うわぁと引いた気持ちを隠しもしない私の前で、男は唇までべろりと嘗めた。


「ああ、確かに王族の血だな。いいぜ、入れよ」


 そんな判定の仕方があったのか。王族の血の味ってどんなだろう。美味しいのかまずいのか。心象的には美味しい方が嬉しいが、食べられたくはないのでまずい方が安全だろう。そう思いつつ、そぉっと隣を窺う。うむ怖い。リトの眼は半眼となり、完全に据わっている。刀も鞘に収まっておらず、しっかり握られたままだ。


「一緒に来ていいから、刀をしまって」


 全身に力が入っている身体に寄り添うように引っ付き、耳元でこそっと囁く。そこでようやく私を見たリトは、忌々しげに舌打ちして刀をしまった。

 鬼の青年は決定権があるのか、彼の言に皆が従うようだ。皆ぞろぞろと移動を始める。崖の上にもちらちら影が動いているので、どうやらまだそっちにもいるようだ。

 私達に背を向けて歩き出していた青年は、そういえばとくるりと振り向いた。


「そいつも連れてくるのか」

「王族に黒羅はつきものであろう? それにしても、随分と大仰な出迎えだな」


 ここで同行を断られたリトがどういう行動を取るのか、正直全く予想がつかない。配下を御せていないと責められれば仰るとおりだと己の不徳を恥じるしかないが、今は恥じるより話を逸らす方が先決である。たった二人の訪問者に対し、崖下へ下りてきた数だけでも優に十倍。崖上まで合わせるともっといるだろう。

 話を逸らした先で、鬼は嫌そうな顔をした。


「てめぇが得体の知れねぇもん連れてくるからだろ。何だその気色悪い混ざり物」

「人の枠から外れたくせして、中途半端に人の文明に固執する輩に言われる筋合いはねぇよ」

「ああ? 生物ですらないてめぇが黒羅だぁ? 黒羅も随分安くなったじゃねぇか」


 立ち去ろうとしてた鬼達が皆立ち止まり、赤い瞳をこちらに向けている。中には武器を構えている者もいた。その武器の色には覚えがある。山賊が持っていた物と同じ気配だ。首の後ろがじりっと熱を持った。まずいと、私の勘が告げている。しかし勘に教えて貰わずともまずいことくらい見れば分かった。どこからどう見ても一触即発だ。


「リト! 私は鬼と喧嘩をしに来たわけじゃない! 下がれ!」


 視線を向けないリトの腕を掴もうとして、ざわりと総毛立った。春のように温かい、あの光がリトを包んでいる。鬼が怪訝な顔をした瞬間、叫んだ。


「てめぇら引け!」


 鬼が怒鳴るのと、光が膨れ上がったのはほぼ同時だった。リトを中心とし、温かな光が円となって広がっていく。温かな風で髪が靡き、舞い上がる。何が起ったのか分からず呆然としていた視界が明るくなった。リトの放った光かと思ったが、視線を上げて愕然とする。厚い雪雲に覆われたどす黒い空が取り払われ、青空が見えていた。草一つ生えていなかった地面には青々しい緑が溢れ、花までも咲き誇る。光が届いていない場所では未だ凄まじい量の雪が積もっているというのに、ここだけまるで春のようだ。

 あの一瞬で崖の上まで飛び上がった鬼達の視線を上から感じながら、はっとなる。この力は山賊を相手にした時も使っていた。その時、彼の手はどうなったか。


「リト……」


 彼の手は、山賊の時のように前方に掲げられてはいなかった。無造作に身体の横へ垂らしたままだ。その手をそっと取る。彼は拒まなかった。持ち上げた掌をひっくり返せば、そこは酷く焼け爛れている。


「てめぇ……何だ、そりゃ」


 真っ先に崖上から飛び降りてきたのは、やはり先程まで会話をしていた青年だった。凄まじい高さから平気な顔で飛び降りた様子はやはり鬼だと思うが、ここに来るまでに似たような高さを私を背負ったまま飛び降りたリトを見ていると、もう驚きはしない。

 鬼の頭は二本の角に髪が絡まり、不自然な流れを作り出している。


「魔性が扱える類いの力じゃねぇだろ。そいつは神子だの神官だの、神に由来するもんだ。しかも、てめぇの力でてめぇを焼いてりゃ世話はねぇ」

「王へ害を加えた場合、俺はお前達を焼き払う。それを踏まえた上で行動しろ、鬼共」


 威嚇する獣のように喉奥から唸りを上げたリトの口元には、鬼の口から覗いている物と似た、尖った歯が覗いていた。丸みを帯びていた耳は尖り、牙が生え、生命を芽吹かせる光の術で焼き爛れる肌。それらを、私に隠そうともしない。私が受け入れると確信しているからではないと、分かってしまった。私が受け入れようが受け入れまいが、どうでもいいのだ。それが酷く痛く、悲しく、寂しかった。

 ぐっと握りしめた掌で、リトの頭を引っぱたく。


「私の指示を聞かない子は連れていかないぞ! いい子にしていろ!」


 目を丸くしたリトにふんっと鼻を鳴らし、鬼へと向き直る。


「配下が失礼をした。申し訳ない。今後はこのようなことがないよう言い聞かせる。改めて、私はシャラだ。鬼の頭領への案内、よろしく頼む」


 手を差し出せば、鬼は忌々しげに眉と薄い唇をひん曲げた。


「ったく。資料が残ってねぇ鬼の里へ乗り込む度胸は褒めてやるが、んな気色の悪りいもんを侍らすたぁ、今代の王は趣味が悪い。何もこんな得体の知れねぇ妖魔飼わなくてもいいだろ」

「まあそう言うな。慣れれば可愛くてな。おかげでお前達の瞳の美しさも解すことが出来る。こうも揃うと圧巻だな。美を解せると得した気分になるものだ」


 鬼は私が差し出した手は取らず、ぱしっと軽く叩いた。途端にリトの眉間に皺が寄り、私は引っ込めたその手ですかさず彼の手を握った。鬼の里へ行くのに、反射神経が要るとは聞いていない。

 握った手は焼け爛れた傷のある手で、すぐにしまったと思った。けれど、繋いだ冷たい手が見る見る間に感触を変えていく。僅かに指を動かしその肌を擦れば、つるりとした感触が伝わってきた。

 その動作をした途端、大人しく繋がれていた手が引かれた。さっき必要だと思い知った反射神経を駆使し、手に力を篭めてぎゅっと握る。急いだおかげで指が変に絡まってしまった。一本ずつ絡めるならまだしも、二本纏めて握ってしまうとちょっと指の股が痛い。


「全く、ちょっと見ねぇ間に王家の教育方針変わりすぎじゃねぇのか」

「いつの時代の話をしているかは知らんが、王家はそれなりに昔からこういう教育方針だ」

「へぇー、そいつはまたけったいなこった。配下が配下なら主も主だ。今代の王は男か女かも分かりゃしねぇ」

「……どちらもだな」

「あ?」


 思っていた以上に話が通じる鬼とは裏腹に、唯一の頼りであった黒羅が思っていた以上に話が通じず目が離せない。

 何だ、このはらはら感。赤ん坊は目を離したら死んでしまう不安がつきものだが、こっちは目を離したら殺してしまう不安ではらはらする。


 何とも不思議な気持ちで、歩き始めた鬼の後についていく。繋いだままの手を引いて歩けば、リトは大人しくついてくる。けれど手を握り返してはいないようだ。それでも構わなかった。

 振り向けば、どろりとした臓物に似た色の瞳がこちらを向いていた。いつの間にこんなに陰らせていたのか。ちょっと振り向かない間に自家中毒を起こしている人に苦笑する。噴き出せば、赤は瞬きをした。僅かに見開かれた瞳に光が差していて、私は大変満足する。



 いいの。

 髪が黒くても、瞳が赤くても、牙があっても、爪が黒くても、いいの。

 人とは思えぬ足で走り、力で引き裂き、傷がすぐに治っても、いいの。あなたが人でなくても、いいの。どんなあなたでも、いい、から。

 だからお願い。お願い、リト。いいの。もう、いいの。



 これが誰の思想なのか、私にはもう分からなかった。


 ごめんなさい、ごめんなさいリト。

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい――……。









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