拾壱話 ■
あまり揺らさないようにしてくれているのか、ほとんど振動がこない。私を運ぶ人に寄りかかり、瞳を閉じる。
冷たい身体。感じない鼓動。人であることを止めてしまった、人。
「弟王は、あれで助かるのか?」
「私が死なない限りは。最悪もう一度宮が占拠されても、奴らはソウジュに触れられない。ソウジュはあそこにいるけどあそこにいないから。私と繋がっている限り私の生に引き寄せられて死の淵から少しはマシになる。その奴ら自身も、数日は戻ってこられないはず。穴を強引に押し潰したから。開き直すならそれなりの力がいるはずだし。ザーバット兵はどうしようもないけど、それは黒羅達がどうにか出来る、はず……叔父上が、ご無事なら……何でザーバットはあんなにも容易く、黒羅を追い詰められるの……それにあれは何」
「あれは、大陸の魔性。悪魔という。ザーバットは悪魔と手を組んだ。悪魔との契約は禁忌だ。それを国を挙げて行っている。本気で世界征服に乗り出す気だ」
最初にいた洞窟に戻るのかと思いきや、リトは私を抱えたままひょいひょいと岩肌を昇っていく。水を飲む前に里を出ることになりそうだ。
一番上まで辿り着き、再び下りる。一足先に春が訪れた道を抜ければ、雪原が広がっていた。世界を白く塗りつぶす雪が密やかな月明かりでさえも弾き、夜が明るい。
一気に寒くなってそういえば今は冬だったと当たり前のことを思い出した。リトはいつから持っていたのかあの大きな上着を取り出し、私を包んだ。自分は入るつもりはないらしい。白い息を吐く私とは違い、リトは目に見える息は吐き出さず、その白い肌を赤く染めることもなかった。
「白にいる魔性とは違う。鬼は元は人で魔性の心を持った者。その他妖魔の類いも人ではないにしても地上で生まれた物だ。だけど悪魔は界が違う。あれらは魔界で生まれ、地上に滲み出てくる物だ。界を違える生き物だから、地上での権限はないに等しい。だから人間と契約する。それによって初めて地上で自らの力を発揮出来る。国一つを淫蕩に落としたり、病を流行らせたり、戦争を起こしたり、街を一晩で焼き滅ぼしたり、ろくなことをしない。虫や脳の小さな獣の類いは、元々然程力があるわけではなくあまり界を違える影響はないから、地上へ彷徨い出ても、その身の毒で作物を腐らせたり家畜を殺す程度だ」
鬼の里は過ごしやすい気候が年中保たれているが、この地では春は遠いのだ。都は満開の桜の時期なのに、今年はあまり愛でられなかった。きっと、今回のことで散ってしまっただろう。
「人間と契約すると言っても、人と悪魔は同等ではない。人は悪魔を御しきれない。そもそも悪魔は人を玩具程度にしか思っていないんだ。だから平気で壊す。身体も命も尊厳も、悪魔の力を得る代わりに全てを踏みにじられる。悪魔との契約が禁忌とされる理由はそこにある。退治は司祭かそれに相当する力を持った術者に限られ、徒人である契約者には為す術がない。悪魔の力を仕えるといっても、悪魔が主体となるんだ。契約者が反抗的であれば、ただ悪魔が地上で力を使う媒体として傀儡にされるだけだ。悪魔との契約は身の破滅だ。今はザーバットの第五皇子と契約しているはずだ。いただろ、あいつの横に金髪の奴が」
ちょっと気を抜けばうとうとしてしまう。酒が入ると眠くなる。だが翌日に響くこともなく、吐き気もないのでそこまで弱いわけではないのではというのが、私とソウジュの見解である。
思考を回しながら睡魔と戦っている私の前に水が現れた。リトの手の中でシャボンのように丸く宙に浮いている。
「水、どこにあったの?」
「雪を溶かしたんだよ。今の世なら、雨も雪も綺麗だから飲めるよ」
「綺麗じゃなくなる先の世を知っているような口ぶりだね」
器がないので仕方なくそのまま口に含む。雪を溶かしたという水は普段飲んでいる水より少し尖っているように感じた。けれど不思議と凍り付くような冷たさはない。温めてくれたのだろうか。
「中でも人型の悪魔はまずい。悪魔の中でも上位で、気紛れで残虐だ。人間の魂を穢し、もがき苦しむ様に快感を覚え、その魂を何よりの好物とする。弟王を刺したのも上位悪魔の一つだ。名前はラトラツェント。あいつが厄介なのは元々の上位悪魔の力に加え、現在起こっている全てを見通す眼を持つことだ」
「……ずるくない?」
「生まれ持った能力だから狡くはないけれど、こちらが不利ではある。だから黒羅はザーバット兵に押されてしまったんだ。奴は黒羅の本陣がどこにあるかも見えている。隊長と黒羅を宮から弾き出した弟王の判断は正しい。黒羅は単独でもそれなりの戦闘力を持つが、隊長が統率すれば段違いになる。でもいくら隊長が強いと言っても、少人数でラトラツェントを倒すのは無理だ。悪魔を殺すにはそれなりの段取りがいる。それぞれ弱点が違うんだ」
そこで一度言葉を切った彼の唇からは、やはり白い息が出ることはない。私はわざと大きく吐き出した自分の白い息を眺めた。
「はは……お伽噺みたい」
白い息だけが温かい。私を抱き上げたままのリトからは何の体温も伝わってこない。それは私が彼の上着でぐるぐる巻きにされているからだけの理由ではないのだろう。
「じゃあ、私達が鬼を連れて戻ろうとしているのも知られてると考えたほうがいいんだね」
「いや。俺達のことは知られていない。存在自体はさっきのやりとりで認識されたけど、奴は俺達の居所や目的まで把握できていないよ」
「――どうして?」
いま、自分でも驚くほど綺麗に笑えた。リトはそんな私に柔らかく微笑んだ。それは夢で見た司祭と同じ笑みだった。
「俺が、悪魔だから」
水を飲んだからか周囲が寒いからか、酔いが醒めてきたようだ。ちょっと火が恋しくなってきた。小さく震えた私に、リトは笑みの種類を変えた。にぃっと笑う、いつもの顔だ。
「怖い?」
「寒い! 曲がりなりにも王なもので! 甘やかされた身体にこの寒さはきつい……」
遠慮なく盛大に震え上がった私に笑い声を上げたリトは、すぐに火を起こしてくれた。瞬き一つで私達の周りに炎が浮かび上がる。温かいが、鬼火に囲まれている気分で少し複雑だ。
鬼の里で、鬼以外が作り出した鬼火に似た何かで暖を取っている今の状況を説明しろと言われても、私にもちょっとよく分からない。
「こんな怪しい魔性なんざ、即処刑するべきだぜ」
「そこはあまり重要視してない。黒羅と信じ合えなくなった白の王はお終いだから。黒羅を信じられずとも、黒羅に信じられずとも、どちらも終わり。それはもう王ではない。黒羅は王の刀であり盾。それを信じられないなら、王はその座を辞するべきだ。心を伴わぬ力は滅びしか生まない。だから、駄目。黒羅は抑止力となってその王を殺してくださいなー」
指の側面を合わせて作った駄目の合図、合わせる側面を変えて二度駄目駄目と繰り返して駄目押しする。たとえそれが最後の王でも、白を滅ぼす王であれば終止符を打つのは人であってほしい。
私達は黒羅を、その黒羅を統べるヒサメを信じている。ここを信じられなくなったら世界中の全てを信じていないと同義だ。そうなった私達は最早王と名乗る資格を失うだろう。
「あれ? でも待って。リトは人だったんじゃないの?」
「流石神国の神子。時の領域に簡単に踏み込めるから怖い。そうだよ、俺は悪魔を喰らった人間だから、後天的な悪魔だ」
「ねえ、リト」
「ん? もっと火いる?」
「あんまり多いと王の炙り焼きが出来るよ。そうじゃなくて、さ。機関車って、どういう乗り物なの?」
温かいなと、火に照らされる雪を見つめながら問う。私を抱く力に変化はない。温もりも彼の物は伝わってこない。
ただ、音を発する為に吸い込まれた空気が彼の胸を膨らませ、その振動だけが私へと届いた。
「今から六百年後にトユリフで発明される、石炭を燃やして走る鉄の車だよ」
思わず笑い出してしまった。馬鹿にしているのではない。あまりに遠すぎて少し呆れているが、どちらかというと愉快な気分だ。
そこまで途方もない時間だとは思っていなかったが、過去や未来から人が現れるという話は飛び上がって驚くほどのことではない。天の戸だって、恐らく道を踏み外せば様々な時間へと放り出される。そのまま中に閉じ込められるかもしれないし、運がよければどこかの時間に落ちることになるだろう。
「そんなに遠くから来たとは、流石に思わなかった」
「俺もこの時に立ち会うとは夢にも思わなかった。俺にとって、ここは神話の時代だよ。さて、シャラ。酔いは醒めたか? 洞窟で話そうとしてた俺の身の上話、今度こそ聞いてくれるか?」
「勿論。私は王だからね。民の陳情は聞かなければ。とりあえず、下りてからだけど」
服の合わせ目から掌だけ出し、ちょいちょいと地面を指さす。地面には雪が積もっていて座るのは勿論立ち話にも向かないが、抱き上げられているよりマシであろう。
今のこれは真面目な話をする体勢ではない。
だからすとんと下ろしてもらえると思ったのに、何を思ったかリトは私を抱いたまま足を動かし始めた。あっという間に雪をかき分けると、そこにすとんと座ってしまう。私を抱いたまま。
「座布団ないから俺で勘弁してくれ」
リトか座布団なしかなら断然座布団なしの地べたを選ぶ。だが譲る気が欠片もなさそうなリトと言い争う時間が勿体ない。ここで気力を消費してしまえば持たなくなる。
仕様がないので出来る限り体勢のことは意識の端に叩き出しておこう。そうでなければすぐに私の中のマリアが騒ぎ出す。
「シャラは、マリアのことどこまで知ってるんだ?」
「声だけ……貴方本当に『司祭様』なの?」
ふっと小さな息が漏れた。白い息を吐かない人なのに、不思議とその息には温度を感じた。
「お恥ずかしながら、神に仕える司祭として務めておりました」
柔らかく穏やかな声と笑みは夢で見たままで。けれどあの時彼を覆っていた光の輪は、今では赤黒く染まっている。
「けど、見ての通り今はもう違う。俺は俺の神を裏切った。神を裏切り、世を捨て、救いの輪から外れることを望んだ」
「……どうして?」
「神はマリアを救わなかった。子ども達を救わなかった。民草を救わなかった。そうして俺の生だけを保った。……俺にはもう、あれを救いと呼ぶ気力は残っていなかったよ。子ども達と、マリアを殺した人間達は弔った。彼らの魂は輪に戻れた。けれどマリアだけは違う。彼女の魂を、俺はすくい上げることが出来なかった。その原因を排除しようと調べていたら、ここに辿り着いたんだ」
能面のように凍り付いた顔に、笑みだけが張り付いている。煌々と輝く輪の色が一際濃くなったように見えた。
「……私には、マリアの声しか聞こえない。普通は残滓だけでも目を凝らせば姿を捉えることは出来るのに、声ははっきり聞こえているのにその姿を捉えられないの」
「それはそうだろうね。何せ今の世にマリアは存在しない。マリアが生まれるのはまだずっと先だから」
「それなのに、どうしてリトはここにいるの」
「マリアは悪魔と契約していた。その相手がラトラツェントだったんだ。マリアはラトラツェントを魔界へ追い返そうとしていた。元々マリアの絶望につけ込んだラトラツェントが無理やり結んだ契約で、契約者であるマリアが死ねばラトラツェントは地上に留まる権限を失う。けれどすんでの所でラトラツェントによって阻まれ、双方傷を負った状態で眠りについた。先に目覚めたマリアを、俺が拾ったんだ。マリアは、何も覚えていなかったよ。自分の出生も名も、何もかもが空っぽのまま、俺と出会った。……そして、追って目覚めたラトラツェントはマリアの中から飛び出し、子ども達を殺した。ラトラツェントはマリアの絶望に住み着いた悪魔だ。絶望があればまたマリアを御せると思ったんだろうが、その絶望はマリアから全ての記憶を蘇らせた。マリアは、躊躇なく己の心臓を抉ったよ。けれど死にきれなかった。長い間悪魔と契約していたことで人の身から外れ、死にきれなかったんだろう。そのマリアを、町人達は八つ裂きにしたんだ」
温もりのない息が吐かれる。
「……あの日は少し、帰るのが遅れてしまったんだ。やけに魔物達の動きが活発で…………私が教会へ帰った時、マリアはかろうじて生きている状態だった……生きていることが不思議で、ただ苦痛でしかない。そんな、状態だったのに、町人達はまだ武器を収めなかった」
落ちてくる赤い視線の中にいる私は何の感情も浮かべていなくて、まるで王のようだなと思った。そんな私を見下ろすこの人は、まるで愛しい者でも見ているかのように穏やかだ。
私の中にマリアを見つけた? それなら、よかったね。
そう確かに思ったのに、私はやっぱり笑えなかった。この人に見つめられて嬉しいとマリアが喜び、私の胸が引き攣れる。その上マリアは泣き叫ぶのだから、哀切が勝ってどうしようもない。
「彼らは、私の帰りが遅くなるとマリア達に伝えようとしてくれたのでしょう。そして、マリアから飛び出した悪魔が子ども達を殺す光景を見てしまった……マリアを八つ裂きにした人々は、私の為だと言うのです。私を騙した悪魔を退治したのだと、これで私は無事だと、晴れやかに笑うのです。最初から怪しいと思っていたのだと、私を誑かす悪女だと、教会を乗っ取るつもりだったのだと、私を殺し司祭の力を取り込もうとしていたのだと、マリアの身体を踏みにじりながら、笑うのです。そうして気がつけば、私は町人達を殺していた……私はあの日、人としての生も、神をも裏切った。司祭でありながら憎悪を受け入れた、情けない男ですよ。けれど後悔など微塵もない。だからこそきっと、最初から司祭など向いていなかったのでしょうね」
ああ、神よ。大陸の神よ。
マリアの声が頭の中で鳴り響く。
貴方の愛し子ですよ。
彼は、貴方の宝ではないのですか。神の愛はそのままに、どうして悪魔とさせたのですか。
お救いください。貴方が愛し、貴方を慕った愛子を、どうか幸の中にお返しください。お願いします、貴方を慕った敬虔なる子です。闇に堕とさないで。掬い上げて。貴方の手で、救い上げて。子ども達と同じ場所まで、どうか。
赤黒い輪は、元は光の成れの果てだ。神の愛をその身に宿したまま、この人は魔性と化した。
それは、泣き叫びたくもなるね、マリア。
魔を浄化する力を抱えたまま魔性と成り果てる。自分を愛した人を、自分が愛した人を、そんな歪な生き物へと堕とす原因となってしまった自分を殺したいね。
分かるよ。これは酷い悲劇だ。だからお願い。その痛みは私に生み出させて。私は私の痛みで以てこの悲劇を嘆きたい。それくらいは、私として関わってもいいだろう?
「俺はあいつがマリアと契約する前に殺さなければならない。その為にここにいる。ラトラツェントは歴史上で何度か姿を現しているけれど、出現時期と場所がはっきり明記されているのはこの戦争だけだ。後は曖昧な表記しかされていない。ただし、ラトラツェントと契約を交わした人間は、必ず契約解除後に殺されている……調べたよ。白の歴史を、文化を、その全てを。世界中を回り、焼かれた文献を探し求めて、探し続けた。ザーバットは本を焼くから、苦労した。特に白は長く封鎖されていた地だから、文献がほとんど残っていなかったんだ。各地に点在する歴史書を紐解いていくのは性に合っていたけど、中々大変だった。何せ三百年かかったからね」
「マリアは、貴方を救ってほしがってる。もういいって、ずっと泣いてるよ」
「うん。彼女には悪いと思ってる。優しい子だから、きっと悲しませてる。だけどもうこれは彼女の為なんかじゃなくて、俺の為なんだ。俺が、彼女を命の輪から引き摺り落としたラトラツェントを許せず、彼女を救わなかった神を許せず、彼女に罪を犯させた世界を許せないんだ」
憎悪を語るにはあまりに穏やかな声音だ。神に愛された奇跡の愛子でありながら魔性へと身を堕としたこの人の生き方を、他人は道を踏み外したと表するのだろうか。
マリアの為に愛子の生を捨て、人としての生を捨て、時さえ越えたこの人の言葉に、私の中の神子は反応していない。人を信じる根拠が神より賜った神子としての力だというのは、何とも情けない話だ。
だけど私はたとえ力が騒いだとしても、この人の言を信じたがっている。この人が他者へと向ける深愛に惹かれ、その願いを叶えてあげたいと。
これはマリアの願いではない。マリアはもう、リトに止めてほしいのだ。だけど私は、リトの願いを叶えてあげたいと思う。だからこれは、私の願いだ。愚かで馬鹿げた、思慕なのだろう。
彼を信じる根拠の一つは彼が黒羅であることが大きい。それは黒羅の在り方とヒサメを信じているからだ。黒羅は本当に、王に含むところがあればなれないのだ。王として相応しくない王であれば、その抑止力を持たないのでその限りではないが。
彼は黒羅で、その在り方と心に偽りはないはずだ。ラトラツェントを殺す為ならば、確かに黒羅に入ることが一番の近道だろう。黒羅は白の防衛力の要だからだ。だが、ラトラツェントを殺すことが目的であれば黒羅には入れない。それなのにリトは黒羅だ。リトには本心から白の王を守る理由があるということである。
「――白は、滅んだの?」
「――そうだよ」
答えを恐れたわけではない。ただどうしても言葉にすることを躊躇ってしまった私と同じ間を、彼も空けた。緩やかに穏やかに、まるで慈しむような笑みを浮かべる間を空けたのだ。
「歴史書では、白は今回のザーバットとの戦いに負けたとある。都の上空を割った悪魔の先行部隊に手間取っている間に、本隊が到着してしまうんだ。悪魔は風向きくらい簡単に調整する。だから予想より早く海を渡ってくる。鬼を連れた別働隊が奮戦するも、先行隊と本隊の挟み撃ちに合い、黒羅は壊滅した。白の王は民の命を生かすことを条件に火刑を受け入れた。敗戦後は黒鋼の技術者とその家族以外は奴隷として大陸へ連れていかれたが、技術者達は全員自害。その後も度重なる自然災害により、白は放棄され、長い間封鎖地とされた。その間にザーバットは滅び、トユリフが大陸の覇者となった。そこからしばらくしてようやく人の出入りが始まった。それまでは好事家達が資料を奪い合っている状態だった。学者達の出入りが許されてようやく、白の歴史の研究が本格化した。俺が神具を取ってこられたのは何も迷路攻略の才能があるわけじゃない。単に、知ってたんだ。廃墟となったここは地下迷宮の遺跡と呼ばれて、研究も盛んだったからな」
ひょいっと肩を竦めたリトの話が頭の中を通り過ぎていく。少し引っかかりを覚えたが、概ね真実だ。しかし、それら全てがうまく飲み込めない。
「ザーバットが、滅びた?」
白が滅びた。その事実は意外なほど静かに受け入れられたのに、ザーバットの滅亡は全く想像できなかった。大陸の二強であるザーバットが悪魔だなんて物騒な物と組んだ。これより覇権争いは泥沼化していくだろう予想が息をするより簡単に立てられただけに余計だ。
「マリアだよ。マリアは、白を滅ぼし、白の民を奴隷へと落としたザーバットを決して許さなかった。その憎悪と絶望にラトラツェントがつけ込んだんだ。……マリアは、半ば傀儡であり、けれどその強靱な意志でラトラツェントの矛先をザーバットへ向け続けた。そしてザーバットは滅び、白の民は奴隷ではなくただの亡国の民として大陸に散ることになったんだ。だからこそマリアは、ラトラツェントを魔界へ押し返そうとした。白の民が生きる大陸をこれ以上荒らさせるわけにはいかなかったから。結果は、知っての通りだよ」
さっきまでやけに大きく聞こえていた心の臓が、今度は静寂を紡ぐ。雪に音を奪われた周囲のように、しんっと静まりかえる。ああ、そうか。
「白は、好き?」
「勿論。マリアの愛した故郷だからね」
「それはよかった」
そういうことか。胸にすとんと落ちた答えに微笑む。
マリアを生まれさせる為の首が必要だったのだ。マリアはまだ存在していないとリトは言った。マリアの両親を生かす為の首が、白の王だったのだ。あわよくばザーバットを撃退し、白の民を奴隷にさせない為に。
そのどちらにも王が必要で、黒羅は守護の当事者だ。黒羅に入ることに願いの全てがあるとリトは言っていたではないか。マリアを幸せにする為に、私が……いや、私の命が必要だったんだね。
「ラトラツェントは己がいる国の範囲内であれば全てを把握することが出来る。けれど俺に関する事柄はその範疇にない。俺は、今の世で唯一奴の死後に生まれた悪魔だからだ。奴の弱点はその心臓。契約者の心臓に溶け込ませることが契約の形だ。だからマリアは、自分で心臓を抉り出したんだ。……マリアはちゃんとラトラツェントを殺した。彼女は責任を取ったんだ」
黒髪の間から覗く片側の耳で揺れる金の耳飾りをじっと見つめると、リトは困った顔をした。照れているのだと分かったのは、真っ白な肌にほんのり色が乗ったからだ。瞳や彼を覆う輪より淡く優しい、朱の色が。
「この耳飾り、マリアの瞳の色に似ていたんだ」
貴方に愛されるマリアが羨ましいと、そう思うことはきっと地獄への一歩なのだろう。
ふっと笑いが漏れる。マリアに引っ張られた恋でよかった。これが代理の恋でなければ、きっと痛みで死んでいた。
笑った私を見て目を細めたリトは、黒い刀を抜いた。私に当たらないようそのまま背後へと回した刃で、突然髪を切り落とす。横髪だけが長く残り、ざっくり残った黒髪が揺れた。目を丸くした私の手を取り、いま切り落としたばかりの髪を手首で一周させる。リトが何事かを呟けば、そこには美しい黒の腕輪が嵌まっていた。
「黒羅では大事な人に髪を贈るんだろ? だったら、俺の髪はシャラの物だ。これはきっと君を守るから、せめてこの戦いが終わるまでは身につけていてくれると嬉しい」
腕を回しながらまじまじと見つめる黒い腕輪は、まるで鉱石のようにつるつるとして光沢があるのに冷たくない。木のように温かく風のように軽い美しい黒は、貴方のマリアを生かす為のお守り。
この戦いが終われば、私は用なしかな。それとも、貴方のマリアを生かす為の防壁としての価値で在り続けるのだろうか。どちらにしろ惨めなことだと苦笑する。
「ありがとう、大事にする。――さて、と」
勢いをつけて立ち上がる。リト自身の温度は感じられなかったけれど、それでも引っ付いていればそれだけで温かかったのだと思い知るほど、雪山の夜風は冷たい。
だから丁度いい。鼻の奥が痛くて、鼻が赤くなって、すんっと啜ったって全部寒さのせいなのだ。
「いい情報聞けた。リトから貰った前情報を生かして、精々頑張りましょうかね。滅びの予言は覆してこそ輝くのだと、過去の偉人は言ったのだから」
「過去の偉人?」
「そう。先々代の白王の言だと、先代が教えてくれた。……両親の教えだよ。それを紡いでこそ、親孝行というものでしょう?」
一度も会うことが叶わなかった父上。そんな父上を、立派でお茶目で、とても優しい人だったと私達に教えてくれた人は、私達にとって誰より強く立派に生きた。あの母がそこまで惚れ込んだ人なのだと、言葉以上に母を通した尊敬で父を思えるほどに。
彼らに恥じない立派な王であろう。
だから、いいよ。貴方の王でいてあげる。元より、民の命も願いも祈りも王の宝。私が守るのが道理だ。その為なら、シャラが傷むなど些末ごとだ。
話し終わるのを待ってくれていたように雪が降り始める。月明かりを弾いてふわふわと下りてくる雪の軽さに、春の訪れを思う。もっと重い雪なら春はまだ遠いけれど、桜のような軽さを持った雪ならば、きっとこの地の春もすぐそこだ。
「あれ? 誰か来る?」
ふっと吐き出した白い息の向こうに人影が見えた。人の出入りがなく積もった雪の上を、半ば埋もれるように三人の男達が歩いてくる。
「何だ、気づいたから立ち上がったのかと思った」
「……道理で。刀仕舞わないなと思ってた」
笠をかぶった男達は肩を上下させながら足下を見て歩いていたが、一人が顔を上げこちらを見ると残りの二人も顔を上げた。何事かを話すと、雪を蹴散らしながら歩いてくる。見覚えのある顔だなと記憶を辿り、宿屋で絡んできた男達だと気づいた。顔と言うより雰囲気と三人組という形で覚えていたが。
「てっめぇ、役人がどうしてこんな所にいやがる! どこで俺達の情報を手に入れた。吐け!」
「お前達だな、鬼共に物資を与えていたのは。何と引き換えだ? 鬼共はあそここから出られないし、金もないだろうに……ああ、酒か?」
「ああ? ぶつぶつうっせぇな! 見られたからには仕方ねぇ! おいてめぇら、ばらして埋めろ! こちとりゃ気が立ってんだよ!」
「それは奇遇だ。私もそれなりに気が立っていてな。忙しいのにくだらない仕事増やすな、馬鹿共が」
がりがり頭を掻き、溜息を吐く。さて、どうしたものか。天の戸を使えない以上、余計な時間は取れない。今日の靴ではとてもではないが天の戸は使えないのだ。今世との縁が色濃くないと、王族ですら道が見えなくなる。
そのまま世の狭間を彷徨うのは御免だ。かといって鬼と密通していた奴らを見逃すわけにはいかない。真っ当な取引をしていたとしても問題なのに、盗品、それも殺して奪い取った物で遣り取りしていた連中を野放しには出来なかった。
里内に様々な品が充実していたことを考えるとこの三人だけで済む問題とも思えない。
「スオウ!」
目の前の男達がぎょっとした顔をした。更に、舌打ちしながら崖の上から降ってきた男に悲鳴を上げて尻餅をつく。
「んだよ、犬ころみてぇに呼びつけてんじゃねぇぞ」
「犬のような賢さと誠実さが自分にあると思ってるならお笑い種だ。自惚れるなよ、鬼」
リトが激しい。喧嘩を始めそうな二人の間を割って入り、三人を親指で指す。
「スオウ、こいつらはお前の取引相手か?」
「ああ、そうだよ。くそが」
「里内に放り込んでおけ。飯もあるし、人間に檻としての効力は発揮しないが地理的に人間では出られないから丁度いい。こいつらが寿命で死ぬ前には一段落ついてるだろ」
うっかり間に合わなくて死なせたら、まあそこはそれだ。こいつらの余生より白の方が大事である。
私とスオウが話している現状が理解できないのか、あんぐりと口を開けたままだった男達が、死という単語に反応してようやく動き始めた。
「頭領さんよ、何で都の役人の野郎なんかと……いや、それより一大事なんだ! 仲間が全部殺されたんだ!」
それは好都合……んん、可哀想に。ご愁傷様ざまあみろ。仕事が手間取らなくていいことだ悪党全員死んでくれないかな天罰ってこういう輩に使ってほしいけれど神々は己の怒りに触れるか領域を侵した奴らに使うんだよな何でだ絶対裁定権の無駄遣い過ぎるいやでも彼らの判断で沙汰を執り行われると大変まずいことになる神々による裁き禁止危険すぎる。
そこまで一息で考えてから、そういえばこの男仲間のこと全部って言ったな。流石悪党共。外道である。
「殺られただぁ? どいつにだよ」
「知らねぇよ! 全員すっぱり斬られてやがったんだ! あの王族直轄地の麓だ!」
スオウの目がこっちを向いた。髪が白いから雪に溶けそうだなと思うが、瞳の赤さでその存在を主張していて雪兎だなと思う。春になっても溶けない上に食ったら腹を壊しそうな可愛げのない雪兎だが。
「てめぇらなぁ……ここに来るだけで何人殺ってんだよ」
「王が所持する土地に徒党を組んで踏み込んだ挙げ句、こっちを囲って武器を抜いた阿呆共を殺しただけだ。外道の命などあってないようなものだろう」
「ああ? てめぇにゃ言ってねぇよ。人のこと言えるのか、気色悪ぃ混ざりもんが」
「腐った外道共が、そんなざまでまだ人のつもりとはお笑い種だな」
何でお前達喧嘩してるの? リトも大概鬼が嫌いである。
「いいからとっととそいつら里内に放り込め! そうしたらもう出るぞ。時間が勿体ない。ほら、動け!」
手を叩いて促せば、舌打ちしたスオウが指示を出す。男共の首根っこを掴み、鬼達が道の奥へとかけ出していった。豆粒ほどの大きさになった男達が鬼に運ばれ、高い崖を越えていく。蚤みたいだなぁなんて思いながら見送った。




