拾肆話 な
佩いた刀の柄を握り、もう片手には弓を握って目を閉じる。風が吹いた。前面から立ち上る風に煽られた髪が舞う中、ゆっくりと目蓋を開く。
いつもならば検非違使が番を務めている門の中に一人で立つ私の前に、二人の男が立っていた。
金髪の小柄な男は、どうやらまだ少年のようだ。そうはいってもソウジュと同じ年かどうかといったところだろうか。大陸の人間は白の者より年齢が上に見えて少し分かりづらい。
日の光のような明るい金色の髪が映える。ザーバットに多い髪色だ。けれどこれは、温もりと恵みを齎す幸いではない。日照りと同様の、死の宣告だ。
「なっ……貴様何故! 何だ、白王は化け物なのか!? 殺したはずだぞ!? お前、殺し損ねたのか!? 悪魔のくせに役立たずめ!」
恐怖さえ交えて酷く狼狽している少年が罵っている長身の男は、少年には一切視線を向けない。こちらは外見から判断出来る年齢は二十代そこそこだが、リトの話を聞けば何百才、何千才でもおかしくないとのことだから年齢の推測は無意味だろう。
黒髪、少し尖った耳、紫の瞳、薄ら開いた唇から覗く牙、黒く染まった爪。大体の身体的特徴がリトと似通っているが、こちらには角が生えている。こうなってくると鬼も悪魔も変わらないなと思う。
「ザーバット第五皇子とお見受けする」
びくりと少年が肩を震わせ、ラトラツェントの背に隠れた。
「誰の許しあってこの地へ足を踏み入れたのかご説明頂きたい。此度の件に限らず、十五年前の戦についても、この私、今代白王を納得させられる理由をお持ちか」
無言で上げられたラトラツェントの手が突如焼け付いた。門は開いている。だからといってこの宮が開かれているわけではない。ソウジュと一緒に結界を張り直した。その上、侵入を許したのは欠けていた時だ。あの時とは違い、今は二人揃っている。中身はちょっと出張中だが、心身揃った私とソウジュの身体がこの宮にあるのだ。私達が招かない限りそうそう破られるはずがない。
男達の肩越しに、空から溢れ出る黒鳥が喚いている。大量のザーバット兵を乗せた船がゆっくりと降っていく。
同時に轟音が鳴り響いた。空から膨れ上がった爆風で都の屋根瓦が弾け飛んでいく。
これは神官達ちょっと冷や汗ものかなと心の中で苦笑する。
都の四隅、神域としての意味合いが強い場所に集まった神官達の総攻撃は思っていたより威力を発揮した。乱発出来るものではないが、敵がどこからどういった形式で現れるか分かっていればそれなりに対処は可能だ。
二度同じ手を使われて、二度とも慌てふためくと思われているなら心外だ。ザーバットはどれだけ白を未開の地だと思っているのだろう。私達は残念ながら猿ではないし、未だ狩猟だけで生計を立てている全て神任せの部族ではないというのに。まあ彼らに対して開くつもりはないので未開もあながちまちがいではないが。
「なっ……嘘だろう!? おい、悪魔! なんとかしろ!」
全てを打ち落とす事は出来ないが、再び放たれた神官達の攻撃が巨大な船を打ち落とす。轟音と爆風が膨れ上がり、もうどっちが都を壊しているか分かったものではない。
だが、やれ祭りだ花火だ喧嘩だと騒ぐ白の民は、何でもお祭り騒ぎにしてあっという間に復興してしまう。そうして幾度も災いを乗り越えてきたのだ。今回だってきっとそうなると、確かな自信がある。この地が戦場である以上、命ではなく建物を守れだなんて馬鹿げた要求を掲げる阿呆は、白にはいない。
「悪魔ではなく、ラトラツェントと呼ぶべきではないか? 貴殿の悪魔であろう?」
ひゅっと呼吸を引き攣らせた第五皇子とは逆に、それまで黙っていたラトラツェントが声を上げて笑い出した。第五皇子が脅えたように距離を取る。いつから契約を結んでいるかは知らないが、どうやらこの二人、まともな関係を築けていないようだ。それは、重畳。戦争において相手の不仲ほど有り難いものはない。
「これはこれは……未開の蛮族だと聞いていたが、中々どうして面白いじゃないか」
やはり未開の蛮族だと思っていたらしい。ザーバットの認識などその程度だろう。そもそも自分達が持つ文明以外全て価値を許さず燃やすような国だ。
白が文明を築くことにザーバットの許可など必要ないというのに、本当に傲慢な国である。
ラトラツェントは長い爪を唇にあて、まじまじと私を見つめた。
「お前、今までどこにいた? 俺の目をかいくぐれる人間など聞いた事がないぞ。それも一度は虫の息にしたはずだ。人間は我々ほど治癒に長けた生き物ではなかったはずだがな」
心底不思議そうな問いには答えず、にこりと微笑む。今の世を見通すというラトラツェントの目も万能ではない。国の堺を超えられないのだ。
物理的に境界線を越え、その国の領域に入らなければならない。悪魔は地上での権限を契約者の人間から譲渡される存在だ。だからこそ、人の縛りに含まれる。人が定めた領域は、人より悪魔に有効だ。
「白王の秘め事を大陸の魔性に教える道理なし。お前が我の背の君ならば考えたのだがな。白には白の魔がある。魔性は間に合っておる故、疾く去ね、下郎が」
「ふはははは! 五の、これぞ! こうあれと俺は言っておるのだ! よいぞ、白王。長らく暇をしておったのだ。俺の興を満たせ! さすればお前を契約者に据えてやってもよいぞ!」
五の、と呼ばれた皇子が目を剥いた。
「口を慎め悪魔! ザーバットに歯向かうというなら容赦はっ」
顔を真っ赤にして怒鳴った皇子が口を閉ざす。ラトラツェントが長い指で彼の口元を握りしめ、吊り上げたからだ。
皇子の足が空を掻き、額に筋が浮かぶ。自分を吊り上げている腕に爪を立てているが、ラトラツェントは気にも留めない。
「つまらん事は言うなよ、契約者。お前の父親がどうしてもというから俺は契約してやったんだ。他に面白そうなものがあればそちらにゆくは悪魔の摂理であろう? なあ、いつ縊り殺されても構わぬよう、わざわざ五番目を俺に与えた父親の期待に応えようと必死な、哀れな契約者よ。五よ、お前の卑屈さも矮小でありながら甲高くさえずる誇りも面白くは思っておったが、段々飽きてきたぞ。ここいらで一つ面白い芸当を見せてくれねば、俺はお前から乗り換えてしまうやもしれん」
唄うように紡がれる言葉は、まるで呪いのようだった。いや、まさしく呪いなのだろう。それまで暴れていた皇子の動きが止まり、唇が噛みしめられる。
悪魔との契約は身の破滅とリトは言った。その通りだなと思う。特に目の前の二人を見れば特にそう思った。哀れには、思わない。深く息を吸い込み、全て吐き出す。持ち上げた弓を構えて天高く掲げる。
「どうした白王。人の子の武具ではそう簡単に俺は殺せぬが、だからといって矢をつがえぬのは諦めすぎであろう?」
神事用の弓を持ち出す時間はなく、これは叔父上の仕事部屋から借りてきた黒鋼の弓だ。
重く固い、私達の身体には合っていない大きな弓。だけど目的は当てる事ではないのだから、何も問題ない。
思いっきり引いた弦を打ち鳴らす。風と音が舞い散り、弾け飛んだ。
それまでどこかのんびりした声をしていたラトラツェントは、咄嗟に片腕で顔を庇った。その腕を焼かれたラトラツェントが弾かれたように振り向く。
しかし、リトの方が早かった。結界の外、ラトラツェントの背後から振り抜かれた黒刀は、皇子を掴み上げているラトラツェントの腕を切り落とす。リトはその勢いのまま皇子を蹴り飛ばし、結界の中に叩き込んだ。瞬時に長く伸びたラトラツェントの髪がそれを追ったが、結界に阻まれる。
大陸ではどうか知らないが、白において弦打とは破邪を指す。ここは白だ。白の概念に阻まれるラトラツェントを見れば、胸が空く思いがした。
吹き飛ばされた皇子はまだ戻ってこない。悪魔と契約者を分断させて戦うのは悪魔退治の基本だとリトは言った。
悪魔は契約者に混ぜ込んでいる己の弱点を貫かれれば死ぬので、常に肌身離さず連れている。だからこそ、二人一緒にしていればいつでも逃げられるのだ。確実に倒したければ、絶対に契約者と引き剥がさなければならなかった。そうしておけば、少なくとも撤退は出来ない。
ラトラツェントはここで殺す。リトは最初からそのつもりだった。
「貴様っ…………貴様は、何だ?」
腕を切り落とされた傷口を押さえ、憤怒の形相を浮かべたラトラツェントは、リトを見て妙な顔をした。驚愕と嫌悪をない交ぜにした、そんな顔だ。
「シャラ」
私に視線を向けないリトの横顔を見つめる。
「あまり、俺を見るな」
見るに堪えない。
そう静かに続いたリトの口には牙がぞろりと覗く。背が歪に動き、黒い羽が現れる。波打つ髪の隙間からは角が、首には鱗が、顔には狐面を彷彿とさせる赤い印が刻まれ、尾が地面を打つ。
しかし、何より大きな衝撃として現れた物は額の十字だった。酷い痛みを伴うのだろう。歯を食いしばったリトの額には内側から十字が滲み出てくる。それなのに金の十字はまるで焼き印のようにリトの肌を焼く。
食いしばった歯から漏れる息を縫うように、リトの瞳から伝い落ちる滴は赤い。赤い涙を、貴方も流すのかと、呆然とする。
「何だ、何だその姿は……見えない。お前が、分からない。…………化け物か?」
「悪魔に化け物呼ばわりされるとは、俺もつけが回ったな。お前に俺の痕跡が辿れるものか。俺はこの世界で唯一、お前の死後に生まれた悪魔だ。お前を喰らい、世界中の悪魔を喰らって回り、ここに辿り着いた……神の使途の成れの果てだよ」
ラトラツェントはもうとっくに笑ってはいなかった。薄ら笑いも全て引っ込め、どこからともなく現れた剣を抜く。
「これは、驚いたぞ。これ程までに歪んだ命が、白には存在するのか」
「馬鹿を言うな、白は関係ない。こんな穢らわしい魂など、白には相応しくない。さっさと地獄に堕ちるべきだ。だが、それも全て、お前を殺した後だ」
視界の端に金髪が映って、視線を向ける。随分と奥まで吹き飛ばされているようだ。板の破片を払いながら、皇子が駆け戻ってくる。あちらは既に剣を抜いていた。時間切れだと判断し、私も刀を抜く。
黒鋼で鍛え上げられた黒刀は、黒羅が使っている物より若干短く軽い。代わりに装飾が多い。振るう度に、しゃん、しゃんと、厳かで華やかに、静かな鈴の音が鳴り響く。
これは私達の刀だ。神事の時の剣舞用だが、切れ味は保証済みである。何せ黒刀。白の守り刀。切れ味抜群じゃなくてどうするというのだ。
弓を背に仕舞い、刀をしっかり構える。私が皇子を殺せば契約が切れたラトラツェントは白に存在出来なくなるのでそこで終わり。リトがラトラツェントを殺しても、それで終わり。
だけどリトは前者の方法ではなく後者を実行するつもりだ。いつかの未来でラトラツェントは契約者が死んだ故に終わりを迎えた。だから、同じ死を与えたくはないのだそうだ。あの未来に辿り着かないよう、出来るだけ同じ事象を避ける。
そうなると、私の役目は皇子の死ではなくリトがラトラツェントを殺すまでの時間稼ぎだ。
刀の扱いは基本だけで、剣舞を踊る為だけに覚えたようなものだ。皇子の対決相手には向いていない自覚はある。だけど結界の出入りを自由にしてあるリトに、他を巻き込む恐れがあると、どんな状態でも私だけは判別がつくと言われたのなら、頑張る以外ないではないか。
「リト、笑わないで聞いてほしいのだけど」
ぎょろりと赤い瞳が動く。それを横目で見ながら、笑う。だって、私をこれだけ掻き回したくせに、自分はマリアだけを未練に地獄へ堕ちるというのだ。そんなの、悔しいじゃない。
「私、貴方を愛しているみたいなの」
「……馬鹿な女」
苦々しく吐き捨てられた。なのにどうしてだろう。その顔は、どこか泣き出しそうに見えた。
「二度もこんな男を愛さなくてよかったのに」
マリアが、私のすぐ後ろで泣いた気がした。
女が慟哭している。
私の所為なんだ。
私が生きていたから、私があの日死ななかったから。
私の所為なんだ。
私を殺してくれ。
どうして私だけ生き残った。
神よ、あんまりだ。どうして私も一緒に殺してくれなかった。どうして死なせてくれないんだ。
せめて人として死なせてくれたなら、私は彼らに悲劇を持ち込まずに済んだのに。
「………………マリア?」
立ち尽くしたリトの眼前には、丁寧に並べられた子ども達の遺体と、絶命していないことが不思議なマリアが倒れている。鍬や鉈を持った町人達は、リトに気づきぱっと笑う。
「この女が子ども達を殺したんですよ、俺は見たんだ!」
「それにほら、見てください! この角に羽! どこからどう見ても悪魔ですよ!」
「人間の皮をかぶってやがったんだ! こいつは人を誑かす魔性だったんだ!」
「あたしゃ知ってたんですよ。こういう妙に整った顔をした女はろくでもないって」
「こいつは悪魔だったんです。こいつが来てから魔物共の動きも活発になったし、若い連中も仕事に身が入らなくなっちまって。俺が知っているだけで四人も結婚を申し込んだって話で」
「そうですよ。あの真面目な亭主でさえ、ちょっと話しただけで熱に浮かされたみたいな顔をするんですよ。こいつは人を誑かす恐ろしい悪魔だったんです。ああ、もっと早く気づいていれば、子ども達を殺させずに済んだのに……ああ、何てこと。可哀想に……」
言い募る町人達の間を、リトは呆然と進んでいく。歩く度に靴底が床に張り付き、酷く鈍い音がする。最早誰の物かも分からない血液に足跡を残しながら、リトは進む。
「ミケ、ターニャ、マット、パーシー、ヴィニー、ベラ、ティノ、アメリー、イサーク」
返事はない。それなのに、リトは微かに頷いている。よく見れば彼の周りを小さな光が飛んでいた。九つの光は、内緒話をするように彼に擦り寄り、ふわりと消える。
「マリア」
躊躇いもせず膝をついたリトの声に呼ばれたからかはたまた偶然か、マリアは薄く目を開けた。町人達は金切り声で悲鳴を上げ、手に手に武器を構えた。そこから滴り落ちる赤がまた一つ床に落ちていく。
「こ、ども、たち、を。祈っ、て。おね、が……リ、ト、あの子、たち、に、いの、り、を」
「……ええ、分かりました。祈ります。あの子達の魂が必ず神の御許へ辿り着けるように。ですから、大丈夫です。大丈夫ですよ、マリア。よく、頑張りましたね。守ってくれたのですね、あの子達の魂を。大丈夫、あの子達の魂は悪魔に食われず美しいまま保たれていますよ」
柔らかな声でマリアに寄り添うリトに、町人達は真っ青になる。
「司祭様! お気を確かに!」
「ああ、なんてこと! 司祭様までこの淫婦に取り憑かれちまった!」
「司祭様ほどの御方を取り込むだなんて、何て恐ろしい淫婦だ! ほら、だから言っただろ、こいつ見てたら妙な気分になるって! こいつが悪魔だからだったんだ! 俺は何も悪くなかっただろ!? だって皆言ってたんだよ!」
「あんたがうちの人を誑かしたんだね! うだつの上がらない駄目な亭主だけど、真面目な性格だけが取り柄だったのに、最近はこの女と話をするだけでぼぅっとするようになったんだ! わたしとはろくすっぽ会話もしやしないくせに!」
仔牛が死んだのも! 野菜が腐り落ちたのも! 爺さんが死んだのも! 家が燃えたのも! 子どもが怪我をしたのも! 家に盗人が入ったのも! 旅人が道を間違えたのも! 子どもが嘘を吐いたのも! 昔いじめられたのも! 大切な指輪を無くしたのも! 雨に降られたのも! 転んだのも!
この世に蔓延るありとあらゆる不運全て!
全部この女の所為だったんだ!
声を揃えた町人達の耳に、歪な音が聞こえた。何か、柔らかくも弾力のある物を咀嚼する音だ。人々は音の出所を探し、やがてリトの背へと辿り着いた。静かに動いていた背が、ごくりと何か飲みこんだ音と共に静止する。彼らには見えていない。リトの頭上で輝いていた金の輪が点滅し、じわりと赤黒い色が浸食していく様が。
「し、司祭様? どうされたのですか?」
そぉっと窺うようにかけられた声に、リトはゆっくりと立ち上がる。
「――神は全てをお許しになるでしょう」
穏やかな声を紡ぐその口元は真っ赤に染まっていた。
「ですが私は卑小な人間の身ゆえ、何一つとして許せないのです。ご安心ください。神は偉大なる御方。たとえ悪魔の祈りであっても受け入れてくださいますよ」
だからもう、私が人でなければならない理由は、どこにもないのです。
ほんの束の間の出来事だったはずだ。けれど、真っ白な衣装も肌も全てが赤に染まっていた。ぼたぼたと滴り落ちる赤を身に纏い、髪色は黒に染まりかけ、瞳も片方が赤く染まっていた。耳は尖り、口元からは牙が覗く。
リトは、子ども達と町人達の死体が転がる中でマリアを抱きしめていた。優しい人が、神の愛に包まれて幸福だけに囲まれて生きていくよう定められていた人が、微笑みながら堕ちていく。その頬を伝う滴でさえも、赤い。
「なに、が……見え、ない、目が……リト、何、が」
「何も、ありませんよ。マリア、ああ、私のマリア。話をしませんか。貴方が眠るまで、もう少しだけ私に付き合ってくださいな」
息も絶え絶えなマリアの言葉は、私にさえ聞こえない。それなのにリトは吐息にもなっていない血みどろの言葉を丁寧に拾っていく。読み書きが出来ない子に字を教えるように、眠りかけた幼子に絵本を読み聞かせるように、柔く静かな吐息で。
ごぼりと血が溢れ、マリアの息が詰まる。リトの唇が重なり、溢れる血を吸い出して呼吸を保たせた。そのまま血が飲みこまれる。じわりと、リトの髪が黒を増していく。
「貴方が好きです、マリア。私は貴方と一緒に生きたいと申し込んだ言葉を取り消すつもりはありません。貴方が誰であれ、私が貴方を愛している事実に変動はありません」
春の日差しのような言葉をかけながらマリアを抱きしめるリトの背は、震えていなかった。
「出会わなければよかったなんて思わない。貴方と過ごせた時間はとても短かったけれど、私の生涯で何よりも幸福な時間でした。私は、貴方を好きになった自分を誇りに思います。貴方と出会えて嬉しい。貴方を好きになれて嬉しい。六百年も待ってくれてありがとう。貴方が待っていてくれなければ、私は貴方を知らずに生きていくところでした。貴方という存在を知った私は本当に幸せな男です」
堪え性のない女は、思わず愛の言葉を告げたらしい。リトはただの少年のようにくしゃりと笑う。
「貴方に愛されて光栄です。……マリア、マリア、まだ眠らないで。どうか、貴方の名前を教えてください。私がつけた名ではなく、貴方が取り戻した本当の名を、私に呼ばせてほしい」
薄く開いた唇が、血の臭いを吐きながら短い言葉を告げた。リトは嬉しそうに微笑み、それを最後に命が途切れた瞳をそっと覆う。指で柔らかに閉ざした目蓋に口づけ、額を合わせる。
「必ずや君の眠りに安らぎを。もう二度と悪魔などに捕まってはいけませんよ。だから、もう二度と、私などを愛してはいけないよ……さようなら、シャラ」
お前の所為だと、マリアが私(自分)を呪う。
マリアの呪いを聞きながら、自分の声を余所から聞くと案外分からないものだななんてことを、停止した思考の片隅で思った。




