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陸話  沙







 終わりは突然訪れた。足下の何とも形容しがたい感触は消え失せ、ざりっと音を立てる。岩の上に飛んでいる砂を踏んだのだ。視界を埋め尽くすのは黒ではなく白だった。まだ新緑を芽吹かせていない木々に降り積もるまばゆい銀雪に眼を焼かれる。

 痛いほどの光を受けながらも歩を進めた。そうでなければいつまで経っても背後の人が岩戸から出てこられないからだ。

 念のためもう数歩進んでから、振り向く。


「もう振り向いていいよ」

「そうみたいだな」


 ゆっくりと振り向いたリトは、ぴたりと閉じている岩戸をまじまじと見つめた。


「帰りもこれ使うのか?」

「場合によってはね。鬼の出方と身体能力次第かな」

「成程ね。出来ればあんま使いたくねぇから、鬼の説得頑張るかね」


 竦められた肩の動きのまま、するりと手が解かれた。低めだと思っていた体温でも、ずっと繋いでいればやはり温かい。それが失われた掌を凍るような冷たさが襲う。






 下ろした荷を探っていたリトは中から上着を取りだして私に寄越した。礼を言って受け取る間にも、手袋と帽子、首巻きを次々渡してくる。それらを渡し終えてようやく自分の上着を取り出した。


「流石に北の方はまだ春が遠いわね」

「そうだな」


 首を竦め、首巻きに顔を埋める。寒い。北はまだ桜が咲いていないとは聞いていたけれど、ここまで雪が深いとは思っていなかった。

 岩戸の傍には必ず泉が存在するので水鏡を使えると思ったけれど、泉は凍っている。帰りにここを使う場合、私はこの泉で禊ぎをしなければならないのか。姉王の氷漬けが完成する予感しかしない。



「さて、これからどうするんだ?」

「ひとまず麓に宿があるはずだから、そこで一晩過ごしてから里へ向かおう。時間の流れが違うとはいえ、私達はこっちの時間では二日間歩き続けてるんだから、少し休まないと」

「了解」


 地図を見ながら宿を目指して歩き始める。歩き通してきた足に疲れはない。岩戸の中は時間の流れが違うのだ。もしも中で怪我を負っても、こちらには反映されない可能性もある。全てが規格外であり、人間の理解の範疇にない世界。それが神々の領域だ。


 そうはいっても、流石に雪が積もった山は歩きづらい。体力が見る見る奪われていく。行きも同じ深さの山ではあったが、春の訪れを得た山と深い冬の最中では訳が違う。

 はっと荒くなり始めた息を吐けば、吐いた傍から凍り付く。鼻と肌がじんじん痛む。さっきまでは私が先頭を歩いていたが、今はリトが前を行く。雪に足跡をつけてくれるので、同じ場所を私も歩いている。



 荷を負ったその背を見ていた視界の端に、木々から落ちた雪が降った。同時に、ぴたりとリトが足を止める。するりと服を脱ぐように荷を下ろし、私を振り向く。


「すぐ戻るから、ちょっとだけ待っていてくれ」


 言うや否や、私の返事を待たずに木々の間を擦り抜けて走り去っていった。まるで獣のようにしなやかな動きだ。私は一人、雪の中に取り残される。それをいいことに、ずっと詰めていた息を吐き出した。


 何だろう。胸がざわつく。ずっと、妙な感覚が纏わり付いている。神子としての務めなのか、それとも不安から来るただの胸騒ぎなのか。

 荷物の傍にしゃがみ込み、耳を塞ぎながら俯く。


「ソウジュ……ソウジュ、ソウジュ、ソウジュ」


 私の半身。不安を覚えれば、決断に迷えば、必ず同じ状況に陥っていた私の半分。

 こんなに遠く離れたことなどない。長期間離れたことすらない。彼がいない場所で寒さに震えたことも、恐怖に身震いしたこともなかった。

 私が失敗すれば白は保たないかもしれない。私が死ねば、ソウジュが一人になる。その覚悟はあった。互いに、あったけれど。恐ろしくないわけでも、決して、なくて。

 誰も届かない場所で下さなければならない決断を、いつだって二人で負ってきた。一人で負う重さに、一人で負わせる重さに、胸を掻き毟るほどの絶望が押し寄せる。

 この不安はそれが故なのか。天の戸でかき乱された心が勝手に不安を呼び起こしているのか。分からない。ただの神子としての予感であればもっと清らかで、個人の弱さが故の不安ならばもっと重苦しい。ならばこれは何だ。妙な焦燥感が痛いほどに胸を焦す。胸が痛い。


「夢を、見なければ」


 白い息と共に吐き出した言葉に、私の意思は介入していなかった。



 ふらりと立ち上がり、リトが消えた方角へと足を向ける。はらはらと降る雪が私の頬に触れ、溶けずに滑り落ちていく。荷を見ていなければ。彼を、待っていなければ。

 分かっているのに、足が止まらない。吐き出した息は白く染まらず、無色の塊を世に放っただけだった。あれだけ痛かった鼻も肌も、何も感じない。

 胸が、痛い。


「夢を見なければ」


 自分の声が、どこか遠くに聞こえる。いや、これは本当に私の声なのだろうか。


 音がする。鋭い刃物がぶつかり合う、澄んだ、けれど焦げ付くような音。大の大人がぐちゃぐちゃに泣き叫ぶ声。引き攣った悲鳴。肉がねじ切れる音。雪が音を吸う静かな山にはおよそ相応しくない、殺戮の音。




 そこは少し開けた場所だった。木々が何かを遠慮したかのように生え、一つの空間を作り出している。木に境を作られることなく開けた場所は、平らに積もった雪が踏み荒らされていた。ぴんっと張り詰めた世界に、凍り付いた血の臭いが蔓延している。こんなに冷たくも濃い臭いを嗅いだのは、初めてだった。


 剥いだ獣の皮をそのまま被っているかのような格好をした男達がいる。どう見ても、狩りや薪を求めて山に入ってきた者には見えない。無精髭、垢に塗れた肌、手入れが行き届かず鈍器に近くなっている刃物。散らばった荷の中には、貴金属だけではなく血に濡れた女物の服や子どもの服もある。山賊だ。

 だが、そんなことはどうでもいい。山賊は二十人ほど。数えられたのはそれだけで、後は破片となっていてよく分からない。男達は私のことなど気にも留めず、誰もが一カ所を見つめていた。ある者は腰を抜かしたまま、ある者はがたがた震えながら両手で己を握りしめ、ある者はなくした腕を握りしめたまま。

 その中心には、リトがいた。握っていた刀を振れば、飛び散った血が雪の上に散らばる。


「待っててって言っただろ?」


 周囲にはこれだけ血を撒き散らしているというのに、彼自身に血は付着していないようだ。黒い服では分かりづらいが、手袋をしていない手すら汚れていない。


「待ちきれなかった? 全く俺のおひい様は我儘だなぁ。分かったよ、すぐに終わらせるから」


 にこりと、それは美しく微笑んだリトの頬に雪が舞い落ちる。雪は溶けもせず、滑らかな頬を滑り落ちていく。

 男達が、ひっと声を上げたのと、リトが動いたのは同時だった。一番手前にいた男の首が刎ね飛ぶ。その勢いのまま、隣の男の腕が消える。まるで草でも刈っているようだ。草でも刈るように、命を狩っていく。踊るように軽やかに、けれど雑務でもこなしているかのように無関心に、命を絶っていく。


「お、鬼か!?」

「角はないぞ!?」

「くそぉ!」


 叫んだ男が腰から抜いた鉈を力任せに放り投げた。重たい刃物とは思えぬ速度で回転して飛んでいく鉈は、まるで伸びをしたかのような気楽さで動いた黒い刀によって真っ二つになる。


「ば、化け物!」


 男は懐から奇妙な刃物を取り出した。赤黒い刀身が波打っている見たこともない刃物を、男は力任せに振り下ろす。途端に、周囲の雪がはじけ飛んだ。凄まじい轟音と共に、男が振り下ろした軌跡に沿って周囲の木々さえ薙ぎ倒される。

 リトは黙ってその軌跡を見ていた。男は少し余裕が出来たのか、薄ら笑いを浮かべる。その男に向けて、リトは掌を開いた。


 風が吹いたように思った。まるで春の風のように柔らかく温かな、不思議な風だ。春が来たと錯覚するような風に首を傾げた男が、引き攣った悲鳴を上げた。


「これは鬼の武器だぞ!?」


 悲鳴を上げた男の手には、先程凄まじい威力を出した刃物は失われ、刀身がどろどろに溶けている。溶けた赤黒い液体がかかった手からは異様な音と煙が上がった。分厚い手袋をしていた男は、悲鳴を上げて手袋を脱ぎ捨てる。


「俺の手、俺の手が!」


 手を押さえて泣き叫ぶ男の手が、手袋同様に溶け落ちていく。しかし、リトが開いていた掌も同様に、まるで火傷を負ったかのように焼き付いていた。



 更に悲痛な悲鳴を男が上げる間に、三人の命が散った。一人、二人、三人。息をするより早く数が減っていく。

 あっという間に、残ったのはその男一人になった。寒さではない、違うもので歯をがちがち鳴らす男は、黄ばんだ歯を剥き出しにし、つばを散らして喚く。


「何とか言ったらどうだ、化け物!」


 リトは男を見てはいなかった。にこりと微笑み、私へ向けて歩き出す。通りすがりに腕を振るい、男の首を跳ね飛ばしながら。

 男の首は高く舞い上がり、ぼすっと気が抜ける音を出して呆気なく雪へと埋まった。残った身体は、首がなくなったことに戸惑ったのか、二歩歩いて腕を下ろし、首とは反対の方へ向けて倒れ込んだ。


「寒いのにこんなとこ来ちゃ駄目だろ? 荷物の傍にいたほうが風除けになるから、次があればちゃんとそこにいてくれよ」


 黒鋼の刀は一振りで血も脂も吹き飛んでいく。そのまま鞘へとしまったリトは、私の顔を覗き込んで眉を寄せた。


「唇が真っ白だ。早いとこ宿屋に行った方がよさそうだな。風呂があればいいんだけど」


 私の答えを待たず、手を引いて歩き出したリトに引っ張られる。天の戸内とは逆だなと、ぼんやり思う。あれだけ、一言も発さずあれだけの命を散らしたのに、血の臭いが一切しないのが逆に違和を感じさせた。

 私の思考も頬も指も唇も、全てが凍り付いてうまく動かない。



「怪我は、平気なの?」

「ん? ああ、この程度なんて事ないさ。一晩で治るよ」


 ひらひらと振られた掌は、成程、既に治りかけていた。


「リトは、静かに戦うんだね」


 私の言葉にリトは振り返り、首を傾げる。


「虫を潰すのに、主へ懺悔する奴はいないだろう?」


 にこりと笑ったその顔は、まるで殉教者のように厳かだった。












 宿屋は初日に泊まった宿ほど大きくはなかったが、雪に堪えうるしっかりとした造りの建物で、ここいらでは唯一の宿屋ということもありこんな天候でありながらそこそこ繁盛していた。



 部屋を一つ取れてほっとする。需要があるからか、風呂の設備も充実していた。こんな場所で男女別に分かれた風呂に入れるとは思っていなかった。よくて時間差で一つの風呂を共有すると思っていたので、待たずに湯を使えたことは僥倖だ。


 女風呂には私より先に中年の女が入っていたが、ちょうどすれ違いで出て行った。男風呂は少し混雑しているようで、複数人が桶を使う音が響いている。やはりこの時期は体力の弱い女子ども連れの旅人は少ないようだ。

 その恩恵というべきか、空いた風呂をありがたく一人で使う。広い風呂は慣れているし、一人でこの広さを使うことも日常茶飯事だ。だから感慨は特になく、冷え切った身体を温めることに徹する。指先まで血が通っていくのをじっと待つ。むず痒い感覚がじりじりと肌とその奥を焼く。


「主へ懺悔」


 真っ赤になった指を見つめながら呟く。

 リトは、そう言った。主へ懺悔すると。あまり聞かない言い回しだが、知識としてなら知っている。それは、大陸の神へ向ける言葉だ。彼は十五年前、あの戦場で拾われた子どもだという。ならば、大陸の人間である可能性も充分あった。

 それは別段大したことではない。戦場に幼子を連れて来ているのは大変な問題であるが、それはともかくとして、彼の出自がどうであれ拾われたのが幼い時分であり今は黒羅を務めているのだから気にする理由はない。山賊を殺したことも、必要とあらば気にはしない。白の平和を乱す輩は、断罪されて然るべきだ。その程度には私達も冷酷な自覚はある。


 気になるのは、殺し方だ。

 あんなにも厳かに、まるで神へ祈りを捧げた神官のような顔で人の命を虫と言い切ったリトが、分からない。神を裏切った言い切りながら、主への懺悔を知る人。

 彼がどういう人なのか全く掴めない。だけど恐ろしくはなかった。黒羅だから、ヒサメの推薦だから、神子としての勘があるから。そのどれも正解で、どれもが正しくない。

 彼には心から愛した人がいる。嘘や偽りをかぶれない天の戸の中で知ったそれだけは、違えようもない事実だ。そして何故かただそれだけで、私は草を刈るように命を絶った彼を恐ろしいとは思えなかった。

 誰かを愛する人間が正しいわけでも清廉なわけでもないと分かっているはずなのに。自分でもどうかしていると思う。

 どうかはしている。天の戸を出てからずっと、私はおかしい。痛む胸を押さえ、はくりと口が開ける。自分の意思でもないのに言葉を紡ぐ。


「夢を、見なければ」


 どうやら私は、天の戸内から何かを連れてきてしまったようだ。







 脱衣所を出れば冷たい廊下がある。短い廊下の突き当たりにある扉の向こうは、宿泊客達の憩いの場だ。大きな囲炉裏だけでなく、火鉢も多く設置されている。外は吹雪いてきたようで、どの客も先に風呂へと行くのでここにいる客は湯上がりの者が多いためだ。


 それなのに、短く寒い廊下に人影があった。

 冷たい壁に背を預け、腕を組んで目を閉じているリトは、風呂上がりだからか上着に袖は通さず肩に羽織っている。廊下の寒さに震え上がりながら足早に立ち去ろうとしている他の宿泊客はちらりと視線を向けるだけだが、中には一言声をかけていく人もいた。

 熊のようにずんぐりとした体型の髭の男は、廊下を軋ませながらリトの前で立ち止まる。


「おい、誰か待っているにしても、そっちの部屋でにしろ。ここは冷える」

「ああ、すぐ行くよ」


 そう言いつつ、リトは動く気はないらしく壁から背を離しもしない。長い上着に隠れてあまり目立たないが、帯刀もしたままだ。こういうとき、つくづく護衛とは大変な仕事だと思う。男は呆れたように肩を竦めた。


「こんな宿内で何があるっていうんだ」

「別にあんたの城を疑ってるわけじゃないさ。ただ、風呂場にいるのは俺のおひい様でね。過保護は承知の上さ。大目に見てくれよ」


 どうやら熊はこの宿屋の主人だったようだ。しかし、それはどうでもいい。


「今度その呼び方したら引っぱたくけど、どうする?」

「二人っきりの時専用だったな。ほら、湯冷めする前に髪を乾かそう。向こう行くぞ、シャラ」


 くるりと呼び方を改める私の護衛に、今度は私が肩を竦めるしかなかった。調子いいなこいつと半眼で睨めば、飄々と流される。熊もそんなリトにひょいっと肩を竦め、のっしのっしと廊下を歩いて行った。




 囲炉裏の部屋には十数人ほどの人が集まっていた。誰も彼も髪が濡れているから湯上がりだ。布で水分を取りつつ髪を乾かすという大義面分で火の傍から離れない。私も例に漏れず、火鉢を一つ確保した。髪を乾かすためではない。暖を取るためだと正々堂々胸を張る。

 リトはいそいそ私の背後に回り、どこからともなく取り出した櫛で私の髪を解きながら乾かしていく。髪を梳くその手が水気を飛ばしてくれるから、なんとも効率がいい。


 無料で振る舞われる茶を啜りながら、世話を彼任せにするのは何とも楽だ。楽だが、問題は一つ。周囲からの視線が痛いことである。

 部屋の隅で一つの火鉢を三人で囲んでいた男達が口笛を吹いた。あまり気分がいい鳴らし方ではない。


「えらく顔のいい小姓を寒々しい廊下で待たせてるから、とんだ女主人がいるもんだと思ったもんだが、こいつはまたお綺麗な嬢ちゃんだな」

「こっち来て酌してくれよ、手酌じゃつまらん」

「あんたも、一人の男じゃつまらねぇだろ?」


 男達が飲んでいる物が茶ではなく酒だと気づいて、返答すべきか少し悩む。この手合いは無視をされるとしつこくなるものだが、応答すれば余計な恨みを買うことがある。面倒だなと、揺れる茶を見ながら小さく息を吐く。


「お褒めに預かり光栄だ。だが、我々はそれなりに疲れているので放っておいてくれ」


 空気が険を増したことは分かっているのだろう。さっきまで緩やかに流れていた部屋の空気が変わる。部屋中の人間の意識が私達に向いていた。だが、私の髪を梳いていた男の手が止まっていることに気づいた人間はどれくらいいるのだろう。


「何だぁ、偉そうに」

「偉そうではなく、偉いんだ。我々は中央の役人で、遊びに来ているわけではない。ここいらの治安が悪いとなると上に報告を上げる必要がある。暇潰しに絡んでしょっ引かれたくなければ、優しく言ってやっている内に引け。余計な仕事を増やさせるな」


 そこでようやく男達に視線を向ければ、ばつが悪そうな顔をしてそそくさ部屋に戻っていく。あれは何か後ろめたいものがあると見た。だからといってどうこうする予定はないし、そんな暇もない。この程度で引くくらいなら最初から絡まなければいいものをと思わないでもないが、どうも若さを失い始めた男は若い女を見ると何かと絡みたくなるらしい。ソウジュも散々絡まれていたものである。

 男達が去っても、部屋の空気は重苦しいままだ。皆急いで髪を乾かそうとしているのが見て取れた。こほんと咳払いをする。


「まあ別に、役人じゃないんですけどね」


 ひょいっと肩を竦めて言えば、どっと笑い声が上がった。詰まっていた息が吐き出され、重苦しい空気が一気に解ける。


「何だよ、びっくりしたなぁ!」

「迂闊なこと言えないって思っちゃったじゃない!」


 一斉に身体を弛緩させた面々に、あははと笑う。


「やだなぁ。お役人さんに見えます?」


 おどけてしなって見せれば、風呂場で行き違いになった女性が笑った。


「なまじっか違うとも言い切れない雰囲気があるもんだからさ。びっくりしたじゃないか。あんた、髪綺麗だねぇ。どこぞのお貴族様かなとは思ってたんだけどさ」

「ありがとうございます。髪は父譲りなんです。生まれる前に亡くなったから、会ったことはないんですけど、立派な人だったと聞いています。だから、髪を褒められると嬉しいです」

「そうだったのかい……苦労したんだねぇ」


 部屋の空気がちょっとしんみりしてしまった。別にしんみりさせたかったわけではなく、冬のこの時期に旅をしている訳ありに納得しやすさを持たせたかっただけである。

 それに嘘は一つも言っていない。母は少し茶色が勝った柔らかな髪だった。私もソウジュも母の髪が大好きだった。仕事柄下ろしていることは少なく、眠る時だけ下ろしていたから尚更だ。母と一緒にいられるのはその時間が一番多かったのである。


「でも、今は幸せです。ほら、うちの人色男!」


 後ろ手に探り当てたリトの腕を掴んで引っ張り寄せれば、すんなり移動してくれた。それを見て、周りの人々も相好を崩す。


「刀持って寒い廊下に突っ立ってるから護衛かと思ったけど、若夫婦か。そりゃあ風呂上がりも待ってるよなぁ。こんな可愛い嫁さんだったら兄ちゃんも心配だ」


 こっちも赤ら顔だが、ぽかぽかした酔い方をする男のようで、ほけほけと笑っている。


「そうなんだよ。うちの嫁さん可愛いからさっきみたいなのにしょっちゅう絡まれて、こっちは生きた心地もしねぇんだよ」

「分かる、分かるぞ! 俺のかみさんも若い頃はそりゃあ器量がよくてなぁ。それが今では鏡餅みてぇになっちまって……これがまた可愛いんだよ! 笑うとぷくっとしてな!」

「あれ? こっちが惚気てたはずなのに、なんで俺がおっさんの惚気聞いてんの?」


 首を傾げたリトに、またどっと笑い声が上がる。


 夕餉の支度が出来たと呼びに来た熊と一緒に食堂へ移動すれば、熊の三分の一ほどしかない小柄な女性がぱたぱたと動き回っていた。話を聞けば熊の主人と夫婦らしい。女性は照れくさそうに熊の後ろに隠れ、熊は耳を少し赤くしていた。ここにも幸せな夫婦がいたかと、何故か客から微笑ましい視線でしみじみ頷かれた宿屋の夫婦は困惑しながらも幸せそうに笑った。

 私は、そこでようやく刀から手を離したリトにそっと息を吐いた。




 夕餉は野菜や肉がごった混ぜになった汁物と白米と漬物だ。雪に埋めて甘みが増した白菜が汁の中でとろけ、親鳥の肉から出ただし汁とよく絡む。温かく美味しい夕餉に舌鼓を打った人々は和やかに食事を終えて部屋へと解散していく。

 鬼の里にどの人里よりも近いこの近辺でも、鬼の話を聞くことはなかった。何故なら鬼の里の位置を知っている人間はほとんどいないからだ。勿論鬼の存在は知っているし、今でも鬼による被害はある。だが、そのどれもがこの地より遠く離れた場所に突然現れるのだ。道中の村や町では一切目撃情報すらない。

 だから恐らく、鬼は天の戸のような何かを通じて現れているのだと予想を立てている。



 部屋は食堂や広間に比べれば流石に寒いが、ここも火鉢で温められているから随分過ごしやすい。部屋に窓はなく、小さな通気口があるだけだ。

 どんどん雪が積もっていく景色は都では見られないものなので、部屋からながめられないのは少しだけ残念だった。けれど防寒と建物の強度の為なら仕方がないだろう。

 思いっきり伸びをして、既に敷かれている布団に寝転がる。行儀が悪かろうが知るものか。今日はもうくたくたなのだ。一日目には速攻引き離した二つ並んだ布団をそのままにしてしまうくらいにはへとへとである。誤算は、部屋はそれなりに暖かくても布団は大変寒かったことだ。思わずうあっと呻く。


「ん? どうした?」

「布団が、布団が寒い……」

「あー……湯たんぽ貰ってこようか?」

「いいよ……もう寝る……じっとしてたら温かくなるし」


 もぞもぞと潜り、その寒さにぶるっと震える。けれどさっき食べたご飯が胃の中でぽかぽかしているから、すぐに温かくなるだろう。

 布団を鼻の下まで引っ張り上げ、宣言通りじっとする。太股の間に手を入れておけば指先まであったかだ。だが、いざ眠る体勢になってみたものの、温まってからでなければどうにも眠りにくい。仕方なく、一旦閉じていた目蓋を開く。リトは、荷物の整理をするつもりなのだろう。

 胡座を組んで座り、荷と向き合っている。その横顔を眺めながら、どうしようかと悩んだ末に口を開く。


「リト」

「何?」

「あの程度の事で刀を触り続けるの、気が気じゃなくて、少し困る」


 淀みなく動いていた手がぴたりと止まった。口元からも笑みが消える。しかし、すぐに口角は吊り上がった。


「山賊皆殺しにしたから怖かったよな。ごめん、もう少し綺麗に殺すべきだった。今度からはシャラの眼に入らないところで殺すから大丈夫。それに、シャラには何があろうと手を上げたりしないから、そこは安心してくれ。何せ俺は黒羅だからな。それでも怖いなら、どうしようか……そうだ、俺に呪印でもすればいい。あんたの命令一つで俺の首が飛ぶような奴を。それなら安心だろ? でもあんた、呪印知ってるかな。使ったことあるか?」

「リト」


 つらつらと喋る言葉を、名前を呼ぶことで遮る。ぴたりと口を噤んだその視線がこっちを向いておらず、もう一度呼ぶ。ようやく目線が合ったところで手招きする。一度立ち上がってから私の横で腰を下ろしたリトの手を布団の中から引っ張り出した手で握った。まるで外を歩いてきたみたいに冷たい手だ。


「怖くない。君のことはちっとも怖くない。本当よ。全く欠片もこれっぽっちも」

「……それはそれで、困ったおひい様だなぁ」


 くしゃりと崩れた顔は、まるで子どものようだった。


「最初に絡んできた酔っ払いはともかく、他の人達は私達に敵意も悪意もない、普通の人達だったじゃない。私の勘も反応しなかった。それなのに、何がそんなに恐ろしかったの?」


 相手の命を絶つことを前提とした武器を手放せないほどの何を、彼は感じていたのだろう。

 分からない。私にはこの人が分からない。だから知りたいと思った。それは矛盾していない感情だから、王としてもシャラとしても許されるはずだ。


「ねえ、教えてリト。私、本当に怖くないよ。怖いのは……鬼を、説得できないことで、白を守れないことで、ソウジュを、残してしまうことで……。私に、出来るかなって、いつでも思ってる。私に出来ないことが沢山の人を殺してその人生を狂わせるのだと分かっているから怖くて、不安だよ。…………でもこれ、王の弱音だから、内緒ね。誰にも言っては駄目。姉王の弱音を聞いたことがある人なんて片手で足りるんだよ。特別だからね?」


 最近ではヒサメにさえ言っていない。

 ソウジュも同じだ。弟王の弱音は姉王だけが、姉王の弱音は弟王だけが知っている。だって、私達は王なのだ。王が揺らげば国が揺らぐ。王が平気だと笑えば、それだけで救われるものがあると知っている。

 だから弱音なんて吐くべきではない。持っていても伝えるべきではない。だけど何故か今は、それを渡すべきだと思った。


 貴方を怖がってなどいない。疑ってもいない。信用している。信頼している。王の黒羅、私の護衛。それしか知らない貴方の立場と、ここまで私へ向けた態度を、心から。

 繋いでいないほうの人差し指を自分の唇に当て、もう一度内緒と笑う。俯いているリトの表情は、下から見上げているはずなのに何故だかよく分からない。

 目が霞む。眠気かと思ったが、視界にじわりと何かが滲んでいく。俯くリトの頭上に、何かが浮かんでいる。赤い、輪だ。光を吸い込むようなどす黒い赤は、瞬きの一瞬だけ美しい金色に染まる。輪は頭を囲うように浮いているので、まるで異様な髪飾りにも見えた。


「俺は」


 ぽつりと声が聞こえたと同時に、赤い輪は消え去った。ゆっくりと瞬きをしても、鮮明な視界の中に異物は見つけられない。


「……俺の大事な人、殺されたって言ったよな」

「うん」

「あの人は、何でもない普通の人間達に殺された」


 森を歩いていたとき降り続けていた雪のように、しんしんと言葉が降る。


「洗濯物を干したいから明日は晴れがいいなとか、ちょっと小金が稼げたからいつもよりいい酒を買うとか、この前生まれた赤ん坊と一緒に成長を願って木を植えるとか、今日は髪がうまく纏まらなくてうんざりしたとか、割った卵の黄身が二つだったから得したとか、そんな、悪党でも偉人でもないごく普通の善良な人間が暴徒となって、俺の大切な人を八つ裂きにした……だから俺は、誰も信じない。普通の人間であろうが、善人であろうが、悪意も害意もなかろうが、関係ない。皆等しく、俺の大切な人を殺す可能性を秘めた、俺の敵だ」


 繋がっていた手は冷え切ったままだ。どれだけ握っていてもお互いの体温は移らない。私の手は睡魔で温かく、リトの手は雪のように冷たかった。


「……リトの大事な人は、どんな人だったの?」


 この人にそれほどまでに愛されたのは、どんな人だったのだろう。


「美しい、人だったよ。善への奉仕を知り、命の尊さを知り、善良を愛する……とても優しい人だった」

「女の人?」

「どうして分かったんだ?」

「へへ、何となく。女の勘は鋭いの」

「おひい様の女の勘は、どうもへっぽこというかザルなことが懸念されてるけどなー」

「何て?」

「おとい様の男の勘も同様に心配されてるんだよな、これがまた」

「何で?」


 大変遺憾である。

 その心配をしている面子を今すぐ吐いてもらおうか。帰ったら速攻閣議を開いてくれる。そう言えば、くつくつ笑いながらするりと手が解かれた。そのまま伸びてきて、私の視界を塞ぐ。


「信用を伝えてくれてありがとう。その信頼を裏切ることはないとシャラに誓う。俺は絶対にシャラを死なせないし、裏切らないし、白も守る。……明日は鬼の里だから頑張ろうな。おやすみ、シャラ」


 冷たい手なのに、不思議とすぐに睡魔が訪れる。ぴたりと閉ざされた指の隙間からは血液が作り出す赤い光すら見えなくて、私の意識はまどろみに溶けていく。

 だから。



「主よ、私に罰をお与えにならずとも結構です。最早贖罪の後に待つ救いなど、くそくらえだ」



 酷く静かな声で言葉を紡いだのが誰だったのか、私には分からなかった。









 夢を見なければ。私は、夢を見なければならない。


「そうですか。行く当てがないのですか」


 豊穣の色を携えた美しい青年は、白く長い指を己の唇へと当てた。ふむと頷き、すぐににこりと微笑む。


「ではどうぞ、私が司祭を務めております教会でお過ごしください。当教会には身寄りのない幼子達が沢山おりますので、身の振り方を考えるにはもってこいですよ」


 それは、子守りを手伝えと言うことなのか。私の口が勝手に開き、言葉が出る。

 どうやら、声の主は女のようだ。この声には覚えがあった。天の戸で啜り泣きながら彼を呼んでいた女の声によく似ている。

 青年はくすくすと笑った。声も笑顔も言葉も、全てが柔らかい男だ。


「そうして頂けるととても助かります。こうしてお会いできたのもきっと主のご加護でしょう。この縁を、主に御礼申し上げねばなりませんね」


 十字の首飾りを握り、目を閉じた青年の頭上に、それは美しい金色の輪が見えた。まるで太陽そのもののように輝かしい。いや、神々しいというべきだ。美しい輪は影には映っていない。これは女の目にだけ見えているものなのだろう。

 女は気づいた。この人は、神の愛子だ。光の道を歩むべく、それ以外の道など欠片も存在していないほど神に深く愛されて生まれた奇跡の子。長い歴史の中で、たまにこういう存在が生まれる。全ての幸の塊であり、幸福だけが循環する美しい生を持つ神の愛子は、ふわりと春のように言葉を紡ぐ。


「ああ、そうだ。名乗りもせず失礼しました。私の名は」


 リトと申します。



 柔らかな笑顔を浮かべる美しい青年は、確かにそう言った。










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