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過去1

 小宮山和樹は主役ではなかった。


 中学校時代は野球部でレギュラーだったが、それも怪我をして引退してしまった。この出来事をきっかけとして、それまで燃えていた心の燃料がふっと尽きてしまったような気がしたからだ。

 勉強していても、友人と遊んでいても身に入らない。何をしていても心はどこか空虚で伽藍堂だった。


 附属の慶立学園高等部に進学した後も、抜け殻のようにふらふらとした毎日を送っていた。

 野球ができないのならどこだって同じだ。ならいっそのこと他の部活に入ってしまおうと思い、偶然友人から誘われた演劇部に入った。とはいえ、当然これといってやりたいことなどなく、先輩に言われるままに課題をこなしてただ時が過ぎるのを待った。


 言われた通りにしていれば何も考えずに済む。


 そういった点においては演劇部に入って正解だったな、と彼は思った。しかし毎日を食いつぶすように日々を送るには小宮山は愚直すぎた。


 何かしなければいけないとわかっているのに何もしたくない。


 そうした自己矛盾が刻々と彼の心を蝕んでいった。

 けれどそれを周りに悟らせるようなことはしなかった。自分のわがままに周囲を巻き込むことだけは避けたいという小宮山の想いからであった。

 彼の心も限界まであと僅かというところまで差し掛かった頃、転機が訪れた。


「前野の隣で舞台に立って欲しい」


 昼休みの職員室、窓際の席に座る演劇部顧問からそのように言われた。

 彼からこの申し出を聞いたとき、小宮山はあまりの驚きに何も言葉を発することができなかった。


 ——どうして自分が。


 まずこのような疑問が頭をよぎった。どうして僕なのだろうか。演劇部入ってから三ヶ月経った今まで一度も自発的に行動することなく指示通りに体力作りや発声練習などをしていただけだ。自分より舞台に立つべき人間はいくらでもいる。

 何よりも、『あの前野絵美の隣で演技をする』ということにとてつもない違和感を覚えざるを得なかった。

 七月中旬の日差しはもう鬱陶しいほどに小宮山を照りつけていた。それは彼の背中をうっすらと滲ませた。けれど伝った汗は太陽によるものだけではないだろう。


「前野さんと僕が舞台に……」

「そうだ」

「僕にはどういうことなのかわからないのですが」

 小宮山は顧問に自分の正直な感想を伝えた。

「そうだよな。いきなりこんなこと言っても戸惑うよな」

 顧問は頭を掻きながら「すまんすまん」豪快に笑いながら謝った。そして、じゃあ順を追って話すからな、と前置きして事の詳細を話し始めた。


「演劇部では年に四回大きな公演があるんだ。具体的にはお前も見た新入生歓迎の劇。そして大会と学園祭に、卒業生の見送り公演だ。中等部出身のお前もわかると思うが、この慶立学園高等部の演劇部は全国的にも有名だ。しかし残念ながら最近は結果が揮わない。俺としては今度こそはという気持ちがある。そこで小宮山に白羽の矢が立った、というわけだ」


「なるほど」

 頷くことはできない。ただ、きちんと話は聞くことにしようと小宮山は思った。


 彼は顧問から伝えられた内容を頭の中で反芻した。そして考えを整理すると浮かんだ疑問を彼へとぶつけた。

「けれどそうなると、仮に僕が大会に出場するとしても来年の、ということになりますよね? 現に今先輩方は今度の地区大会のために練習されてますし」

「ああ、小宮山には来年の大会を目指してもらうつもりだ」

 顧問は同意する。

「ならなぜこのタイミングなのでしょうか。先生もご存知の通り、僕は演劇に関しては全くの素人ですし、僕を出場させるかどうかの判断は熟練度合いの経過を見てからでも遅くはないのではないかと思いますが……」

「いや、このタイミングでいいんだ。むしろ遅すぎたくらいかもしれない」

 躊躇いなく答える。


 そして先ほどまでの朗らかさとは打って変わって真剣な表情となった。顔に刻まれた深い皺の数々が彼の雰囲気にある種の凄みと説得力を付与していた。

「いいか、一目お前を見たときから才能を感じていた。これは練習によって小手先で身につけられるようなものじゃない。小宮山ならば前野の横に立ち全国を取れると確信したんだ。だがやはりお前の言う通り、技術的にはてんで素人だ。だから早めに目標に向かった練習を積んで前野と並べるような役者になって欲しいんだよ」

「先生のおっしゃることはわかりました。けれど僕があの前野さんと一緒に演技できるとは思えないのですが」


 しかし小宮山は信じられなかった。自分が前野絵美と共に舞台に立つということを。

 それどころか想像すらできなかった。

 彼女はそれだけの人物であった。


 その理由は、彼女が持つ役者としての圧倒的な適性に尽きる。

 まず、人の目を惹きつけてやまない顔立ち、ぱっちりと大きく開いた瞳に、長いまつげ、高過ぎもせず低過ぎもしない絶妙な高さの鼻。頬は少し赤みが差して、化粧などなくともその魅力が十分に発揮されるようになっていたし、少しぷっくりとした唇は嫌にでも目を吸い寄せられる。

 どちらかというとはっきりとした顔立ちをしているが、衣装に身を包み、メイクを纏うと、まるで一組のパズルのピースのようにしっかりと役柄に合った姿へと変化した。


 加えて絵美はその場所その瞬間に適した雰囲気を自身から漂わせることができた。それに衣装や化粧といった外見的要素が合わさってあたかも物語の登場人物本人が現実に舞い降りたかのような印象を鑑賞者に与えた。

 しかし彼女の並々ならぬ女優としての才は、たとえ伝統と歴史のある屈指の実力校であるこの慶立高校演劇部においてもかなり持て余してしまうものであった。


 一人だけ並外れた人物がいる。それは劇の調和を乱しかねなかった。特にヒロインと対になる存在、ヒーロー役が大きな懸念となった。

 絵美ほどの人物の横に立つほどの人物だ、並大抵の男ではその役は務まらない。

 そして実際にそうであった。二年生にも三年生にも彼女にふさわしい人物はいなかった。まるで姫の隣に並ぶことを定められた王子様のような者が。


 ——それが小宮山和樹であった。


 彼は今でこそ中等部での出来事で少々塞ぎがちな性格になっているが、元々は聡明かつ生真面目な学生であり、また、見目麗しく絵美の隣に立っても見劣りしない。そして皮肉にも野球部の不慮の引退による心の侵食が彼の役者としての蕾を開くことになるのであった。


 その可能性に賭けたい。

 何より小宮山が開花するところを見てみたいと顧問は思った。


「自信がないかもしれないが、今は俺を信じて首を縦に振ってくれないか」

 顧問は真摯な態度で小宮山にこうべを垂れて言った。

「先生頭を上げてください。わかりました、やりますよ」

 いつも真剣に部員を指導している顧問が頭を下げてまで頼んでいる。ここまでされて断るのは自分の可能性を信じてくれている彼に失礼だと感じた。

 また、自分もその可能性を信じてみたいと思った。

 僕が本当に前野さんと一緒に舞台に立てるようになれるかはわからない。けれどもう終わってしまったと思っていた自分にもまだ未来という糸が残されているのならもう一度手繰り寄せてみたい。


 変わらなければ、と思っていた。

 変われない、と思っていた。

 だけど、

 変わりたい、そう思えるようになった。


「先生」

「ん、なんだ?」

 顧問は小宮山から良い返事をもらって緊張の糸が解けたのか、再びいつもの陽気な姿に戻っていた。

「ありがとうございます」

「いや、礼を言うのはこちらの方だ。ありがとう」

「これからもよろしくお願いします」

「ああ、よろしく」

 顧問はそう言って右手を小宮山の方へと差し出した。彼は頷いてその手を握り返した。頼もしい感触であった。そのしっかりとした力は小宮山の決意をも固めてくれた。


 小宮山和樹は主役ではなかった。

 しかしその煌めく姿を目指して一歩足を踏み出した。


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