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過去2

 絵美は確かに演劇の才能があった。

 しかし個人の才能が必ずしも演劇としての質へと昇華されるとは限らない。なぜならば、演劇は演出・音響・脚本・主演・脇役など様々な役割からなる総合芸術であるからである。


 例えば交響曲。


 たとえ一人傑出したヴァイオリン奏者がいたといても、周りの質が低い、あるいはその奏者たちの調和がとれていなければ、その結果に出力されるものが音楽として程度の低いものとなってしまう。

 慶立演劇部は明らかにこれに当てはまっていた。


 夏休み中のこと。一年生は一通り基礎の練習が終わったので演習として短い劇に取り組んでいた。演目は現代作家の短編を顧問が演劇用に書き換えたものだ。

 通常、外国の古典が定番となるのだが、舞台背景に馴染みがない生徒が多いため、特に初心者にはうまく役に入り込めない可能性がある。

 なので彼らにとって馴染みの深い舞台である現代の物語によって、まずは役を演じることに慣れてもらおうというのが狙いだ。完成のクオリティが高いほどより多くの達成感を生み、次へのモチベーションにも繋げやすい。


「どうしてなの」


 抑揚のない声で彼女は言った。


 確かに声に強弱はなかったが、それはまるで隠しきれない苛立ちをなんとか自身の内に押し込めているように見えた。少なくとも彼女の周りの者には。

 事実として本人は苛立っていなかったが、どうしてもそのように見えてしまうらしい。


 絵美が言葉を向けた対象は小宮山であった。しかし彼は発言の意図を飲み込めていないらしく、ただ立ちすくんでいた。

 辺りの一年生たちも同様に戸惑いを隠せなかった。この場において事態を把握しているのは絵美ただ一人であった。


 顧問はこのまま放っておいても仕方がないので助け船を出してやることにした。

「前野、お前も知っていると思うが小宮山はまだ素人だ。そう目くじらを立てんでやってくれ」

「知っています。それに私は怒っていません」

「ならもうしばらく辛抱してくれ。幸い彼は筋が良い」

「そういうことではありません」


 絵美には長いセンテンスの発言を避ける傾向があった。そのために発言の意図を汲み取ることに困難を要することがしばしばあった。

 考えてもわからないので潔く尋ねることにした。


「ならなんだね?」

「……」


 絵美は口を開かなかった。周囲は怪訝な目を彼女に向けたが、顧問にはそれが彼女なりの小宮山への配慮であることを察した。

 おそらく絵美が疑問に感じていることと顧問が問題視していることは同じであろう。彼は長い指導経験から演劇指導に関しては慧眼を備えている。そして絵美には小宮山を理解できないこともわかっていた。


 彼女は『持つ者』であるが故に『持たざる者』を理解できない。優れた数学者が見ている世界を一般人が共有できないように。


「なるほど、そのことについては私も考えている。いずれ良い方向へと向かうはずだからもう少し辛抱してくれ」

 絵美は頷いた。

 そして練習が再開された。


 前野絵美。顧問が彼女を一目した時から直感した演劇の才能には間違いがなかった。しかし彼女はあまりにも『女優』でありすぎた。

 何かを演じる、という行為にはある種の自己矛盾と自己否定を孕んでいる。普段の自分らしい自分を捨てる、あるいは変化させて、時として自身とは全く異なった人間の殻を被らなければならない。それは見方によっては「本当のあなたは必要がない」と言われているようなものだ。


 演じる側もそれを受け入れ、まるでグラスへ紅茶にビールに牛乳と様々なものを注ぐように、その場その場によって自分ではない誰かの仮面を絶えずつけ代え続ける。

 演じるは私、けれどそれは私ではないという矛盾を常に抱えなければならない。同時に、演技する対象、つまり別の『私』に移り変わるには舞台の外側にいる普段の私を劇にふさわしくないものとして否定せねばならない。


 演者がそれを意識しているにしろ、していないにしろその負担は多大なものとなる。演じる者は、何か他の者の皮を被り続けている限り常に自己を喪失し続ける。その皮のリアリティの度合いに比例して虚構が現実を侵食していく。

 それは演技をやめない限り演者を苛み続ける。そうであるが故に役者として生き残るにはかなりの困難が伴うのである。


 だが才能ある者にはこれが当てはまらない例もある。

 絵美もその一人であった。


 まるでピアノの鍵盤が様々な音色を奏でるかのように他者に成り替わることができる。無数に配列されている『現在の自分』という鍵からすぐ隣にある『誰か』という音を鳴らす。音は鳴り止まず、やがてメロディの形をとった。

 その集まりが前野絵美であった。ある意味において、彼女は一つの曲であった。

 それが彼女の才能の源泉であり美しさだった。


 しかし力の獲得には得てして代償が伴うものだ。


 自分自身と演じられる人物との境界が希薄なのである。だから虚構としての自分が本来の自己を削り取ることはない。結局のところ『普段の自分』という殻は両横にいくつも並べられた『誰か』の中の一つに過ぎないのだから。

 常人は演じる限り自己を失い続ける。

 一方で、彼女は最初から損なわれるはずのものを持っていなかった。

 だから持たざる者には共感できないし理解もできない。


「前野さん、ちょっといいかな?」

 小宮山は練習が終わるとすぐに、荷物をまとめてさっさと帰ろうとしている絵美を呼び止めた。

「なに」

 絵美は感情のこもらない平坦な声で短く答えた。

「今日の練習のことについてなんだけど……」

「いま」


 いま。どういうことだろう。


 まるで声を奪われた人魚姫が一言だけ搾り出したかのようなとても短縮されたセンテンスだった。

 ほんの数刻小宮山は悩んだが、やがてそれの意味するところが「今でなければ駄目なのか?」という問い返しであることに気がついた。


「うん、できれば」

 小宮山は困ったように笑いながら絵美の問いに答えた。

「なに」

「今日は、いや今日もか。迷惑をかけちゃってごめん。僕は前野さんのペアなのに不甲斐なくて」

「でもあなた素人なんでしょう」

 取りつく島もないかと思ったが、どうやら話をしてくれる気になったらしい。

 相変わらず声に強弱は乏しく、顔もややうんざりしたように見えるが、今回を逃してしまったら次にいつ機会が巡ってくるのかわからない。なのでこの部分に関してはあえて気にしないことにした。

「そうだけど……でも前野さんちょっと怒ってたように見えたから」

「怒ってない」

「そうかな。でも僕が足を引っ張っているのは事実だから……」

「これでいい。先生が決めたことだし」

「つまりもう少し待ってくれると?」


 絵美はこれ以上言うべきことはないと主張するかのように身体の向きを小宮山から逸らし、部室から去った。

 彼は、これは肯定の意であると好意的に解釈した。

 彼女の期待を裏切らないように、小宮山はこれからより一層がんばろうと気持ちを引き締めた。


読んでいただきありがとうございます!




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