肆話 双
ぱっと目蓋を開く。そこには木目が作り出した模様が数多存在する天井がある。一瞬ここがどこか分からなくなったが、すぐに思い出した。
ここは宿だ。私は、宮を出てソウジュと離れている。
そこまで思い出し、嘆息しながら身体を起こす。懸念していた身体の疲れはあまりない。昨日の地獄の按摩が効いたらしい。足を動かして具合を確かめながら、髪を掻き上げる。長い黒髪がさらさら音を立てて流れていく。いい加減切りたいが、神事の際に整える必要もあり、個人の都合で切るわけにはいかない。ソウジュも我慢しているのだから堪えなければ。ただ、どちらかが不慮の事故ででも短くなれば、そっちに合わせるので切ることが出来る。
寝起きの頭でつらつらとどうでもいいことを考える中、思考の半分はさっき見た夢に占められていた。ただの夢にしては余韻が酷い。甘ったるく粘つくように消えない。しかし、神子としての神事とも違うように思う。
奇妙な違和感を持て余していると、襖の縁が叩かれる音がした。
「起きたか?」
「おはよう。着替えるから待って」
手を動かしながらでも考えることは出来る。私はとりあえず着替えを優先し、布団から出た。
髪は女官がしてくれた昨日ほどきっちりは結えないので、自分で出来る範囲内で邪魔にならないよう結えたらそれでいい。
朝食は、リトは通常の、私は精進料理である。昨日のうちに女将さんに頼んでおいたのだ。しかもただの精進料理ではない。粥、小鉢三つ、空のお猪口。以上である。悲しい。
「おい、それで足りるのかよ。今日も歩くんだぞ」
「だから、君はしっかり食べて。力仕事は君に頼るんだし。私は儀式の一環だから……私だって卵焼き食べたいわよー!」
箸を握りしめて嘆く。でも、お料理美味しい。
「私、湯葉好きなの。幸せー」
思わず顔を綻ばせれば、妙な顔をされた。正確には呆れた顔である。この男、昨日は能面だと思ったが意外と表情豊かだ。しかし、その箸が止まっているのは頂けない。
「リトはしっかり食べてよ。私、荷は持てませんからね。何せ、漬物石より重い物は持ったことがございませんの」
「漬物石を持てたら大抵の物が持てるなぁ。何やってるんだ、おひい様」
「外でそう呼んだら承知しないよ。美味しいお漬物食べたかったの。安心して、ソウジュも母上も一緒だったから。最終的には叔父上が全てしてくださったけど」
「隊長に何をさせてるんだよ」
「いい鍛錬になったって言ってたけど」
その年の漬物は、いつにも増して美味しかった。気がする。
「おひい様は料理するのか?」
「何で職人の美味しいご飯食べる機会を捨ててまで自分のまずいご飯食べなきゃいけないの。しないよ。しなきゃいけなきゃするだろうけど、作る時間も習う時間もあんまりないし、そもそも厨房立たせてもらえない」
先に食べ終わった私は、昨日リトが一日中背負っていた荷物まで這っていき、中を探った。取り出したのは酒瓶だ。それを持って机まで戻り、空のお猪口に注ぐ。
「今日も歩くんだぞ」
「だからよ。これは御神酒……君、叔父上から話聞いてないの?」
「あんたから聞けとのお達しだ。そもそも説明を受ける時間が無かった」
思わず頭を抱える。いくら時間が無かったからと言って、全部丸投げしてくるのはどうなのだろう。これはヒサメからの意趣返しだろうか。長い溜息を吐いて、次の息を吸うと同時にお猪口を呷る。神事の際によく飲んでいるから慣れたものだ。
白では十二までが子どもだ。十三から十八までは大人への移行期間となる為、酒も解禁である。五年の間に大人の世界に、引いては社会に慣れろということだ。神事の度に、大人達が御神酒の手順をどうするか散々悩んでいたのを知っていたため、飲める年になって良かったなとソウジュと安堵したものだ。
厳粛な場で、御神酒を使った酒饅頭をもしゃもしゃ食べるのは、視覚的にも気持ち的にも、中々厳しいものがあったのである。
「特殊な道を使うとは聞いている。そもそも、ここから鬼の里まで馬でも片道二十日はかかる。それを徒歩で往復四日。何かしら術が使われなければ無理だろうと阿呆でも推測できるだろ」
この男、中々に口が悪い。というより、辛辣である。暑苦しくない綺麗な顔つきに、鍛えられた無駄のない身体に、無駄のない動作。
何とも女性に人気がありそうなのに勿体ないと、余計なお世話を承知で思う。
昨日も受付中、女中や客の女性陣からちらちら視線を向けられていた。そんな視線の中、躊躇いなく人を担ぎ上げた残念な男である。流石黒羅。大抵のことは武力で押し潰せると評判の男達である。
何年か前、突然の雨で急遽幽霊騒ぎの絶えない古屋敷に泊まった折、一晩で私とソウジュが眠っている部屋以外の全てを叩き壊した男達。障子を開ければ私達の部屋だけが荒野にぽつんと建っていたあの光景は今でも忘れられない。その晩何があったのか、私達はつっこまないと決めている。そして叔父は、黒羅の育て方を間違った気がしてならない。
「天の戸を使います。この存在はたとえ同じ黒羅であろうと他言無用に願いします。知っている人は知り、知らない人は知らない。それでいい存在ですから」
「了解した。それで、天の戸とは何だ」
「王族のみが使用できる、正確には王族が導とならなければこの地に開かれない神々の領域の一部です。……あの、さ、叔父上が選抜したんなら問題ないはずだけど、リトは精神強いよね?」
「どういう意味だ」
怪訝な顔をしつつも食事が再開されてほっとした。
「神々の領域だけあって、人間にはちょっときついの。心的外傷が刺されるというか、引っ張られるというか。死んだ大事な人間が手招きしていたり、恋しい人が呼んでいたり。幻かそうでないかの判断もつかない。境のない世界を歩き続ける。永遠とも思える中を歩き続けても、外では一日も経っていない。時間も生死の境も定かではない。そんな空間よ……大丈夫そう?」
途中から黙ってしまったリトを伺う。ぼりんっと大きな音が響いた。リトが漬物を噛み砕いた音だ。そのままぼりぼりと口の中に入れ、残っていた米を掻き込み、茶で流し込む。空になった湯飲みがたんっと机に置かれた。
「ごっそさん。問題ないぜ、おひい様。今更んなものでどうにかなる繊細な人材が黒羅にいるわけねぇだろ。黒羅は王族の刀であり盾だ。王族の敵であれば幽霊だろうが神だろうが躊躇なく叩き切る。その為に俺らがいるんだ。遠慮無く使え」
「……頼もしいことで」
叔父上の人選はどうやら正しかったらしい。しかし、この若さでここまで覚悟が決まってしまう経験をしてきたであろうリトを、少しだけ哀れに思う。本人が望まぬ以上哀れみを向けるのは侮辱に当たる。そうと分かっているから、そんな気持ちはすぐに流した。私だって同情なんて欲しくはないのだから。
出発は朝早くだ。少しでも早くいかねばならぬ用事があるからである。まだ日が上がるか上がらぬか微妙な時間ではあるが、私達と同じように旅館を出て行く客もちらほら見られた。皆それぞれの事情があるのだろう。それでも見送りに出てきている女将は、一体いつ寝ているのか不思議なものだ。
袋に入れて部屋へと持ち込んだ靴を下ろし、足を入れる。昨日は痛く重たかった靴は、まるで出発の日の朝のように軽く感じた。地獄の按摩の成果が現れている。
地獄の按摩をした側であるリトは、昨日と同じく二人分の荷を背負ってもけろっとしていた。腰の刀だけでも相当な重量があるはずなのだが、何を食べたらこんな強靱な身体になるのだ。
「朝も早くにご苦労様でございます。どうぞ無事の旅路を」
にこにこ微笑んでいる女将を前に、ちょっと考える。
「女将さん」
「はい?」
「今から申し上げることを気にするもしないも、貴方のよしなに。私は一切の強要を致しません。それを承知の上で、一点お耳に入れたいことがございます。本日より十日の間、どうぞ火の周りをお気をつけください。特に一階西方面を重点的に。きな臭い。場合によっては大火となり得る」
女将は目を丸くした。笑顔が失せ、口元は薄く開いたままだ。しかし、そこは大店の女将。すぐに表情をにこやかなものへと戻した。
「神子様でございましたか」
「その気がある程度です」
「そうでございましたか。それはどうもご丁寧に。では、神子の気など欠片もございませんわたくしよりも一点、お伝えしとうございます。どうぞお耳を拝借願えませんでしょうか」
手招きされ、耳を傾ける。こちらをじっと見ているリトの手が刀にかかりかけていて、ぎょっとし、手で制す。この程度で刀を抜くような護衛、護衛が危なっかしくて連れてなどいられないではないか。
「お連れのお客様、昨日貴方様を妻と記載される折り、大変お可愛らしい顔をなさっておいででしたわ」
「………………はい?」
何を言われるのかと思いきや、何を言われたのか分からなかった。間抜けな声を上げた私から離れ、女将はころころ笑う。
「よいことをお聞かせくださったお客様へ、せめてもの御礼にございます。お役に立てば宜しいのですけど」
「私の言を信じると?」
「不幸の兆しに気づいても、何も伝えず去って行かれる方が多い中、不信感を抱かれる前提で伝えてくださる方を、どうして疑いましょうか。幸運の壺を携えていらっしゃったのならまた話は別でございますが、貴方は真摯でいらっしゃった。そのような方の言を無碍に扱っていては女将など務まりませんわ」
女将はまるで皺の一つでさえ流れを計算したかのようにきっちり腰を折り、それは美しく頭を下げた。
「どうぞ、道中お気をつけて。またのお越しを心よりお待ち申し上げております」
入り口の左右に立つ宿の者が火打ち石を打ち付ける。道中の無事を、言葉でも作法でも願われた感想は、本当に、最後まで狐のような人だったな、だった。
早朝とはいえ、宿場町はそれなりに人が動いている。人気が無くなるのは、やはり街道に出て少し経ってからだった。速度の違いでばらける人々と充分距離が出来てから、リトは口を開いた。
「あの旅館、燃えるのか?」
「さあ。きな臭い臭いがしていただけで、詳細までは分からない。誰か個人から臭っていた可能性もあるし。神託を受けたわけでも、夢を見たわけでもない。意識に引っかかっただけのことを、占ったように判断することは出来ないよ。だけど、王とは民を守るものだから」
信じるも信じないも、その運命を受ける本人次第。回避するも受け入れるも本人次第。気づいた運命を告げるも秘めるも本人次第。占いも運命もそうやって巡り、流れていく。
けれど人は、責任の在処を見つけたがるものだから。誰かを罰することで不幸に見切りをつけたがるものだから。だから、気づいた人間は言葉を噤むことが多い。その気づきを罪とされ、責任の在処とされてきたのならば尚のこと。私が口に出せるのは、私自身の安全が盤石なものであると同時に、民を守る義務と責任と願いがあるから。それだけのことだ。
「何かあったら、君も守らなくちゃね」
「うっげ、やめてくれよ。黒羅の存在を真っ向から否定してんじゃねぇぞ。黒羅は、王族の敵に対し修羅と化すため設立された部隊だぞ」
心底嫌そうに舌を出すその顔に、思わず笑ってしまった。お互いの理念をぶつかり合わせたってどうにもならない。だったら、笑ってしまうのが一番手っ取り早い時だってあるのだ。それに今は、この男との会話が楽しいのも事実である。
人に踏みならされた道に草は然程生えない。しかし、主流の道を外れて少し経てば、やがて轍が目立ってきた。馬車や牛車が通る場所だけが均され、それ以外に短い草が生えている。そして、それすらも無くなった頃、私達は獣道へと入っていた。
主流とされる街道どころか、道から外れてどれくらい経っただろう。太陽はそろそろ真上にさしかかろうとしている。しかし、日の光は直接私達を焼きはしない。私達の頭上は木の天井が多く、木漏れ日としてしか日を通さないでくれるからだ。
山道は険しくも、植物の恩恵で道を歩くより随分と涼しく過ごしやすい。厳しい冬を越えて芽吹きを得た新緑達のかぐわしい香りに気分もよかった。
「天の戸に入る前に水鏡を使用するけど、叔父上に何か連絡事項はある?」
「ここまで特に問題なく、姉王に怪我なく変化なく、って宜しく」
「うわー、嫌だー」
先頭を歩き、大雑把に道をかき分けていくリトの背で揺れる荷物を見ながら、慎重に足を進める。
「天の戸を使う王族は、まず朝日から夕日までの間を歩いた靴を用意しなければならないの」
「そいつは、王族には厳しい話だな」
「それで、使う日の朝は精進料理が鉄則。連れは平気だけど、導が穢れを持ち込んでしまうと、中の揺れが更に激しくなってしまうから御神酒も必須。ついたら禊ぎをするから、周囲を見張っててね。まあ、ここは王家直轄地だから人はいないはずだけど、たまに不届き者も出るから。あ、虫と動物は通していいから。それと、人はいいけど虫と動物は殺しちゃ駄目だよ」
大きな荷物が一際大きく揺れた。どうやら笑ったようだ。
「へいへい。何とも神様らしい選別だこと」
「そうね。基本的に神にとって人とは、愛でる物ではなく面白がる物だから。だから、精々足掻いて面白がって頂きましょう。神々が人に飽きない限り、その守護は続いていくのだから」
それまで淀みなく歩いていたリトが突如立ち止まった。荷物にぶつかりそうになり、慌てて木の枝を掴んで進行を止める。疲れた自分の足の力だけで立ち止まったら転んでしまいそうなほどには傾斜があるのだ。
何かあったのかと問おうとした私の前で、荷物がくるりと回った。瞬き一つの間に、リトが目の前にいる。
「あのさ、俺、神を裏切った類いなんだけど、その天の戸ってやつ、俺は大丈夫か?」
おどけるでも嘆くでも不安がるでもなく、仕事上必要な事柄だから真剣に質問し、答えを得ようとしている。赤い瞳がまっすぐに私を見て、答えを待っていた。
「――大丈夫よ。これは神への信仰を問う試練ではないのだから。王族が一人前になるための肝試しに使われたりするくらいだし」
くすくす笑って答えれば、赤い瞳がくしゃりと解けた。
何だそれ。そう言ってけらけら笑う様子に、ほっとする。身体に入っていた力を無理やり解き、一本立てた指を揺らす。
「私とソウジュなんて、四歳で越えたのよ。二人でお弁当持って、手を繋いで、うきうき出かけたものよ。そして、大騒動になって捜索隊が出たの」
「やべぇ、全然笑い事じゃなかった」
「見事出口に到達し意気揚々と出てきた私とソウジュを出迎えたのは、阿修羅の如き顔をした叔父上だった……あの拳骨の痛さは、この歳まで生きてきても上位三冠に入るわね」
「それで一番じゃねぇのかよ……」
あの頃は青かったとしみじみ頷く私に、リトは引き攣った顔で引いていた。重い荷と一緒に私を担いでも一歩もよろめかなかった男が、三歩引く話をしてしまったらしい。
「他に何やらかしたのか、聞きたいような聞きたくないような……」
「そんなに大したことはしていないわよ。王だからちょっと大袈裟に騒がれただけで、平民だったら誰でもやることじゃないかな」
「例えば?」
「呪われたから、その呪いを飼って二人で大事に育てたり」
「何でだよ……」
「女難の相が出ている叔父上に二人で女性陣をけしかけたり」
「やめてやれよ……」
「私が雷に打たれたからお揃いにしようとソウジュも打たれたり」
「やめてくれよ……」
「あれさ、私まで拳骨を喰らったんだけど何故?」
「もうあんたら連帯責任だよ全部!」
「えぇー!?」
それでも話し続けていれば声を上げて笑う。その様子はただの少年だ。現状私の唯一の味方で護衛で、白の救いとなるやもしれない作戦の要でもある。
なのに私は、ぞっとした。さっき、神を裏切ったと平然と言い切った瞳に恐れを抱いたのだ。一体、どんな地獄を見てきたらこんな眼が出来るのかと、脅えるほどに恐ろしかった。
絶望を知った人間なら山ほど見てきた。十五年前の戦で何も喪わなかった人間などいはしないのだ。だが、その最前線の地獄から生還した人間だって、あんな底なし沼のような瞳はしていなかった。光を吸い込むことすら許さぬほどの深い闇を、あの赤い瞳は飲みこんでいる。
どんな地獄を生きれば、あんな瞳が出来るのか。私には分からなかった。
天の戸は、一見すればただの岩だ。平均的な成人男性の背丈より大きな岩で、背の高いヒサメでさえ手を上げても天辺に触れることはできない。
全国に天の戸は点在している。そこに規則性はない。特徴としては、岩の傍には必ずこんこんと湧き出す水が美しい泉を作っていることだ。
泉を前に正座をし、御神酒を掲げて一気に飲む。
靴を脱ぎ、服を脱ぎ、冷たい水に爪先から入る。春とはいえ、水遊びにはまだ早い。震え上がりながら縮こまり、少し待つ。動けば動くほど水の刺激を多く受けるからだ。結っていない長い髪が水面に広がり、端から見ると水死体だなこれといつも思う。だが、端から見られたら水死体に見られる心配をするどころではない。何せ素っ裸なのだ。
やがて温度に慣れ始め、寒さは少しましになった。そうすると少し動けるようになる。水の中を歩いて進み、水が流れ出している岸壁まで辿り着く。壁から湧き出してくる水が、平らで少しへこみ、盆のようになっている石の上に溜っている。
尖った石先に指を押しつけ、ぷつりと滲んだ血をその水に溶かす。指を引き抜いた名残で揺れる水面へふっと息を吹きかければ、そこには私が映っていた。私達にとって水鏡とは、鏡と大差ないのだ。
『姉王、健勝のようで何より』
「弟王、健勝のようで何より」
離れることは滅多になかったのに、離れた際のやりとりも慣れたものだ。ソウジュはすぐに相好を崩した。となると、今は他に誰もいないらしい。
『足の痛みを心配してたけど、平気そうだね。僕今日全然痛くなかった』
「その前に地獄を見たからね……」
『そう! それ! 昨日の夕方の激痛何!? 僕、シャラの足もげたんじゃないかって心配したよ!』
「もげたほうが一瞬で済んだかもしれない地獄の按摩がね……」
『何て?』
水鏡は、離れた相手と連絡を取り合うことが出来る非常に便利な術だが、制限も多い。連絡を取り交わせるのは血縁同士のみ、そして同じ大地の水、それも神の息がかかった神水が必要なのだ。だからザーバットへ密偵に出ている者達とは気軽に連絡が出来ないのである。術で凍らせた水が尽きればそこで終わりなのだ。
戯れもそこそこに、互いに情報を交わし合う。やはり密偵達とは連絡が取れないままだという。けれど、浜に普段は上がらぬはずの魚が次々あがってきているらしい。海の神はその壮大さとは裏腹に、細やかに危険を知らせてくれる。
兵の配置について話していると、途中からソウジュの視線が私から外れることに気がついた。
「ソウジュ、叔父上いらっしゃる?」
『うん、先程いらっしゃったよ』
「少し話せる? 私、聞きたいことがあるんだけど」
『髪を』
短い言葉でも何を示されているか分かる。長い髪を前に垂らし、服の代わりにするのだ。普段の手入れは面倒だが、こういうときは便利なのである。
水鏡に入れ替わりで現れたヒサメは、呆れた顔をした。
『見えなきゃいいって訳でもないだろう。確かにお前達は立場的に他者から見られることに躊躇がないが、それでもせめて襦袢だけでもだな』
「濡れた服の始末が面倒です。それより叔父上、リトの件でお伺いしたいことが」
くどくど続きそうなお小言を先回りで封じる。あまり長く浸かっていたら寒さにやられるので今回は許してほしい。ヒサメもそれは分かっているのだろう。咎めることはなく、私からの問いを待った。
「彼は一体、どういった経緯で黒羅へ?」
『……無口で無愛想で仏頂面、道中重苦しいのは分かっているが、我慢してくれ。腕も王家への忠誠心も確かなんだ。そもそも王家へ命も人生も懸けられる人間でなければ、黒羅には入れないんだ。だから』
難しい顔で眉を落とすヒサメに首を傾げる。
「軽口もおどけた顔も笑顔も大変好ましいですし、話しやすいですからそれは別に。少々口が悪いのもまあ、新鮮だから楽しいです」
『……………………は?』
「まだ戦闘に至っていませんので腕は確認できていませんが、叔父上の言と荷を負ったまま私を抱えられる馬鹿力を認識しているので疑ってなどいません。それより……叔父上?」
水鏡一杯にヒサメの掌が映っている。手相を占えとでも言いたいのだろうか。占えというのなら占うが、傍にいるソウジュに占って貰った方が正確性が増すと思うのでそちらをおすすめしたい。えーと、女難の相が出てますね。
『待て……喋っているのか?』
「私はいつでも喋っておりますが」
『お前達は確かにな……大体うるさい……違う! リトだ!』
「結構口悪いですね。びっくりしましたけど中々楽しいです。いい話相手になってくれていますから、この旅路、飽きずに済みそうで嬉しいです。正直最初はうんとすんしか言わないし嫌がらせかと思いましたけど今は感謝しています。ありがとうございます、叔父上」
『……どういたしまして。嫌がらせかと思ってたのかお前』
絞り出すように返事をしたヒサメは、私に突き出していた手で目元を覆ってしまった。様子がおかしいことに気づいたソウジュが、首を傾げながら水鏡に映り込んでくる。状況を伝えるために肩を竦めると、同じ動きが返ってきた。お互い事態がさっぱり把握できない。
柔らかな風が吹き、水面を揺らす。春の香りを纏った柔らかな風だが、冬の冷たさを残す水に触れた肌には震え上がりそうな冷たさを齎した。
「あの、叔父上、寒いので出来れば急いで頂けると」
寒さにあっさり白旗を上げて鼻水を啜ると、ヒサメは慌てて顔を上げた。
『そうだな、悪かった。リトはな、無駄口は一切叩かないし、慇懃無礼な態度は崩さないし、遊びには一切参加しないし、笑わないし怒らないし冗談も言わないしで、あの顔も相まって人形みたいだなんて言われている奴でな。お前に名乗っている際、こいつこんな長文を喋れたのかと感心したくらいだ』
「…………はい?」
確かに宿屋まではそんな感じだったが、そこからはかぶっていた猫を脱いだようで、どうということはない少年だった。まさか、ヒサメの前でも隊の中でも、延々と猫をかぶり続けていたのだろうか。
『だが腕は本当に一流なんだ。そこいらの夜盗なんざ、目を瞑っていても討伐できるだろう。だから、多少旅路に難ありでも護衛としては最適だと判断した。本人からの強い希望もあったからな』
「まさか立候補したんですか?」
『そのまさかだ。他にも候補は数人いたが、そいつらはリトが行くのならそのほうがお前の生存率が上がると判断して身を引いた。熟練者ばかりだったが、意見は全員一致した。……そうか、リトが』
眉間を摘まむように指を当て呻いた後、ヒサメは続けた。
『リトは十五年前、あの戦場で拾われた子どもだ。恐らく二、三歳だろうと判断されたが、名前以外何も喋れなかった。しばらくは孤児を集めている家にいたが、本人が黒羅に入ると言い張って入団試験を受けに来たのが六つの頃だ』
「六つ!?」
どんなに早くても十二だろうと思っていたが、まさか六つだとは思いもしなかった。十二でも早いくらいなのだ。平均としては十五、六で試験を受けに来る。
『それでな、試験官を伸したんだ、あいつ』
「はい?」
『正確には、あの戦場を生き残ったこの道二十年の古参兵を』
「はい!?」
水鏡には、頭が痛そうに眉を寄せているヒサメと、目を丸くし驚愕を隠しもしない私が映っていた。
『こんな逸材を逃すのは痛手だととりあえず仮入団させた後、様子を見てお前達と会わせた』
鏡の中の私と目が合う。二人で首を傾げる。
『どの黒羅も、直接か間接かの違いはあるが、一度はお前達を通している。真実お前達に仕えることが出来ない人間は、お前達によって弾かれてきた。気づいてなかっただろ?』
確かに、まったく気がついていなかった。年に数度、ヒサメから上げられてきた何かしらの選別はそういうことだったのかと今更知った。だが、リトとは会わせたと言っていた。ならば一度は確実に会っているらしい。その時におひい様呼びを聞いたのかもしれない。
『お前達はあいつを弾かなかった。だから、俺はあいつを採用した。結果的にあいつは今では黒羅でも一、二を争う腕前だ。鬼を相手取った場合は群を抜いている。だが、どうも人間的には難しくてな。家族は仕方がないにしても、他にも誰一人として親しくしている人間がいないんだ。下手をすると半年、はい、いいえしか言葉にしないなんてこともあった。周りも気にかけてはいるんだが、こればっかりは戦闘能力だけではどうにもならん』
何とも、極端な男である。別に誰彼構わず軽口を叩けとは言わないが、王には軽口を叩けて、仲間には単語だけで生活。何がしたいのか。
『いやしかしそうか……あいつが……うーん……判断を誤った、か? ……いや、でもなぁ』
「叔父上?」
私とソウジュの声が被さった。よくあることだ。ヒサメも慣れたものである。慣れない人間は、同じ顔で同じ動作で同じ声で同じ言葉を発すると混乱するらしい。生憎、私達は私達以外にそんな双子と遭遇したことがないのでよく分からない感覚である。
「叔父上、そろそろ切れます」
風もないのに水面の揺らぎが激しくなっていることを告げれば、ヒサメはぱっと表情を入れ替えた。
『分かった。次の天の戸での連絡を待つ。あのな、シャラ。黒羅では髪を伸ばすのには意味があるんだ』
「はい?」
時間がないのに最後に何を言うのかと思えば、黒羅の流儀であった。訳が分からず、二つの首が傾げられる。
『命も生も、王家に捧げる黒羅は、家族や恋人に身体も骨も遺してやれない。だから、髪を渡していくんだ。戦場に出る前には必ず髪を切って置いていく。あいつも伸ばしているだろう? そういう相手がいる様子もないのに、不思議だったんだけど……シャラ、もしもあいつがお前に髪を渡したら、一応、一応俺に相談してくれ』
真面目な顔で何を言っているのだろう、この人は。二つの顔が呆れ顔を作った。ソウジュの呆れ顔を映していた水鏡が切れたそこには、先程までと寸分違わぬ呆れ顔が残るばかりである。