プロローグ 『魔を喰らう者の目覚め』
『世界に救世主なんてものはいない』
とある村の少年、グイナ・スレイヤーがそのことに気が付いたのは齢にして、たった六つの時であった。
ラーナリア王国の直轄地であったグイナの故郷はある日、忽然と現れた一匹のドラゴンによって全てを奪われた。
大陸各地で目撃される暴食の龍、《ゴラプス》。
一度降り立てば、肉体に纏わりついた黒炎が恵みの大地を枯らし、闇の黒の権化である硬質な鱗は聖剣を弾き返したという。
終焉という文字を体現した暴食龍は家屋を潰し、人々を蹂躙する。人々の断末魔が木霊し、それを暴食龍の咆哮が打ち消す。
まるで小さな虫が慌てる様子を楽しむかのように、そのドラゴンは獰猛に口元を歪めていた。
魔術師の家系であったグイナの両親も姉も村の住民も、誰も彼もが王国の救援を信じていた。
だからこそ、暗い洞窟の中、最後の瞬間まで生き続けようと、幼いグイナに向ける笑顔は絶やさなかったのを覚えている。
例え、隣人が目の前で暴食龍の四肢に踏み潰されても。例え、住民の断末魔が途絶えぬ夜が続いても。
だが、暴風龍という天災を前にして、たかが魔術を使える程度の人間が生き残る術など、あるはずもなかったのだ。
逃げ込んで、加護の術式を張った洞窟は、山の裾野ごと引きはがされた。
「逃げなさい! グイナ! フィオーナ!」
姉とグイナに叫ぶ両親の悲痛な声が響く。今も未だ。
王宮神官の両親の魔術を受けても、暴風龍は何の痛痒も受けた様子はなかった。
グイナには魔を喰らうという異能があった。
しかし、魔力許容量が小さいグイナの体はその異能を使用した瞬間に懐死してしまう。
だから、必死に逃げた。いや、暴風龍を目の前に動けなくなったグイナは姉に抱えられて逃げていた。
姉弟の上空に常に巨大な影が舞っていた。
いつ、留目を刺してやろうか、ざまざまと威容を見せつけ、獲物の恐怖を煽る。
どこまでも追いかけ続ける「死」
やがて姉の足は止まり、魔力を切らした顔は青ざめ、痩せこけていった。
無力な自分を責めなかった。衰弱していく姉をただ見ていた。暴風龍が木々をなぎ倒しながら降り立つ姿を呆然と眺めていた。
天災を目の前に立ち向かう愚者はいない。
その時、グイナの頭の中に、暴風龍への恨みはなかった。悔しいとは思えなかった。ただただ、運命を前にして諦念に暮れるだけ。
「あんた、だけ、でも……」
最後の一絞り、姉の願いの込めた力がグイナを崖から押し出した。
直後、姉の悲鳴が聞こえた。崖を転げ落ちたグイナに立ちあがる力はなかった。
暴風龍の羽搏く音が、耳鳴りのようにグイナの耳に付きまとう。
『ほぅ……随分と可哀そうな体をしておるな、そうか、あやつらの子息であったか?』
声が、聞えた気がする。
『あの龍が憎いか?』
「いや、どうしようも……ない……」
頭の中に響き渡る声は、静謐でありながら、凛としてグイナに問いかける。
グイナは朦朧と声に応じる。
『どうしようもない?』
「ああ……」
抗えぬ、絶対的な絶望を前にこの声は何を望むのだろうか。
『同郷が、友が、……家族が奪われたのだぞ?』
その言葉を引き金に、最愛の家族の最後の声が脳裏に響き渡った。何度も、何度も。
どうしようもないと諦めていたはずの憎悪が心の底から顔を出す。ねっとりと、少年の心に纏わりついて締め付ける。
一度自覚した苦しみは、際限なく心を埋め尽くし、全身を掻き毟りたいほどの執拗な憎悪を自覚してしまう。
『もし……』
『もし、彼奴に報いる力があるとすれば、そなたは何を差し出す?』
そんなもの、なにも。故郷も、家も、家族さえも全てを奪われた。
だが、グイナの口は思考するよりも前に動いていた。
「全てを……姉さんも、母さんも、父さんもいないけど、……僕の全て」
『ほう……面白い……』
もし、そんな力が存在するならば、己の身の全てを捧げてでも力が必要だった。
悩むような声は楽しそうだった。生の淵の狭間に立たされた少年を前に、一人だけ、快楽に染まっているようにも感じられた。
『よかろう、そなたの半分は貰っていく。これで、ようやく魔に触れられるわけだ』
『グイナ・スレイヤー、そして、これが契約の下に我が与えるそなたの新たな名だ』
声が体の中に染み渡る感覚と、暴食龍の呻きが轟き、木々が引き裂かれる音が聞こえたのは同時だった。
直後、グイナの体に力が宿り、力を自覚した瞬間、幼き、小さき少年は怒りに狂う。
暴食龍にではない。世界にだ。
王国には救世主と崇められる騎士が居たはずだ。王には、民を救うための手が打てたはずだ。力を持っていて、どうして、それを初めから使おうともしなかった? 誰も彼もが見捨てたのか?
その事実が分かるほどにグイナの思考の靄は晴れていた。
力がありながら、何故、弱き者を平然と見捨てられる?
何故? 何故? 何故?
誰も彼もが諦めて、救いの手を差し伸べないのであれば、地に堕ちた穢れた同族の血肉を啜ってでも、自分で自分を救うしかない。
怒りに噛みしめた口元からは血が流れ、生後初めて触れた魔力の感触に体が驚愕し、目元や、指先からの鮮血が少年の肌を伝っている。
血涙を流しながら、暴食龍の方角へと歩みを進める。
『Uaaaaaaaaaaaaaaaa! ニンゲン! ニンゲンンンンンンンンン!!』
全身が粟立つ、怖気の走る重厚な咆哮。
暴食龍が姿を現す。
グイナは、飛翔する暴食龍を見つけた瞬間を地を蹴って飛び上がった。
グイナの腕から現れた夜空の星々を秘めた闇の精霊。
まずは暴食龍の咆哮をグイナの口の中へ運んだ。
膨大な魔力が流れ込む。そして、グイナの体を通じて闇の精霊が肥大化する。
飛び上がった勢いそのままに、グイナは遂に暴食龍の左目に、喰らいついた。
バリバリバリ、と硬質な皮膚を眼球を喰いちぎる。
『キサマァアアアア……キサマァアアアアアアアアアアアア!!!』
身をよじる暴食龍にあっけなくグイナの体は風圧に揉まれ、引きはがされた。
地面に叩きつけられる衝撃は、思ったよりも強くなかった。
だけどもう、傷つき続けた体を魔力だけで動かすも限界だ。
『下がれ、ゴラプス。終ぞ、貴様を喰らった主人を傷つけられる思うなよ』
『キサマ……キサマ……ヨウセイ、フゼイガァァァアアア!!』
森を震撼させる怨嗟の声を前に、グイナに入り込んだ声は動じない。
暴食龍が吠えれば、淡々と闇の妖精が脅しに回る。
そんな二体のやり取りを聞きながら、遂にグイナの意識は手放された。
※※※※※
それから、十数年。少年から青年へと成長した男はラーナリア王国の王城にて、とある少女を背に国王に牙を向けていた。
あの日、あれから目が覚めて、生きるために何でも喰らった。
魔鉱石、神秘の木々、それから、何かの爪に引き裂かれたような得体のしれない肉塊を。
その故郷が何という名前だったかは覚えていない。
まして、姉以外の両親の名も、かつての家名も。
その全てを差し出した。
今は、ただ、ぼんやりと家族という存在があったことだけ。
「助けて」と救いを求める声があるのなら。自分に助けることのできる命運があるのなら。
「救おう」この力を以て。世界に救世主なんてものは決して存在しないのだから。
これは、そう――。かつて、魔導という奇蹟に触れる事すら赦されなかった小さな少年の物語。
これは、そう――。そんな少年に巻き込まれた、人の物語。
これは、そう――。とあるギルドが魔導の世界を搔き乱す物語である。