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拾伍話 □







 貴方の為じゃない。貴方の為なんかじゃない。

 だから、貴方の所為などではないのだと、リトはそう言ってくれていたのだと、今更、気づいて。






 ばちんと意識が弾けると同時に、びりびりとした衝撃が肘まで走り抜ける。刀を跳ね上げられないよう脇を締め、力を受け流す。一度跳ね上げられ脇が空いてしまえば、懐に入られてしまう。

 私には受けるだけで精一杯だが、神事用の装飾が醸し出す雰囲気に飲まれた皇子があまり踏み込んでこないのでありがたい。


 鈴が鳴り、色鮮やかな紐が風に乗る。これらは別に無意味につけられているものではない。神に捧げる舞いを、その御許に届ける為の音であり彩だ。だからこそ人は気圧される。

 剣舞なら嫌と言うほど舞ってきた。本来ならば練習を重ねている年齢から私達は神への捧げ物を舞っていたのだから、美しく見せる舞い方ならお手の物だ。



 リトが語った話の中に、一部だけ違和感があった。それがどこか分からなかったけれど、今なら分かる。マリアの過去だ。リトはそこだけに嘘を吐いた。

 ああ、胸が痛い。痛いんだよ、リト。ソウジュの傷ではなく、マリアとの同化でもなく、私の、私だけの傷が酷く痛む。

 言わなかったじゃない。貴方そんなこと、一言も言わなかったじゃない。


 しゃくり上げ、大声で泣き喚きたい。痛くて痛くて、死んでしまいそうなほど悲しくて、恋しい。刀を構えた手で拭えなかった滴が次から次へと伝い落ちる。皇子はぎょっと距離を取ったが、構うものか。

 どうやらこの恋は、なり損ないではなく奈落の恋だったらしい。





「……お前、何を企んでるんだ」


 あまり深く踏み込んでこない皇子が、警戒心剥き出しで私を睨む。


「企むだなどと、人聞きの悪い」

「どうして隙を見せても斬りかかってこない」


 それはね、隙があっても気づけない腕前だからです。しかしそんなこと言う必要はないので意味深に微笑んでおく。はったりと真実を編み込んでそれっぽくすることは得意なのだ。その間に涙も止めてしまう。


「貴殿は、我が何故こうして立っていられると思っておいでか」

「な、何?」

「胸を貫かれて尚、どうしてこれだけ動けると思う?」


 それはね、別に私が刺されたわけではないからです。しかしそれも言う必要はない。


「分かるか、皇子よ。ここは白王の居住区であり、神に近しい場所だ。全ての加護が我へ費やされる場所。我に恩恵を、お前に毀傷を。気をつけるがよい、ザーバットの民よ。この地はただ存在するだけでお前に厳しいぞ」


 皇子の顔が目に見えて引き攣った。悪魔を引きつれているだけあって、目に見えぬ力を嘘だと断じる事も出来ないのだろう。

 まあ残念ながら、彼に言ったほどこの場の空気は私に有利ではないので、彼の悪魔が貫いた私の半身は今も奥の宮で突っ伏しているのだが、彼から見れば虫の息だった白王がぴんぴんしてやり返しに来ているように見えるだろう。


「……お前は、死ぬのか? 白王は、言い伝え通り、神の子で、不老不死なのか?」


 不老不死ならば、私達は父を知らず育つ事はなかった。母も失い、私達しかいない、そんな王にはならずに済んだのだろう。けれど言っても詮無き事だ。


「さてな。死んだ事がないから分からぬが、一つ確かなのは、我を殺したところで我の魔性は止まらぬぞ」

「お前が契約者じゃないのか!?」

「あれは誰とも契約しておらぬよ。さて、ラトラツェントの心臓をお前ごと貫くか、あの悪魔だけを殺しお前は生き延びるか。今ならば選ばせてやろう。お前の親も人が悪い。この地は踏み入れるだけで命を削ると、子に教えぬとは」


 笑うべきか哀れむべきか。一瞬迷い、結局表情を浮かべる事は止めた。能面のような無表情から、彼は勝手に私の気持ちを汲み取るだろう。皇子の顔に朱が昇る。どうやら馬鹿にしたと取ったようだ。


「時代遅れの呪術頼りの極東の蛮族共の愚王が! 貴様らなどザーバットが本気を出せばあっという間に滅びていたんだぞ!」

「………………悪魔頼りのザーバットに言われてもなぁ」


 あと、罵り言葉の語呂が悪い。


「う、うるさい!」

「そもそも、悪魔と契約とは危殆に瀕すると評されてもおかしくない有り様だ。それを、王族であるお前が担うのか。……此度の侵攻線、指揮権すらないのではないか?」

「黙れ!」


 一気に踏み込まれ、咄嗟に刀の背を抑えて受け止める。危なかった。両手で柄を持つだけでは押さえきれないところだった。

 これもあるから、私達は大陸の剣が扱えないのだ。私もソウジュも刀を片手で扱うには些か体型が心許ない。剣舞の際は鍔迫り合いをする必要も、相手の骨肉を叩き切る必要もないから何とかこなせているのだ。

 この皇子は戦慣れしているようには見えないが、それでも剣の腕はそこそこある。神事の雰囲気と、黒鋼に剣を叩き切られる事を懸念して押し切ってこないから何とかなっているようなものだ。


 にぃっと笑えば、皇子は舌打ちして距離を取った。さて、このはったりどこまで持つか。

 相手が様子見をしているからこそ成り立っている打ち合いは、ある程度の予定調和がある。少しだけ、剣舞を舞っている気持ちになった。はったりが見抜かれたら死ぬ剣舞だが、敵でさえなければ皇子とは意外と楽しく踊れたかもしれないなと、美しい剣筋を見て思った。




 轟音と共に地面が揺れ、私と皇子は膝をつく。視線を向ければ、結界の外は酷い有様だった。台風の直撃を受けたってこうはならないだろう。地面は抉れ木々はへし折れ、土が焼けて岩が溶ける。地獄とはこういう有様なのだろうか。そう思うには充分すぎる光景だ。

 私の結界はリトを通してしまうから、門もかなり壊れている。これは、場所を移動しないと邪魔になるかもしれない。そう心配している間にも彼らの戦いは止まらなかった。皇子も、青ざめたまま釘付けになっている。

 最早人が介入出来る争いではない。白とザーバット、人の国同士で行われる争いを、悪魔と人であることをやめた人が決める。それは何て馬鹿げていて、されど世界における人の立ち位置としては何て真っ当な在り方なんだろう。



 爛々と輝く赤い瞳を見開き、リトが吠える。頭上の輪は大きさと輝きを増し、まるで日の終焉を告げる夕焼けのようだった。対するラトラツェントも人の姿を保てていない。身体の半分を鱗が覆い、口と瞳は裂け、角はその長さを増している。

 ラトラツェントの腕の一振りが地とリトの腹を抉り、リトの黒刀がラトラツェントの尾と空を切り裂く。都の上空に開かれた多数の穴とこの戦いとで空が傷だらけだ。戦争の傷跡は空にもつけられるらしい。


 ああ、傷だらけだね。空も、貴方も。

 そんな場合ではないのに泣き出したい。子どもの癇癪のように大声で泣き叫びたい。

 この国の生まれではない。この時代に生きる人ですらない。この戦いに何の関係もない、何の責も負う必要はない人。神の十字を背負い、人の希望として世界にあるべくして生まれた、優しく美しい魂を持つ人。



「ふ、ははははは! お前、元は人の子か!? このおぞましい混ざり物が!? これはいい! 長く生きてきたが、これほどに歪な命は見た事がないぞ! 人の子がこれほどまでに歪めるのか! 悪魔を喰らい、時を超えてもまだ自我が崩壊せぬとは! それも神の愛し子たる所以か!? ならば神も随分粋な愛を与えるではないか!」


 楽しそうに、腹の底から楽しげに笑うラトラツェントに、リトは口の中の血を吐き出す。


「よく喋るな、蜥蜴野郎。その悪辣な趣味を満たしたくば魔界で済ませておけ。わざわざ公の場に露出しに来るとは、悪魔も大概恥知らずの公害だ」

「魔界はつまらぬのだよ。世に存在した瞬間より優劣が決定し、それを覆す術はない。上下が入れ替わる事は決してなく、ただただ生まれたままにあるだけだ。その点地上はいい。上がれぬならば引きずり落とし、落ちたくないからと他者を踏み台に踏みとどまる。愚かで矮小な身の上でありながら、惨めな己は許せぬと足掻き回る。光を求めて闇を抱き、闇を払おうと光を焼く。何とも愛すべき有り様ではないか」


 確かに、よく喋る。ラトラツェントはリトにより腕を切り落とされ、尾は断たれと酷い有様だ。それなのに平然としている。まるで再び生えてくると言わんばかりだ……生えてくるのだろうか? だから蜥蜴野郎なのかな。リト上手。


「……ザーバットの皇子よ。本当にあれがザーバットの為になると思うておるのか?」

「…………うるさい。極東の島国の小国の王に何が分かる」

「だからこそ、見えるものもあろう。我にはあれは破滅にしか見えんよ。同じ年頃の誼として忠告しておくが、あれはお前の死因になるぞ」


 皇子の顔に激情が灯った。


「黙れ! 黙っていても王になれるような立場の人間が偉そうな口を叩くな!」


 振りかぶられた剣を見上げず、刀を持ち直す。柄を握り直し、がら空きの胴へ刀を叩き込む。嫌な感触が肘まで走り抜けていく。

 呻いた皇子が剣を取り落とし、真っ青な顔で倒れ込む。腹を押さえ、脂汗を垂れ流す様子に、私も冷や汗ものだ。一本、二本、いや三本? 容赦なく全力で叩き込んだから、結構折れた気がする。咄嗟に峰打ちにしたけれど、峰打ちでも威力は充分だ。何せ黒鋼の塊をぶちつけているのだ。骨の一本や三本簡単に折れる。

 倒れ込んだ皇子が起き上がれそうにないのを確認し、ほっと肩の力を抜く。忙しくて武術は後回しになっていたが、もう少し鍛えたほうがいいかもしれない。




「五の、もう終いか?」


 こちらに視線を向けず告げられたラトラツェントの言葉に、皇子がびくりと肩を震わせた。


「母を見殺しにし、己を蔑ろにした父親を見返すのではなかったのか? 己を虐げた兄弟達に復讐するのではなかったのか? それなのに、もう終いか。五よ、お前はやはりつまらぬ物であったな」

「あっ……ま、て、まだ、やれる! 俺はまだっ!」

「お前にはもう、飽いた」


 無情に言い切ったラトラツェントの言葉に、ぞわりと総毛立った。視線を落とした先で、皇子の瞳からどろりと闇が溢れ出す。どろどろと溢れ出す闇は止まらない。そのまま地面に流れ落ちるかと思われた闇は、摂理を無視して私の手首を這い上がっていく。


「待て、ラトラツェントっ、誰のおかげで、地上に顕現出来たと思っているんだ!」

「思い上がるなよ、羽虫。俺を顕現させてやったと思っているのなら、思い上がりもいいところだ。過ぎれば道化として見れようが、中でもお前は中途半端でつまらぬわ。よいか、お前達が俺を止めているのではない。俺が、お前達に応えてやったにすぎぬ。一年様子を見たが、存外つまらぬ時間であった。白で過ごしたこの数日の方が余程興に乗った。白の王よ。俺と契約しろ。さすれば貴様に力を貸してやろう。ザーバットを滅ぼし、白を未来永劫独立国家として存続させることも可能であるぞ」


 ぞろりぞろりと闇が這い上がる。ラトラツェントの髪も同じように動き、結界に阻まれていた。契約者が中にいれば結界内でも多少の自由が利くらしい。器があればその器が中身を守ってしまう。

 これは結界の弱みだ。外部との境界線のみが強力で、そこを通ってしまえば効果は半減している。

 恐らく、マリアもそうだったのだ。神の子孫という身に隠されてしまったのだろう。


「契約は俺の愛だ。なればこそ、飽きるまで俺は契約者を愛でようぞ」


 これは、まずいか。余計な力を使いたくなかったが、これに触れ続けるのはまずい気がする。

 咄嗟に力を放とうとしたが、それより早く闇が弾ける。見えない膜に押し止められているかのようだ。黒の腕輪が光り、闇を押し止めている。



「シャラに、触れるな」


 地を這うような低い声が大地を揺らす。


「その子の生に何一つとして関わるなっ、ラトラツェント!」


 怒声は、地を裂き、天を割った。

 凄まじい風と衝撃が吹き荒れ、結界の外は二つの人影を認識する事も出来ない。轟音と共に結界に叩きつけられたラトラツェントを、羽の生えたリトの腕が掴み上げる。眼孔は開き切り、ぎょろりと動く。人の姿が消えていく。それなのに。


「お前があの娘を呪わなければ、あの娘は愛した人々と一緒に、人として終われたんだ!」


 牙が生え揃った口で紡ぐ言葉は、どこまでも優しいものだった。



「俺の愛を呪いと説くか、神の愛し子であり魔性の子よ! お前ほど歪んだ魂はこの先巡り会えまい! このような歪つにまさか巡り会えようとは!」


 リトの声が途切れ、続くのは最早獣の咆哮だ。肉が抉れ、筋が断ち切れ、血が飛び散る。

 空を覆う爆炎。打ち落とされ残骸となった船と一緒に降り注ぐザーバット兵。地上へ辿り着いた兵と交戦する黒羅。海岸線でも戦端は開かれているだろう。人の営みが損なわれ、国が損なわれ、命が欠けていく。それなのにここでは人の形が損なわれていく。

 心臓が早鐘のように鳴り続けている。駄目だと、この戦いは駄目だと、私の中の何かが叫ぶ。

 リトが、戻れなくなる。ラトラツェントを殺せても、リトが損なわれてしまう。そもそもリトは、戻る気など、ないのではないだろうか。


 生えていたはずの羽が捥げ、歪んだ骨が突き出す。それでもリトは動きを止めていない。気づいてすら、いないのかもしれない。獣のように牙を剥き、肉を裂き、裂かれ、骨を砕き、砕かれ、血を撒き散らし、撒き散らかされ、ここが地獄だと明確に知らしめている。


 もういい、もうやめて。悔恨はある。哀切は尽きない。けれどそれは、摂理を歪めてまで、何より貴方を地獄に堕としてまで叶えてはならない願いだ。


 お願い、やめて。

 リトを止めて。リトを助けて。

 お願いだから、リトを救って。


 いつの日か、なるかもしれなかった私が泣き叫ぶ。守るべきもの全てを失い、守りたかった全てをその手にかけた、過去から未来へ悲劇を持ち込んだ女が、喉を枯らして叫び続けている。




 皇子から溢れ出した闇は、リトの髪から作られた腕飾りに阻まれて私には触れられない。けれど諦めきれないのか、見えない壁に阻まれたまま這い、私の周囲を囲む。

 飽きたと奴は言った。次の契約者を得なければ奴は地上で活動する権限を失う。彼は、それまで生かされた命。

 いつかの未来に辿り着かないよう、リトは結果をずらそうとしている。だけど、それで貴方が消えては意味がないではないか。この戦い方は駄目だ。いつかの未来を避けようと彼が犠牲になれば、新たな悲劇を生む。そんな予感がする。


 先日ラトラツェント達を宮から叩き出した分が回復しきっていない所に結界を張り直したので、私の中の力はあまり残っていない。この力をどこに使うべきか。

 全部使い切るわけにはいかない。私の力は枯渇寸前で、ソウジュを通して力を使っている。ソウジュは私の命を通して肉体を保っているから、力が尽きればソウジュがこっちに戻ってきてしまう。鬼に命令出来るのは現段階では今代白王のみとなっている。海岸線がどうなっているか分からないが、いまソウジュを引き上げさせるのは得策ではない。


 唇を噛みしめ、思考を回す。今ばかりはマリアという私の後悔で出来上がった未練の残像も邪魔をしてこなかった。

 皇子は瞳から闇を垂れ流し、地面をのたうち回る。


「…………第五皇子」

「嫌だ……嫌だ、こんな所で終わりたくない! 嫌だ、見えない、見えない!」

「皇子」

「嫌だ、助けて! やだ、怖い、母様っ!」

「皇子!」


 肩でも掴んで止めたいが、濃度を増した闇には近づく事も出来ない。目だけではなく口からも闇を吐き出している。契約者は悪魔の弱点でもあるのだ。容易には触れさせないだろう。


「ザーバットへの帰国は諦めろ。それでいいなら、命は助けてやれるかもしれん」


 嫌だと言ってもやるが、一応言質を取る努力はしてみる。その方が後から揉めにくい。ラトラツェントの契約者は、契約解除後に必ず死んでいるという。ならばそこから覆す。

 声と言葉が届いたのか、恐慌状態に陥っていた皇子がひゅっと息を呑んだ。


「時間がない、どうする」


 皇子は闇を溢れさせている唇を噛みしめ逡巡し、小さく頷く。それと同時に首筋が総毛立つ。背後に向けて刀を振り抜いたのは無意識だった。

 視線を向けるより早く、私の勘が禍々しい何かへ刀を振り抜かせたのだ。視界の端に何かが引っかかると同時に、反射で片目を瞑っていた。

 片手では大した威力も出せないので、身体を捻ると同時に置いてけぼりになった手も合わせて両手で握ればようやく視線も追いつく。


 皇子と一緒に吹き飛ばされたラトラツェントの腕が、切り離されてなお動き、長い爪で刃を押さえている。目の下に感じた違和感は、どうやらこの爪に引っかかれたらしい。


「悪魔払いは門外漢ゆえ、手荒になるぞ!」

「っ、わ、分かった!」


 これは、武器が違ったなと失敗を悟った。渾身の力で刀を振り抜き腕を跳ね飛ばし、すぐに背中から弓を構える。動き回る腕が再び跳躍すると同時に、引き絞った弦を解放した。鳴り響く破邪の音に、腕が弾き返される。無意識に止めていた息を、細く長く吐き出す。


「皇子、お前、齢いくつだ?」


 まずはこれを何とかしないとどうにもならない。腕一本、首一つ。胴体から切り離されてなお動くとは、厄介にも程がある。

 弦を引いたまま皇子に問う。皇子は何が起こっているか見えないのだろう。声を震わせたまま、答えた。


「じゅ、うに」

「そうか。では御神酒ではなく神水から試し…………十二?」

「な、何だよっ!」


 ……十二の子どもの肋をバキバキ折ってしまった。子どもは成長が早いからきっとすぐに治るだろうそうだろうそうだよね安静にしてね。そりゃ、母様も呼びたくなるだろう。

 罪悪感と胸糞の悪さで吐きかけた息は、ラトラツェントの腕が僅かに動いた事で飲みこんだ。


「口を開けていろ!」


 弦を鳴らすと同時に解放された手を自分の懐に突っ込み、術で凍らせておいた神水を皇子の口に放り込む。


「神水……大陸では聖水だ! 飲みこめ!」


 弾かれた腕が再び飛びかかってくる。弦引きが間に合わず、舌打ちしてそのまま弓を振りかぶる。しなりを利用して打ち返した腕が再び襲いかかってくる前に弦を弾く。

 後ろからは皇子の声とは思えぬ絶叫と大火事を起こしたかのような闇が立ち上る。後ろ手に小瓶の蓋を開け、御神酒を振りまく。再び上がった絶叫と同時に、腕が形を変えた。一瞬で鱗が生え、指と爪が異様に伸びた腕に弓を弾かれる。刀も間に合わず、咄嗟に両手を顔の前に構えた。

 腕の一本で済めばいい。そう覚悟して突き出した右腕とラトラツェントの間に、風が舞い込んだ。




 血の臭いがする。鉄と泥と花と夜と光を混ぜ込んだ、世界を凝縮した匂いがする。

 私に向けられている背から、かろうじてついていた羽が捥げ落ちた。羽は地面に落ちる前に塵となり、再び色も形も違う羽が血を撒き散らしながら背から生え始める。

 リトは、ラトラツェントの腕を無言で握り潰していく。書き損じた紙でも握り潰しているかのように潰れていくラトラツェントの腕を白い炎が包む。一際激しく痙攣した腕がぼろぼろと崩れ、リトの掌の中から消える。そのリトの掌も酷く焼け爛れ、再生と破損を繰り返していた。


「……リト、ありがとう」


 リトは答えない。聞こえているかも定かではなく、視線も合う事はなかった。

 ゆらりと身体を引き摺り、結界の外へ出て行く。出た瞬間に腹を貫いてきたラトラツェントの尾を掴み、白い炎を纏わせる。ラトラツェントは顔を歪め、自らの尾を切り離した。

 リトの白い炎は悪魔に何より有効で、そして、彼の身をも焼く。焼け爛れながらもリトはどこかぼんやりした顔をしている。あれだけ喋っていたラトラツェントの声が聞こえないと思っていた。それは、最早リトに言葉が通じないからだ。

 ラトラツェントはただ笑っている。まるで芸術作品を眺めているかのように恍惚と。


「白王よ、自分の物を持つは人冥利に尽きるものよなぁ。お前の男は健気なことだ。これだけの悪魔を喰らってなお正気を保てていたのは奇跡というより他にない」


 首が捥げかけた悪魔が笑う。無機質な表情のまま、リトの腕が振りかぶられる。抉れた地面から上がった土埃で、二人の姿は見えなくなる。


「俺ならば、お前の男を救ってやれるぞ。お前が愛する白も、お前を愛する白の民も、その全てを。侵略したくなくば守ってやろう。俺の力は分かっているだろう。防衛に徹したところで消耗はせん。未来永劫、この白を存続させてやろう。お前が望むなら、お前という王も白に君臨し続ける事が出来る。その隣に、お前の男を据えてやろう。二度とザーバットに攻め入られる事なく、お前の統治下で白は存続する。悪い賭けではなかろう?」

「目の前で契約者を裏切った魔性がほざく」

「俺を楽しませ続ければいい。お前達にはそれが出来る。ならば、俺の力は永久にお前の物だ」


 未来永劫、永久に。悪魔はどうやらこの言葉が好きらしい。いや、好きなのは人間だろうか。

 限りある物に価値を見出すくせに、いつだって終焉を恐れている。

 いつかの私は、白の滅びに何を見たのだろう。この男の言葉に価値を見出したわけではないだろうが、その選択を愚かだと断じられるほどには、今の私は何も失っていない。


 胸を押さえ、荒い息と共に闇を吐いている皇子の額に掌を乗せる。リトの腕輪が闇を寄せ付けないでいてくれるから、私の手は何にも阻まれず彼の肌に触れた。

 まるで死人のように冷たい肌だ。けれどその中を流れる彼の血潮は、まだ確かに生きている。彼に飲ませた神水の気配を辿り、身体全域に私の力を巡らせていく。

 悪魔払いは初体験だが、ようは悪霊払い。悪霊憑きも、当人が望んでいないのに勝手に賃貸契約を結ばれていたようなもの。どっちも余所から無理やり契約解除させられたものだから、やり方は変わらない。契約書を破り、相手を叩き出す。



「いつかの私は、お前にすくわれたのかもしれない。だけど今の私にお前の手は要らないよ。私は人だ、ラトラツェント。人は、己が御せない力で悲劇を回避すべきではないんだ。それはただ、悲劇の時をずらすだけなのだから」


 残っている力のほとんどを皇子へと注ぎ込み、ラトラツェントの気配が色濃い心臓へ集中させる。私の力を絡め取り、逆流しようとしてくる力はリトの腕輪に阻まれ、私まで辿り着けなかった。

 何かが弾ける音がする。皇子から溢れ出す闇が突如勢いを噴き出し、消えた。





 陶器人形のように強張っていた皇子の身体が弛緩する。意識を失ったようだ。


「お前が生まれた場所に帰れ、ラトラツェント。人間に、お前の毒は強すぎる」


 ラトラツェントは口角を吊り上げて笑った。裂けた右頬から並ぶ歯を覗かせたその背後に巨大な穴が現れる。まさかここにザーバット兵を投入するつもりか。

 背筋が凍った私はすぐに、その方がどれだけよかったかと、穴の奥に広がる禍々しい空気に息を呑んだ。


 何かがこちらを見ていた。冷たい死が、地上を覗いている。死と、終わりと、絶望が息をしている。何だ、これは。これは、地獄ですらない。

 そんな風が流れ出る穴から、同じ臭いをさせた鎖が這い出る。あっという間に数を増やした鎖は、その全てがラトラツェントを絡め取った。その姿が見えなくなるほど、あっという間に鎖が巻き付いていく。


「ははははは! 此度の地上はつまらぬ時間であったが、最後によい時を過ごした! 白王、堕ちた司祭、貴様らには礼を言おう! 俺が再び地上へ舞い戻る日まで死ぬなよ! 次もまた俺と興じてみせろ、人間共!」


 全てが鎖に覆われた瞬間、ラトラツェントの身体は穴の中に引きずり込まれた。突如訪れた静寂に、あれだけの鎖が蠢いていたのにラトラツェントの声以外の音がしていなかったのだと今更気がつく。


 呼吸すら憚られる静寂の中、小さな足音が聞こえた。リトが、歩いている。ぼたぼたと赤い血を撒き散らしながら、一歩一歩、穴へと向かっていた。


「――リト」


 今にも千切れそうな腕には、黒刀が握られている。何の色も映していない瞳を穴へと向け、ラトラツェントを追おうとしているのだと、分かった。


「待って。リト、待って」


 力の入らない身体で立ち上がる。あれには近づきたくない。あれは、命が近づいていい場所ではない。あの穴には近づいてはならないと、本能と神子としての力全てが拒絶する。

 だけど、リトがあれへと向かっていくから。


 生きているのが不思議な傷を負っているリトより、走り出した私のほうが早かった。リトが穴へと辿り着く前に、穴とリトの間に滑り込む。背中側から死が這い出てくる。

 地獄より悍ましい、生が生まれなかった世界が、私の背中で口を開けているのだと思えば思うほど、正気が壊れそうだった。それでも、恐怖より優先したい痛みがあるのだ。

 リトは私を見てはいない。顔を前へ向け、視線も穴へと固定されている。私が前に立っても歩みは止まらず、引き摺るように進み続けた。両手を広げ、その身体を抱きしめる。棘が、鱗が、骨が、あちこちから突き出した身体は抱きづらい。

 それでも、冷たい胸に頬をつける。


「もういい。もういいの、リト」


 返事はない。動きも止まらない。血も、止まらない。


「ありがとう。貴方のおかげで私泣いていないのよ。それなのに、貴方が私を泣かせるの?」


 抱き返してなんて言わない。私のこれは恋ではないのかもしれない。けれど、貴方を留まらせたい気持ちは本当だから。

 伸ばした手でリトの頬に触れ、唇を重ねる。吐息ですら血の味がする人が、泣きたいほどに愛おしい。


「貴方、どこへいくの。私がここにいるのに、貴方、どこへいってしまうの」


 私でもマリアでもどちらでもいい。貴方を繋ぎ止められるなら、それが誰であれ、それでいいから。それでいいと、言っているのに。

 リトの腕が持ち上がり、私の背に触れる。ほんの少しでも力加減を間違えれば私など簡単に潰してしまえるし、僅かな動きでも私の肌は傷つく。

 それなのに、私を抱く手に力がこもっても、私には何の痛みもない。この人は、こんなになってまで私に与えようとしてくれるのか。



 背中から漂っていた悍ましい気配が消えていく。穴が閉じたのだ。少しだけ視線を上げ、空の穴が消滅しているのを確認する。

 残った神水を取り出し、掌上で水鏡とする。意識を集中させ、水面を二つに割った。


「ラトラツェントの撤退を確認。鬨の声を」

『了解。海は良好』

『了解。都は良好』


 奴らの要である悪魔が撤退したとザーバットが認識すれば、士気に大いに関わる。しかもこれから夜が来るのだ。夜は、鬼と黒羅の領分だ。

 泣いても笑っても、安堵しても後悔しても、この夜が分かれ道。白も私も貴方も、この夜が始まりと終わりを別つのだ。


「ソウジュ、ごめん。人形の術を維持出来るほど残せない。しばらくはそっちで魂固定して」

『……分かった。枯渇するまで使ってしまえばいいさ。というか、もうしてる。痛いぞそれ』

『自分達だけで分かる遣り取りをするのはいつものことだが、その都度俺に淋しい思いをさせていると是非とも覚えておいてくれ』


 ソウジュとヒサメと短い遣り取りを済ませ、水鏡を閉ざす。その掌を、リトが見ている事に気づく。零さないようそっと口元に寄せれば、リトは静かにその水を飲み干した。



「ねえ、リト。教えて。貴方が私に告げなかった未来の一部を、教えてほしい。……おかしいと思ったのよ。貴方は、滅亡後白の民は奴隷にされたと言っていた。それなのに、マリアは料理も洗濯も、雑用一つ出来なかった。……そんな奴隷、いるものか。だから、私に語らなかった何かがあるのだと思った」


 私を抱いていたリトの身体から力が抜けた。支えきれず、一緒に膝をつく。煌々と輝いていた赤い輪が鳴りを潜め、鱗や紋様が消えていく。赤い瞳に光が戻り、しばし彷徨った後、困ったように逸らされた。


「……俺が正気を取り戻せなければ、どうするつもりだったの」

「話を終わらせず手の届かない場所へ去るべからずとの法を敷いてやろうかと思った」


 溜息を吐いた人を睨み上げると、彼は観念して視線を私へと戻す。


「……俺が語った未来は、君が言う通り少しだけ違う。白は鬼と共闘することは終ぞなかったんだ。君は、俺と出会ったあの桜の下で、海賊共に拐かされてしまったから」


 何だか、随分久しぶりに彼の声を聞いた気がする。


「不思議には思わなかった? 何故神子の務めに従い向かった先であんな連中がいたのか。君は何に喚ばれたのか。決まっている。ザーバットに滅ぼされることが決定した白を、白の神々が許さなかったんだ。その怒りを果たすための刃が君だ。その為に、君は生かされ、白から出された。弟王だけとなった白は何が何でも弟王を守ろうと、最初に都が襲撃された際に黒羅を引かせる事が出来ず壊滅した。今回は君が生きているから、弟王は自分が死んでもいいと黒羅を引かせる事が出来たんだ。……『姉王を神々に奪われた』、弟王はそう言い残したそうだよ」


 そして、『弟王を運命に奪われた』のだ。

 それは二つで一つだった私達が完全に引き裂かれたことを指す。死でさえ別つ事が出来ないはずの私達の魂が、互いを見失ったのだ。


「鬼は、里まで流れ着いたザーバット兵から逃れた人々とそれを守り続けた兵士を殺し、ザーバット兵も殺し、それらの戦いで壊れた結界の外へと出た。白中で敵も味方もなく殺戮を繰り返し、壊滅したとあった」


 抱きしめ合ったままのリトの身体に私の力を注ぎ込む。そうでなければ、彼の命が尽きてしまう。悪魔を幾体も喰らった彼の魂は酷く傷つき、それらを保たせる為に命が消費されている。

 一気に全てを祓うのは難しいが、とにかく命を消費させなくても魂が保てるよう私の力で調整していくしかない。


「こんな無茶をしてほしいだなんて、私、言ってない」

「言われた事だけしかこなせない男は、君に相応しくないだろう?」


 枯渇して空っぽになった力を絞り出している所為で魂が軋む。でも、こんな痛みなんだというのだ。こんな痛みで躊躇出来る程、彼からもらった明日は安くない。


「大陸では男王が主流で、女王は珍しい。ザーバットは女王を侮り、それが君を生き存えさせ、地獄へと叩き込んだ。民を奴隷という名の質とされた女王の地獄は、想像するに難くない。それでも三年、君は生きたよ。女王の最期も火刑だったと記されている。――君達は最期まで、気高く美しい王であった。白の民が後追いの切望に堪え、君達の生き様を継ごうと決めるほどに。ラトラツェントに奪われなければ、君の魂は間違いなく楽園へ旅立っただろう」


 マリアとラトラツェントの契約は、死後に結ばれたものだったのか。

 けれどマリアには確かに肉体があった。失われた肉体を取り戻し、切り離された魂を入れ込む事が出来るのならば、悪魔が禁忌とされるのも頷ける。それはもう、神に等しい能力だ。


「……美しい、国だと思った。君が愛した君達の故国は美しい。…………返してあげたいと、思ったよ。君に白を、白に君を、君達を、帰してあげたいと。それは俺の願いだよ。だって、君を泣かせてでも叶えたいと思ったこれは、どうしようもなく俺だけの願いだ」

「……ここにいて」

「駄目だよ。俺は悪魔だから。悪魔に襲われた直後に、悪魔が黒羅にいるなんて知れ渡れば恐怖と不信感が蔓延する。王としての君達はただ英雄であればいい。何の陰りもない守護者として、白の民の上に君臨すべきだ。そうあるべく、君達は必死に頑張ってきたのだから」

「私達はもう鬼を使ってる。それに、魔性なら私が剥がせる。すぐには無理でも、できるよ」


 水が足りない頭が揺れるように、力を失いすぎた思考も揺れる。がんがんと痛む頭を無視して、身体を離す。まっすぐに、彼の瞳を見る為に。

 私を見下ろす赤い瞳には確かに熱が灯っているのに、瞳は逃げた。


「……君は、マリアに引っ張られているだけだよ」

「私が貴方を好きだと思うこの気持ちが、今の私によるものか、それともいつかの私によるものなのかは分からない」


 そんな事は百も承知だ。その上で、私は選んだのだ。


「だから、分かるまで、一緒にいようよ」


 リトの瞳が揺れる。揺らいで、震えて、そうして諦めてしまえ。

 だってここは白。かつて神羅と呼ばれた神と修羅が住まう国。この世に生まれたものならば、何だって一緒に暮らせる。だって豊穣と厄災の権化、自然と暮らしているのだ。あれより凄まじいものは、ちょっとない。


「そうして分かったら、その後も一緒にいようよ」

「君は俺にどうしてほしいんだ……」


 そんなの決まっている。弱り切った顔で眉を下げる人の頬を拭い、鱗を剥がし落とす。


「いつかの日、私と一緒に人として最期を迎えてほしい。……これが、貴方が望んでくれたシャラとしての願いだよ、リト」


 どうか、叶えて。



 貴方が愛したマリアと同じくらい綺麗に笑えていたらいいなと願いながら、私は弱り果てた顔をする優しい人から零れ落ちた透明の滴を拭った。











聖なる悪魔による、沙羅双樹回生










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― 新着の感想 ―
[良い点] ずっと楽しみにしていて、カナンの魔女と忘却少女は先に拝読させていただき、こちらの作品は新年最初に読ませていただきました!素敵なお話を2021初めに読めて嬉しいです。また新しい物語も楽しみに…
[良い点] 素晴らしい物語をありがとうございました。本当にありがとうございます。リトもシャラも大好きです。 伏線に気づかぬまま読んでいたので大変驚かされました。 [一言] ありがとうございます
[良い点] 最高でした…… 好き、凄く好き… 僅か15ページでこの壮大さと濃厚さ 泣く、泣いた、泣きました ありがとうございました!! 白に2人にあとソウジュとヒサメに 幸あれ………っっっ!!!!…
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