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伍話  羅








「ほらよ、湯が沸いたぜ」

「ありがとう……あー、温かい……やっぱり持つべき者は湯を沸かせる黒羅よね……」


 水に浸かりすぎてがたがた震える私は、着替えだけは早々に終えてリトを呼びつけた。私の要請に従い速やかに火を起こしてくれたリトは、芯まで冷え切った私が一人くしゃみ合戦を繰り広げている間、湯を沸かしながら濡れた髪を乾かしてくれている。温かな風と熱は、彼の掌から出ているようだ。


「術を使えるの、凄い」

「多少ね。神官様や神子様のような力はないよ」


 何もない場所に火を起こしたり、風を起こしたり、水を空へと巻き上げたり。神託を得たり、水鏡を繋げたり、悪霊を祓ったり。術には様々なものがある。

 けれど、それを使える人間はそう多くはない。当たり前だ。そもそもが人間の力ではないからだ。神や人ならざりし存在に愛された者、それらの血を引く者、それらの力を借りる権利を持った者。そういった者だけに扱える力である。

 だから、術を扱えることは彼の出生を調べる手立てになると思うのだが、彼自身は特に興味はなさそうだ。ヒサメから聞いた話も考えていたから、つい首を傾げてしまった。


「あ、こら、動くな。まだ乾いてないんだから。このままだと風邪引くぞ」

「長いと面倒よね。王としても神子としても切れないから仕方ないけど……君も長いから、この苦労分かってくれるんじゃない?」

「あんたほど長くないし、俺はあんた達ほど丁寧に手入れしなきゃいけないわけでもなし。どうとでもなるさ」

「またまたぁ。黒羅が髪を伸ばすのは、恋人とか大事な人に形見として残すためだって聞いたことがあるわよ。誰か渡したい相手がいるんじゃないの? だったら、出来る範囲で綺麗にしていた方がいいんじゃない?」


 リトのことがよく分からない。勿論きちんと出会ってまだ日が浅いのだから分かるはずはない。だが、長く一緒にいた人から聞いた話と、目の前の彼が全く繋がらないのだ。

 相手の評判を貶めるため悪意の末に情報がねじ曲がったとは思わない。ヒサメはそんなことをしないし、する理由もなかった。

 ならば、リトが変化しているのだろう。でも、何故? 何のために? 私に取り入るつもりなら、それこそもっと丁寧な物言いの方が受けはいいだろう。そもそも私の前でだけ態度を変えたところでヒサメが私の叔父である以上意味などない。

 分からないことがあって、その答えを持つ人物が傍にいて、探る時間がある。ならば行動に移さない理由はなかった。それとなく探ってみた私の後ろで、うーんと唸る声がする。


「そんな理由があったの? 道理で伸ばしてる奴が一定数いるなと思ってたんだよなぁ」


 私は彼の内情を少し探りたかっただけで、新規の情報を与えたかったわけでは決してない。


「知らなかったの!?」

「そういう話、周りとあんましないからなー」

「そ、うなんだ」

「そうそう。そういう話してる奴に捕まると長いんだよ。だから極力避けてる。俺は別に、黒羅で仲良しこよししたい訳じゃないしな。ほら、乾いたぜ。暖まったならそろそろ行くか?」

「そう、しましょうか」


 髪を伸ばしているのは何となくらしい。結局彼という人間を掴むことは全く出来ず、謎だけが増えた。

 そもそも何故黒羅にこだわるのだろう。黒羅は王家直属の兵士だ。十五年前の戦争でザーバットを憎んでいるのなら、国軍に入った方が真っ当に奴らと戦える。

 私が座って髪を結っている間に、リトはてきぱき動いていた。火の後始末をつけ、荷物をしまっていく。


「しっかし、あんた達はそういう話に興味ないのかと思ってたな。庶民と違って色々面倒多そうだし」


 何を言っているのだこの男は。呆れた目を向ける。


「私達だって誰かと恋の話くらいしますー、したいですー、誰もしてくれないだけですー……誰もしてくれないだけですー!」

「………………泣くなよ。な?」


 同情心に満ち満ちた視線に、私の心は更に抉られた。

 岩戸を前にしても、私はまだ往生際悪くぶつぶつ続ける。


「いいのよ。どうせ私達の婚姻は好いた方と共にいる約束ではなく、末永く白を支えていける同志の同盟なのだもの。皆とは話が合わないのも仕方がないし、私を話に混ぜてくれないのも道理よね。別に友達がいないわけじゃないからね! いないけどね!」

「どうどう」

「私達はいつだってどうでもいいくだらない世間話をする相手を募集中! 皆、奮って応募してね!」

「隊長がふるいにかけて厳選して全部落とす未来しか見えないぜ、それ」


 願った明日は遙か遠く、私達の今日に変革はない。

 これぞ絶望。




 悲しすぎるのでこの話題は終わりにしょう。とんだやぶ蛇である。

 こほんと咳払いし、もう一度岩を見上げる。

 神の領域と繋ぐ戸であろうが、こちら側にある面は地上の領域だ。苔だって生えるし、汚れもする。ふかりとした苔を何となく毟ると、絡み合っていた根が皮が剥がれるようについてきた。結局その辺り一帯剥いでしまったが、すぐに新たな苔が生えることも知っている。時間の影響下にあるとはそういうことだ。


「リト、この中には死んだ人がいるかもしれない。声も姿もあるし、体温すらあるかもしれない。生も死も過去も未来も全てが関係のない神の領域。それは愛した人かもしれないし、全然違う、何かの彷徨ったものがその形をしているのかもしれない。そこに真偽は存在しない。彼らの言葉に返答してもいい、しなくてもいい。ここを抜けるためには、ただ歩けばいいのだから。だけど一つだけ決してしてはいけないことがある。この中で」


 岩へと向けていた身体をリトへと向き直す。


「決して振り返らないで」


 冬の冷たさを思い出させるような風が大きな音を立てて木々を揺らし、私達の元へ届いた。静かだった泉の水をかき乱し、舞い上げて宙へと散らしても尚満足しない風は、更に山の奥へと走り抜けていく。


「振り返ったその瞬間、君はこの世から外れることになる。過去も未来も切り離され、魂は虚空に散る塵芥と化す。私達が通り過ぎるまでは未来だった場所が、現在になり、過去へと移行する。振り返ることは、その狭間を覗くことになるの。それは神の領域よ。人が踏み入ってはならない。私は導として君の前を歩く。君の後ろには誰もいない。誰も、いないの。何かに呼び止められたなら、答えてもいい。気配を感じたら話しかけてもいい。けれど、誰に呼びかけられても、手を引かれても、決して振り向かないで――出来る?」


 今度の風は酷く柔らかい。木の芽時独特の柔い風だ。心を解すかのように柔らかく香る風が頬と髪を撫でていく。


「了解、シャラ」


 だというのに、リトが口角を吊り上げて浮かべたそれは、決して笑みなどではなかった。



 すぐにくるりと表情を変える。掌を広げ、肩を竦め、声は軽快な音へと姿を戻す。


「大丈夫さ、我が王。黒羅は主を間違えたりしない。あんたが前にいるのなら、俺は決して振り向かないよ」


 忠誠を、忠義を。命懸けで向けられることは、決して珍しいことではなかった。それらは息をするより簡単に私達の元へと集まる。望む望まざる関係なく、人々は王のために命を懸けた。

 だけど、何故だろう。目の前の彼から向けられる熱は、そのどれとも違って見えるのだ。嘘ではない。偽りではない。だけど違う。何が違うかは分からないけれど、彼から向けられる熱で私の胸はざわつく。

 神託が関与した夢を見た時に少し似ているけれど、決定的に違うのは、そこに私へ向ける熱があるからだ。この感覚を、知っているような気がした。しかもつい最近感じたような。よく、分からないけれど、何となくそう思った。


「ねえ、リト」

「ん?」

「私、君に会ったことある? 入団の是非を問うものではなく、もっと別の形で」


 幼い彼が黒羅に入ろうと決断する何かが、あったのではないか。そう思った。なのにリトは、緩やかに首を振る。一つに結ばれた黒髪が、滑らかに光を放つ。


「いいや。あんたは俺と会ったことがないよ」


 赤い瞳は、春の日差しのように柔らかく揺れた。









 通常ならば漬物石どころではない重量があるはずの岩は、王族の手ならば紙より軽く受け入れる。指一本でも開いてしまいそうな軽さで、岩戸が開かれていく。

 中は外からの光を一切受け付けず、闇が広がっている。線一本隔てて世界が違うとのだとはっきり分かる明暗だった。


「手は繋いだほうがいいと思うけど、嫌ならしなくていいし、話しかけたほうがいいなら話しかける。黙っていたほうがいいならそうする。申し訳ないけれど、私もあまり回数をこなしてないし同行者はソウジュだったから、導として未熟で何が最善か分からない。私に見えていた景色が、自分の物なのかソウジュの物なのかすら分からなかったくらいだし」


 会話を一切絶つことで、聞こえる声は全て常世の物ではないと見切りをつけると手っ取り早い。だがその場合延々と常世以外の声だけを聞き続けることになり、少し、参る。

 個人的に手を繋ぐのはお勧めだけど、嫌なら無理にするほどでもない。

 リトは少し考えた。


「話してくれ。黒羅が従うべき相手が目の前にいるのに、それ以外の言葉だけを延々と聞かされ続けるのは鬱陶しいしな。それと、手も、繋いでくれ。恐れ多いけど、せっかく諸手を振って主に触れられる機会だ。これを逃す手はないよな」

「君、口が上手だね。ちょっと多めに便宜を図りたくなっちゃう」


 お互いけらけら笑いながら手を繋ぐ。比較的華奢な人だと思っていたけれど、柔らかさより筋の硬さを持っている手だった。男の手だなと、思う。ソウジュともまた違う、少しかさつき荒れた長い指を持つ手は、禊ぎで冷たい水へ入っていた私より少し冷たかった。



 岩戸の中へ一歩踏み込む。二歩、三歩。恐らく背後でリトも中へと入ったのだろう。外から入り込んでいた風がぴたりと止んだ。岩戸は開くことが出来る。けれど閉める必要はない。中へ入れば一歩だろうが振り向いてはならぬのだ。

 岩戸の中は真っ黒な世界が広がっていた。闇とは違う。黒で塗りつぶされた世界だ。だけど、導である王族には仄かな道が見えている。淡く光る道だ。ここには何の匂いもしない。風もない。音もない。生命の気配は全て遮断されているのに、死が蔓延しているわけでもない。真っ黒な空気は濃密でありながら薄く、触れられそうなのに淡すぎる。どこまで続いているのか。果てなどないようにも、目の前が壁ですぐにぶつかってしまいそうにも感じる。


「こいつは……凄いな」

「真っ黒でしょ? ここには光も闇もないから。ここを抜ける頃には、外では二日経ってるよ。気分が悪くなったら言ってね。ぼーっとして振り向いちゃうと大変だし、とにかく私の姿が見える距離を絶対に保ってて。王族以外の人は道が見えないはずだし」

「了解」


 黙々と歩く地面の感触は、固くも柔らかくもないし、柔らかく固い。土と言われても板と言われても岩と言われても鉄と言われても納得する。そんな感覚だけが伝わってくるのだ。


「地面、何だろうね。ソウジュとも話し合ったんだけど、結局分からなかった」

「そうだなぁ。人骨じゃないか?」

「……適当に答えるならもっと夢のある答えにしてくれる?」


 虫よりマシな気もするが、倫理的にはそっちのほうがまずい。確実に無いとも言い切れないのが更にまずい。


 しばらくは何でもない会話が続く。いま流行の歌を二人で歌ったりもする。ヒサメからはリトは口数も少なくあまり人と関わらないと聞いたが、私が町で聞いた流行の歌は把握しているので町に出ていないわけでもなさそうだ。私が流行の歌を知っている理由については今更だから目を瞑ってほしい。



 ここは命が存在しない世界だ。生命の気配を発するのは私とリトだけである。だが、やがて世界は騒がしくなり始めた。


『シャラ』

『ソウジュ』

『おいで』

『いい子ね』

『おいで』

『母上よ』

『父上だよ』

『おいで』


 声が重なる。気がつけば左前の空間が明るくなっている。そこには遠い過去がいた。母と、会ったことはないが絵と伝聞で伝え知った父の姿だ。二人は寄り添い、穏やかな笑顔で手を振っている。二人の姿は、前から後ろへと流れていく。後ろへと流れればまた前に現れての繰り返しだ。絶対に後ろから前へは現れない。視線を固定すれば確実に振り向いてしまう流れで現れる。


「ねえ、リト。いま私の母上達の声、君にも聞こえてる?」

「ああ」

「そっか。やっぱり個人へ干渉するんじゃなくて、ここの空間自体が変化するんだ」


 私とソウジュだけではそこがよく分からなかったのだ。自分が見ている物を相手が見ていても、私達は同じでありすぎて、自分だけで見ているはずの物をそれぞれ同時に見ていた可能性が拭えなかった。現に今、ソウジュはいないのにあの両親は私とソウジュ両方を呼んでいる。


『つらかったわね』『偉かったな』『もういいんだよ』『おいで』『もう休んでいいんだよ』『大変だったな』『だっこしてあげる』『家族でゆっくりしよう』『もういいじゃないか』『皆、もう充分頑張ったよ』『そろそろ好きに生きなさい『楽になりなさい』『疲れたよな』『頑張ったね』『もういいんだよ』


 延々と、言葉も両親の姿も途切れない。これは、幻なのか亡者なのか。


 両親はきっと、そんなことは言わない。父は伝え聞いた姿しか知らないが、母は絶対に言わないはずだ。最後まで頑張れと、悔いなく、自分が納得できるまでやりきれと、いつも言っていた。

 母自身も、そうやって生きた。

 もう長くないと言われた母を安心させようと、ソウジュと二人手を繋ぎ、四つで超えたこの岩戸。ヒサメからは大目玉を食らったが、母はよくやった、鼻が高い、流石私達の子どもだと沢山褒めてくれた。死にかけた人間が発するすえた死の臭いを纏わせた腕で抱きしめてくれた。

 そんな母が、こんなことを言うわけがない。けれど、ここが常世ではなくまた神の領域であるのなら、幻だと断じることも出来ないのだ。そんな曖昧であやふやな世界の中、繋いだ手の温もりだけが確かな他者だった。



 足が重たくなる。視線をそっと下ろせば、沢山の手が足に絡みついていた。


『王』『王様』『助けて』『どうかお救いください』『お恵みを』『王様』『王ならば民の為に』『王ならば国の為に』『守って』『削れて』『犠牲となって』『王様』『救って』『助けて』『幸せにして』『不幸を負って』『私達の不幸を代わりに負って』『貴方が王であるならば』『救って』


「シャラ」

「――うん?」


 沢山の言葉が反響していても、生者の言葉は何よりもはっきり聞こえる。


「鬼はどう説得するつもりなんだ? 作戦はあるのか?」

「んー、いくつか考えてきてるけど、相手がどういう類いの性格か分からないから、会ってから考えるつもり。そういえば、リトは鬼を見たことがあるんだよね。どんな感じだったの?」

「欲に忠実。血の臭いに酔う、しかも絡み酒って感じの悪酔いして人を殺す。けど普通の酒も好む。つまらないことはしない。面白いことを好む。でもその面白いって方向が、酒、女、殺し合いって感じだから大体話にならない。これでもかなりまともな方で、会話にならないことがほとんどだ。おいと話しかけて、殺すと返ることが普通だと考えたほうがいい。過去に里へ封じた判断は正しかったと思うぜ。今更だけどさ、どうやって説得すんの?」

「あっはっはっは! ……どうしようねー」

「おーい」


 いやぁ、思ってた以上に清々しくまずい要素しか見当たらない。寧ろ希望が存在しないのでないだろうか。だけど、やるしかないならやるであろう、明日の私に期待である。

 困ったねぇとけらけら笑う。


「まあ、いいけどさ。阿呆な鬼共が襲ってきたら俺が守るよ」

「……待って。里内には連れていかないからね?」

「行くぜ、悪いけど」


 思わず振り返りかけた。


「はぁ!? 駄目だってば! 何かあったらどうするの!」

「何かあった用に俺がいるんだよ。鬼がどれだけいようが、必ずあんたを生還させる。その可能性が一番高いから、俺が選ばれたんだ。ちゃんと使ってくれ」


 そんな強い人間なら余計に連れていけない。今更になって互いの前提条件がすれ違っていることを知った。しかし、すれ違っていることに気づいていなかったのは私だけで、リトは私が里内まで連れていく気がないことを分かっていて言わなかったようだ。ヒサメの手回しだろう。

 いくら許可を与えずとも、リトは一歩も引かない。出発前に、私の要望を聞かないで苦労する護衛との旅路を思い描いたものだが、まさか今になってその状態に陥るとは。一度は話しやすいし思っていたより気楽な旅路になりそうだと油断しただけに、頭を抱える。

 何とか説得しようと口を開いた私より先に、誰かが彼を呼んだ。




『リト』


 啜り泣くような女の声がしたと同時に、繋いでいた手に力がこもった。痛いほど握りしめられて、思わず声を出しかける。だが、何とか堪えた。力は緩まない。気づいていないのか、気づいていても緩められないのか。ならば、どうにかしなければと思わせるつもりもなかった。

 声を出さず、その手を振り払うことはしない。与えられる力をただ享受する。痛みを主張することが全て正しいとは限らないのだから。


『リト』『ごめんなさい』『リト、ごめんなさい』『ごめんなさい』『ごめんなさい』『リト』『リト』『リト』『ごめんなさい』『ごめんなさい』『ごめんなさい』


 リトのことを知りたいとは思った。だが、こんな形で暴きたいと願っていたわけではない。それなのに、耳を塞ぐ術はなかった。少し、ソウジュに似ているなと思う声を聞き続ける。無意識に視線を動かしても、声の主とみられる姿はない。声だけが、延々と続いている。

 女は泣いていた。囁くような、呼吸をすることすら憚られると言わんばかりの小さくか細い声で、泣きながら謝り続けている。


『出会ってごめんなさい』『好きになってごめんなさい』『リト、ごめんなさい』『死に損なってごめんなさい』『燃やして』『跡形もなく私を燃やして』『呪って厭うて憎悪して』『二度と蘇らぬよう、二度とこの世に生まれ落ちぬよう』『私の魂を、呪い堕として』


「……泣かなくていいよ、いいんだ」


 女の声が途切れた隙間に、酷く優しい声が聞こえた。


「他の幸福はないと、幸は君だけだと定めた俺を、どうか笑ってくれ」


 愛してるよ、マリア。

 その言葉を柔らかく紡いだのは彼だったのか、それとも幻だったのか。振り向くことが出来ない私には分からなかった。








 波の音。せせらぎの音。木々の間を駆け抜ける風の音、草花を踏みしめる音。沢山の音も景色も姿も声も、全てが前から後ろへと流れていく。たまに、底が抜けたかのように静まりかえり、黒のみが世界を満たすこともあった。全てを黒が飲みこんだ世界は酷く静かで、自身の耳鳴りでさえも静まりかえる。

 法則性があるのか、それとも全ては気紛れなのか。消えては現れる音や姿を予測することは出来ない。自らの意思を反映できる物は、この身一つから発する物のみだ。だけどそれは、どこにいても同じ事である。


「それで、そこのお団子が猛烈に美味しいんだけど、確実に並ばなきゃいけなくて。それは別にいいんだけど、並んでる間に黒羅に見つかるのが難で……」

「そのまま黒羅に並ばせりゃいいだろ。というより、元から黒羅に並ばせろよ」

「何言ってんの! 待ち時間含めて到達してこそが買い物の醍醐味でしょう!?」

「姉王と弟王並ばせてんの知ったら、店主ひっくり返るだろうな」

「そうしたら店が休みになってお団子が買えなくなる……? 大問題ですよ、これ」

「あんたらの所為でなー」


 声がする。懐かしい姿が流れていく。後ろから肩を叩かれる。繋いでいない手が引かれる。そのどれもが常世の物ではなく、けれど、実際に繋いでいるリトの手より余程温かい。それが少し、笑えてしまう。

 岩戸の中に入って、ほんの僅かにしか時が過ぎていないように思う。もう何年もこの黒の中を歩いているようにも思う。たまに、ふと、振り向いてしまおうかと危うい思考が過る時もあった。けれど不思議と、そのたびにリトから話しかけられる。それが少し、くすぐったい。


「あんたらはさ、王じゃなかったらどんな人生を歩んでたのかな」

「私達は美味しい物食べるのが好きだから、お店やってるかも」

「黒羅が大行列作るな」

「あれ!? 王じゃないことを前提とした話じゃなかったの!?」


 軽い笑い声が後ろから聞こえてくる。声に合わせて手も揺れているから、実際に笑っているのだと実感できた。後ろから聞こえてくる声が彼なのか彼以外の何かなのかは、そうでもなければ分からないのだ。

 だけどそれでもよかった。誰に問われたところで答えは変わらない。人によって変える言葉なら、最初から音になどしないほうがましだ。


「王でなければよかったと思ったことは、あるのか?」

「いいえ、一度も」


 王でない人生を夢想したことがないとは言わない。ソウジュと一緒に泣きながら布団をかぶり、そんな日々を夢想した夜を何度も超えてきた。

 両親と手を繋ぐ同じ年ほどの子どもを見る度に、足が疲れたと抱っこをねだる子どもを見る度に、もーお母さん決めてと決断を母へ委ねる子どもを見る度に、そんな自由が許される人生を見る度に、そう思った。


 けれど、王ではない私達はまず生まれてこなかった。

 生まれてからその地に根付いた命と、そうなるべく生まれた命がある。私達は後者だ。王となるべく生まれ、そうでなければ生まれてこなかった命だ。命である。その程度の分別はつく。そしてそれを嘆いたことはなかった。

 他者を羨んだことはある。その環境を、在り方を、羨んだ。けれど私達として生まれてこなければ良かったと思ったことは一度もない。その感情は私達の身の内に同居できる。


「どんな選択肢をもらえても、私達は必ず王となる。だって、好きなの。白を、ここに生きる人々を、どうしたって愛している。だからこそ、私達は王で在り続ける。在り続けられる命だからこそ、私達は私達として生まれてきたのだから」


 この生まれを疎うたことは一度もない。泣いたことは多々あれど、嘆いたことは一度もなかった。


「ここはシラ。神と修羅が住まう国。かつて神羅と呼ばれたこの国が、いつか終わることは許容できる。身の内が腐り落ちて終焉を迎えるのならばそれもまた一つの終わりだと、私達は受け止められる。けれど、外部からの侵略で暴かれるなどどうして許容できる。ここは白だ。終わるのならば、白に生きるものが終わらせるべきだ」


 それが神であれ、人であれ、構いやしない。赦されざるは、海の向こうから来る侵略者による滅びだけだ。終焉を選択できることは、とてつもない贅沢であり、奇跡であり、最後の権利なのだから。



「君は、どうして黒羅に入ったの?」

「俺の願いを詰め合わせたら、全部当てはまったから」


 間を置かず返される答えは、嘘か、考える余地もない真実か、そのどちらかである。そして、どちらであるかを追求するのは野暮というものだ。


「中々難しいことを言う。この件が終わったら褒美をあげる予定なんだけど、何がいいか分からないから自分で考えておいてね」

「姉王が健やかであらせられることにございます」

「そういうのいいから」


 その類いを受け入れてしまうと、皆一貫してそれしか口にしなくなるのは目に見えている。願いや目的があるのなら、それを叶える手段でも何でもいいので言ってくれるほうがよかった。

 黒羅が王族を守るのは職務だが、だからといって世話になって礼も無しとなっては礼を欠く。これは自分や相手がどんな立場でも変わらないことだ。上がふんぞり返ることが出来るのは、下と信頼関係があるからだ。向けられるものを当たり前だと享受し、何も返さないような王に命を懸けさせるわけにはいかない。何より、そんな王私が嫌だ。


「特に欲しい物も入り用な物もないんだよなぁ」

「一つもないの?」


 それはまた、何とも無欲なことだ。彼に望みがないのなら、面白みはないが金でいいだろう。あって困る物でもないし、人を選ぶ物でもない。


「俺は、さ」


 きゃらきゃらと楽しげな子ども達の声が駆け抜けていく中、ぽつりと、声が落ちた。


「好きだった人を殺されてるんだ。だから、本当に、あんたが無事ならそれでいいんだよ」


 そこには確かな悲哀が存在していた。けれど何よりも比重を占めていたのは、その対象への愛おしさだ。最初から繋がっている人以外を愛したことのない私には、彼に愛された人が少しだけ羨ましい。声にすら滲むその愛に愛された人はきっと、どんな最期であれ幸福だったのではないかと思うのだ。







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