過去3
日差しは強く、社章が施された赤い原付に乗って手紙を運ぶ配達人も、気怠そうな顔で汗をハンカチで拭っているベンチに座る会社員も、毎日人目に晒され続けることに飽き飽きしたように見える鳩たちも、まるで互いの威厳を示し合っているように見える高層ビル群も、それら全てが分け隔てなく太陽のもとに晒されていた。
小宮山もその中の一人であった。
夏休みに入ってから数日が経過した。
彼は電車を乗り継ぎ、高校のある駅を通り過ぎてそのさらに先にある駅で降りた。そしてホームから階段を登り、切符を改札に入れ、出口を示す看板を認めるとその指示に従って南口の方向へとエスカレーターを下った。その一連の動作だけで彼のシャツはすでに少し湿ってしまっていた。
駅を出たところからすぐに見える大通りを道なりに歩いて十五分、そこに小宮山の目指す商業施設があった。
そこには映画館や本屋、スーパーなどの基本的な施設は勿論のこと、中には大きなトレーニングジムが入っていた。ここは小宮山が通う慶立学園と提携していて、慶立の生徒はかなりの割引価格で器具を利用することができた。なので彼もそう近くはないところからわざわざこのジムまで通って身体を鍛えていた。
夏休みになったことだし、これからはよりしっかりと練習に励まないとな、と小宮山は気合いを入れトレーニングに臨んだ。
トレーニング後のシャワーを終えて練習着から元の服装へと着替える途中、身体の節々が軋むのを感じた。全盛期の時は今回の倍以上の鍛錬に励んでもこうなることはなかったのにすっかり鈍ってしまったなと小宮山は少し落ち込んだ。
「あ、そうだ」
着替えが終わって一息ついていると、忘れていたことを唐突に閃いたのか思わず独り言を呟いた。
中学時代と比べてあまり運動しなく代わりに小宮山の生活に変化が訪れた。
以前は部活動の後はまっすぐに帰宅し風呂と食事を済ませる。そして日付が変わるまで机に向かって勉強をして、その後は朝練に備えて就寝した。ただそれだけを淡々と、事務作業的に繰り返すだけであった。彼は時々、まるで自分が刑務所の模範囚にでもなったような気がした。義務的に、何の感情もなく、その日その場所でやるべきことをした。責任感のみが彼の拠り所であった。
しかし演劇部に入ってからはそれが一変した。
練習はかつての野球部に負けず劣らず厳しいものであったが、顧問の方針からか、週に二日か三日活動がない日があった。
小宮山はその時間を自分のしたいことに使うようになった。
初めのうちは何をしたら良いのか皆目見当つかなかったが、顧問に誘われ、絵美の隣に立つ主役となるべく演劇をするようになってからは空いた隙間は演技を勉強するための時間として充てることにしていた。
内容はその時によって様々だ。映画であったり、演劇の原作となった古典であったり、少しでも興味をそそられたものはなるべく手にするようにした。小宮山にとって知識以外の物語が自分に入ってくるのは小学生以来のことであった。それは彼を時には手に汗握らせ、時には胸を高鳴らせたりした。
日が経つにつれその感覚は強烈に、そして鮮烈になっていった。寝る間を惜しんで鑑賞するようにもなった。睡眠時間は以前よりも減ってしまっていたが、不思議と身体は重くなかった。むしろ早く次の作品に触れたいという欲で身体が疼いた。顧問や友人にお薦めを聞いたりもした。今度、機会があれば絵美にも聞いてみようと彼は思った。
小宮山は帰り道に本屋に立ち寄った。商業施設内の本屋は彼の家の周りにあるどの本屋よりも大きく品揃えが良いからだ。なのでトレーニングの用事がない時であってもここに来ることがしばしばあった。
古典を多く取り揃える出版社の一角で足を止めた。『レ・ミゼラブル』『オイディプス王』『リア王』など著名な書籍が目に留まった。今度はこの辺りを読んでみるかと小宮山が考えた時、彼のすぐ隣からすっと手が伸ばされ本を抜き取っていった。
唐突な気配の出現に驚いた小宮山は空を薙ぐかのような勢いでその方へと顔を向けた。
——それは絵美だった。
「なに」
彼が唖然として言葉を紡げずにいると、学校にいる時と何一つ変わらない様子で絵美は呟いた。彼女は制服姿であった。学校の図書館で本を選んでいた彼女をそのまま持ってきたと言われてもうっかり信じてしまいそうなほどだった。
「なんだ、前野さんか。びっくりしたよ」
「そう」
代わり映えのない抑揚が希薄な声、そっけない答え。休日に聞くとなんとも言えない不思議な気分になった。小宮山は思わずはにかんだ。
「前野さんも何か本を買いに来たの?」
「ええ」
「何を?」
「これ」
絵美はそう言って手に持っていた本の表紙を彼に見せた。
「なるほど、とりかへばや物語だね。早速地区大会の予習って感じかな?」
「そう」
絵美は周囲から才能だけの人物だと思われている節があった。事実、小宮山も彼女と出会ったばかりの頃はそのように考えていた。しかし共に練習をするにつれて、彼女の演技力は確実な知識の裏付けによるものだということがわかった。
「前野さんはいつも努力をしていてすごいね」
「そうでもない」
「ないことないよ」
躊躇いなく絵美の瞳を見据えて言った。彼女はそっぽを向いてしまった。それは少しだけ照れくさそうに見えた。ちらりと覗いた小ぶりな耳が赤くなっているのが見えた。
「ところで、よかったら何か僕にお薦めの本を教えてくれないかな」
小宮山は折角訪れた機会を逃さないよう絵美に尋ねた。
彼女はしばらく黙ったまま俯いていたが、やがてゆっくりと顔を上げ一冊の本を棚から抜き取って小宮山に差し出した。
「これ」
「これは……椿姫? 題名は聞き覚えがあるな……確かフランスの古典だったかな? どういう話なの?」
「ある青年とクルチザンヌの物語」
「クルチザンヌ? それは何?」
「高級娼婦」
その瞬間、小宮山はうまく身動きを取ることができなくなってしまった。
娼婦。
絵美の口からそのような言葉が発されるなど微塵も想像していなかった。その響きはどこまでも清廉でありながら仄かに淫蕩さを孕んでいた。
小宮山は絵美をじっと見る。しかし彼女に変わった部分は何一つ見受けられなかった。どこまでもいつも通りの彼女であった。
「なに」
彼の視線に気が付いた絵美は問うた。
「い、いや何でもないよ」
「そう」
「あはは……」
小宮山は自身の内の揺らぎを誤魔化すため笑う他なかった。
「それで」
絵美は先を促した。
「うん、そうだね。せっかく前野さんが薦めてくれたんだし買ってみようかな」
「感想」
「え?」
再び「そう」という返答を想像していた小宮山は、その予想外の言葉を瞬時に処理することができなかった。まるで拾われた子猫が主人に与えられた餌を目の当たりにして今までの食事との乖離に驚愕するように。
「感想、聞かせて」
絵美はそんな小宮山のことなど露ほども気にせず今度は小宮山にも伝わるよう、一音ずつ丁寧に、優しく撫でるように発音した。
「か、感想ね。うん、読んだらすぐに伝えるよ」
「そう」
興味なさげに、髪の毛先を弄びながら答えた。
そしてもう全ての用事は済んでしまったというように小宮山に背を向け立ち去った。彼はそれをしばらく黙って眺めていたが、やがてはっと気付いて慌てて彼女を呼びとめた。
「前野さん、待って!」
「なに」
「本を薦めてくれてありがとう」
「そう」
振り返った絵美はそれだけ言ってまた踵を返した。その背筋は真っ直ぐで誰も寄せ付けないように見えた。
そして数歩だけ歩くとまた彼の方へ向き直った。まるで何か伝えるべきことを思い出したかのように。
「小宮山くん」
「えっ」
「また」
次に小宮山が絵美の姿を捉えた時、その背中はもう既にだいぶ遠く離れてしまっていた。けれど彼女の細く滑らかな長い髪がいつもよりも少しだけ勢いよく揺れているように見えた気がした。




