拾弐話 ■
リトに負ぶわれて冬を抜け、春を駆ける。
日付が変わった時間から走り始め、既に空は明るい今も走り続けている。あっという間に冬の地を抜け、春が訪れた地域をも走り抜ける。都まで全速力で駆け抜けるリトも鬼も、ほんの僅かな休憩だけを挟んだだけで走り続けた。それでも疲れた様子がないので、人外の体力が少々羨ましい。
食料も数日食べなくても平気だという。便利な身体だ。負ぶわれているだけなのに一人消耗していく自分が悲しい。
「ザーバットの本隊がいつ着くかは分かる?」
「本隊が上陸するのと俺達が都に到着するの、どっちが先か競い合うだろうな」
「嘘でしょう……」
これからその速度が通常となるのだろうか。防衛戦線を張ろうにも、兵の補充が追いつくわけがない。
「シャラが弾き飛ばしたラトラツェントや雑魚悪魔共も、恐らくそれくらいに戻ってくる」
「白王渾身の追い出し術を何と心得る……切ない」
「あれだけの上位悪魔が繋いだ道をたった二人で弾き返したんだ。相当のものだよ。生まれる国が違えば上級司祭にだってなれた」
「花きびのない国は遠慮します。それに、どうせ生まれる国が違うなら一般市民がいい。でも、そうか。全部同時期か……」
先行隊を先に潰せたら言うことはなかったが、私達の力では追い返すことで精一杯だ。万全の状態で手間暇かければ殺せたかもしれないが、それは言ったって仕様がない。
恐らく本隊の上陸は防げないだろう。侵攻をどこまで許すかで勝敗と白の存続が決まる。ひとまず先行隊を追い返したことで黒羅がどこまで立て直せるかにもかかっている。黒羅がいるといないとでは、民の安心感も一般兵士達の士気もかなり違う。
いっそ全兵力を都に集中させて、一気に先行部隊を潰すべきか。というか一緒に来たらもう先行部隊じゃない、ただの別働隊だ。
そもそも都にどれだけのザーバット兵が残っているのだろう。都の上に空いた穴から二度目があるとして、それは一度目と同じだけの兵力が来ると考えるべきだろうか。
少ないと願いたいが、一度目で失敗した奇襲を警戒して増やしてくる可能性もある。敵の指揮官の情報がないのは本当に痛い。
ザーバットに送り込んでいた密偵達は無事だろうか。殺されていたら遺族への補償は手厚くしなければ。私達が死んでも補償なんてどこからも出ない。払う先もない。そこはちょっとだけ笑える。
「ラトラツェントはたとえ隊長が率いる黒羅でも無理だ。俺にしか殺せない。そもそも、俺が行動を共にしている場所以外では全ての情報が奴に筒抜けだと思ったほうがいい。あいつはそういう能力を有した悪魔だと絶対に忘れるな。黒鳥共は気にしなくていい。あいつの魔力に惹かれて勝手に這い出てきただけだ。落ち着いてかかれば一般兵でも十分に対処できる。今回の戦争は、全てあいつにかかっている。あいつを殺せるかどうかで全ては決まるんだ。悪魔は一人で戦局を覆せる。だからこそ、あいつを殺せばこの戦いは絶対に勝てる。あいつが上位悪魔だといっても一度に開けられる穴は決まっている。だから次があっても投入されるザーバット兵の数は変わらない。ザーバットはあいつがいることで慢心した。あいつがそうさせた。それだけの力は確かにあるが、他の悪魔が召喚される前なら勝機は充分にある」
「詳しいじゃねぇか、混ざり物。てめぇもあちら側ってか?」
「シャラ、この戦いさえ乗り切ればザーバットは白へ兵を割くことは出来なくなる。だから鬼は使い切るつもりでいくんだ。鬼は本隊の船へ特攻させて船ごと海の藻屑にしよう」
「ああ? 無駄死にしたきゃてめぇがしろよ、気色悪りぃ魂しやがって。んなもんうろつかせてる方が白にとって害悪だろうが」
「何で隙あらば喧嘩するの? ねえ何で?」
頭の中を全力で回転させているのに、人を挟んで喧嘩しないでほしい。
「ザーバットが白へ兵を割けなくなるのは何で?」
「トユリフがザーバットを攻めるから」
「え!? あ、スオウ。つぎ南西。そこの王家直轄地に神水があるから」
「俺を犬扱いするんじゃねぇ!」
「犬じゃなくて馬だろう。だが脚力も皮も肉も頭脳も全てが役立つ馬と自分を比べるなどおこがましいにも程がある、害虫が」
「表皮から中身まで血の臭い漂わせてる化けもんが人のフリして何様のつもりだごらぁ!」
「何で隙なくても喧嘩するの? ねえ何で?」
それにしても、彼らの足の速さは驚異的だ。街も山も大差のない速度で駆け抜けていく。その速度に私を背負ったままついていくリトも相当だ。
この移動速度は捨てがたい。だからといって鬼の背に黒羅を乗せて駆け抜ける様を想像して、何ともいえない気持ちになった。実用的、素晴らしい言葉だ。だが最低限の見栄えが必要なのも確かだろう。何せ黒羅は白兵力の拠所だ。鬼に乗せるのは最終手段にしたほうがいいだろう。
「久々に暴れられるのには文句はねぇが、別に白の為に命賭ける理由もねぇわな。隙見てザーバットに寝返って、お前の首を噛み千切ってやろうか」
にたりと笑ったスオウにリトが何かを告げる前に私が口を開く。
「ザーバットは本を焼く。侵略した国の文化と文明を許さず全て焼き、全てザーバットの形で属国を作り直してきた。ザーバットを退けられなかった場合、二度と白の酒は飲めないぞ」
「ザーバット殺すべきだな」
話が早くて助かる。
天の戸へはリトだけを連れていった。鬼は麓で待っている。元より連れてくるつもりもなかったが、何より鬼達が来たがらなかったのだ。
休憩も兼ねて待機するよう言いつけて山を上がった。
天の戸は移動しないからすぐに見つかる。そうは言っても王族以外だと山自体が迷いの神域のようなものだが。
凍っていないと思ってはいたが、液体のままの神水を見てほっとした。桜が咲いて尚この水が凍っていれば、神が何らかの関与を拒絶したということだからだ。
「リト、悪いんだけど刀貸して」
水面を覗きながら手だけを向ける。けれど手に重量は乗らず、返答もない。振り返れば、恐ろしいまでに無表情のリトが立っていた。左手は筋が浮くほど刀を握りしめている。
「な、に?」
「……髪を一束切りたくて? 何はこっちの台詞だよ。どうしたの」
「ああ、うん。ちょっと考え事してた。髪切るの? どれくらい?」
「ん、この一束」
適当な束を耳元で切り落としてもらう。
「……マリアは自分で心臓を抉り出したから、大事な君に刃物を持たせるのは少し躊躇うね」
「自害の予定はないし、私達の刃は白の敵にしか向けられないよ」
髪の束で縛って人形を作っていく。頭、手足。これがあれば大体人形。
その鉄則だけ守り作った簡易人形を神水に浸してから息を吹きかける。艶のあるしなやかな髪がぐにゃりと動き、屈伸し、伸びをし、四肢を絞って水を切っていく。一通りやり尽くした後、ぱたりと倒れた。
「こら寝るなー!」
「僕いま休暇中!」
「休養中なら考えた結果却下だけど休暇中なら問答無用で却下だ!」
「うわしまった! やだー! 僕、満身創痍なんだよお姉ちゃん!」
「私は心が満身創痍だよ」
「うわ本当だ凄い笑える」
指を指して……指がないので腕ごとこっちを向けて大笑いしているソウジュを無言で見下ろす。傷をつけた手で人形を摘まみ上げ、神水に沈める。血が溶け込んだ神水は、暴れる人形が作った波紋をものともせず、望みの相手へと繋げてくれた。
『シャラ無事かっ――何も見えん!』
「お元気そうで何よりです叔父上。水面はソウジュがはしゃいじゃって」
『ソウジュがそこにいるのか!?』
仕置きにかける時間が勿体ないので、仕方なくソウジュを指先で摘まみ上げる。
「酷い目に遭った……あ、叔父上。お元気そうで何よりです」
摘まみ上げたソウジュを水切りも兼ねて揺らしていると、水面も落ち着いてきた。ヒサメはいつもはきちんと整えられている髪を乱し、全体的にくたびれている。けれど怪我はなさそうだと私達は胸を撫で下ろした。
鬼気迫る形相で水面に映っているヒサメは、一度何かを飲みこむようにぐっと堪え、すぐにぐわっと顎を開いた。あ、まずい。
『襲撃を受けた宮から黒羅を追い出す馬鹿がいるか! お前達後で説教だぞ!』
「えー!? 僕、瀕死の満身創痍なんですよ!?」
「それに関しては私一切関係なくないですか!?」
『連帯責任だ馬鹿者! しかも俺に連絡も無しにリトの髪を受け取ったな! 俺は傷心だ!」
「うわ本当だ! 鬼説得、向かって婿を、連れ帰る。笑える!」
「笑えない! へたくそ!」
「僕に歌の才があるわけないだろ。お前にないのに」
「私に歌の才があるわけないだろ。お前にないのに」
髪の件をどうして知っているんだと思ったが、リトは水面から映る範囲に立っているから、そりゃ髪が切られているのも見えるだろうなと気がつく。リトがいないとこの会話もラトラツェントに筒抜けになるから仕方ない。
「叔父上、時間がないので話を進めますが、現状兵の配置はどうなっていますか」
『黒羅はほぼ都にいる。住民は蜘蛛の子散らすように逃げていったからその点に関しては楽なものだ。何せ地震洪水津波台風、災害には事欠かない我が国だからな。自分の命を守る決断は皆お手の物だ。指示を出す前に一目散だった。しかし今回は流石に数が多すぎる。避難先の確保などには手が回っていないからまだ都周辺にいるのが現状だ。海岸線には戦の用意に向かわせた兵がかなりいる。都へ引き上げさせるか検討中だ。人海戦術で早期に終わらせようとしたのが仇となったやもしれん』
「いえ、その判断は正解です。明日夜にはザーバット本隊が到着します。都を襲撃した奴らも再び現れるでしょう。海岸線の準備が終わっているならそれに越したことはありません」
『だが、黒羅もなしにあの数では到底本隊など相手にできんぞ。そもそも兵器の設置に向かわせたんだ。戦闘に長けた面子じゃない』
「海岸線には鬼百五十余名とソウジュを向かわせます。その先の指揮はソウジュに任せます。残った兵力と、黒羅も三分の二は海岸線に向かわせてください。神官達は既に海へ向かった者以外は都の守備へ。彼らの足では到底開戦まで間に合わない。黒羅の人選はお任せします」
『……都は捨てるか?』
「最悪の場合は。田畑が焼けるわけではない。生きるだけなら都が燃えても何とかなる。ザーバット本体に山や田畑を焼かれるほうがまずい。十五年前、それで泣きを見た」
山を荒らされ、収穫前の田畑を潰され、川を埋められた。その結果、何ヶ月経っても餌を求めた獣達が人里まで下りてきて、人も獣も互いに酷い損害を出した。
「都に残った黒羅はザーバットに追わせないよう住民達が逃げた街道を塞いでください。都に現れる穴とそれを作り出した悪魔は私とリトとでなんとかします。ザーバットの要があの悪魔だというなら、あれを潰せばザーバットの士気は崩れます」
髪人形はしなりながら器用に肩を竦めた。
「僕はそれでいいよ。黒羅達が到着するまで防衛する。状況によっては黒羅到着前に攻勢へと転じるけど。僕達、本来は受け身に向いてないんだよなぁ」
『シャラ、お前とリトだけでないと駄目なのか』
「はい」
『……分かった。一つだけ聞く。それらの情報の出所はどこだ』
「リトです」
説明もほぼ省き、最低限の指示だけを出す。
本来ならばこんな所業たとえ王でも許されない。だが、今代は罷り通る。王の言を二王の片割れも容認しているのであれば、それは神の信認を得ているからだ。何より、王の決定は覆らないとの証明だった。
王の横暴を、ヒサメは静かに受け入れた。それは王となってからの時間で得た、彼からの信頼の証でもある。
私は少し、ほっとしていた。神子としての勘が揺らいだのではと思っていたから、ソウジュに乱れがなくて安堵した。ソウジュから制止が入っていない以上、私も歪んでいない。
「詳細を語る時間はありませんね。私はこれより都へ直帰しますので」
「海行きの僕の前で直帰宣言とは。許し難い暴挙だ。厳重に抗議する」
『館が燃えた俺は直帰が物理的に不可能でな……』
あちゃー。私とソウジュは顔を見合わせ、哀れみの視線を叔父へと向けた。
「詳細が本当にさっぱり分からないけど、僕が海行きなのは納得。身体無いから死なないし。いいよ、鬼を何とかうまく使うよ」
「頑張って。びっくりするくらい単純かもしれないから。多分酒さえ与えとけば何とかなる」
「それ逆に難しくない? ザーバットの船に酒あるといいけどなぁ。いっそ神酒湧かすか?」
水面が揺れ始めている。もう限界だ。そもそも昨晩使った力が回復しきっていない。ソウジュと繋がっていなければ空っぽになっていただろう。
私達は互いの正常な部位に引っ張られる。だからソウジュの身体は傷の無い私へと引っ張られ、かなりの力を使用した私は使い切っていないソウジュへと引っ張られる。互いが互いの予備であり本体なのでこういうときは便利だ。痛みが通じ合うのは非常に面倒だが。
『リト』
「はい、隊長」
それまで一切言葉を発さなかったリトが初めて喋った。ヒサメも初めて彼へ声をかけた。
『……俺は正直に言うとお前のことがよく分からん。悪いが得体がしれんと思っている。だが、お前が黒羅として相応しくないと思ったことは一度もない。黒羅の鑑とすら呼ばれたお前を、俺は信用する。結局どんなことも最後には信頼の有無で決まると思っている。俺は、お前に我らが王を任せた。最後まで全うしろ』
「はい」
『よし……ただ、髪切ったことについては後で話聞くからな? 黒羅の隊長としても叔父としても聞くからな? ……本当に嘘だろお前。え? いつから? そんな素振り欠片も』
水鏡が途切れた。妙な空気だけ残していかないでほしい。
身体全体を震わせて水気を飛ばしたソウジュがぽてぽて歩き、リトの靴にぽんっと手を乗せた。
「どうもこんにちは。シャラの嫁入り道具ソウジュです。奴の嫁入りはちょっと無理だけど」
「さっさと鬼と海行ってくれる?」
ちなみに私はソウジュの婿入り道具シャラである。奴の婿入りはちょっと無理だけど。
摘まみ上げたソウジュを目線の高さまで持ち上げて睨めば、髪人形は腕を動かし、私の指に触れた。ほんのちょっとしか離れていなかったのに、随分久しぶりに思える私の半身は、どうやら同じ事を感じているらしい。顔なんてないのに、私と同じ表情をしていると分かる。
「僕さ、シャラと離れて思い知った。泣かないでいるなんて、きっと無理だ」
「私もそう思うよ、ソウジュ」
だって。
声が重なる。
「忙しすぎて一人じゃ絶対無理!」
「過労死しそうで号泣回避不可!」
絶叫した私達は涙が滲むほど大笑いした。私の半身私の本体私の私。私達はきっと死ぬまでそうなのだろう。私の痛みをソウジュは分かっていて、何も言わなかった。




