現在10
「別れましょう」
——それは唐突な宣言だった。
夏休みが明けて二週間ほど経ったある休日、ユウキは大事な話があるからとカフェに呼び出された。そして待ち合わせの場所に着くと、深刻な顔をした絵美が一番奥のスペースで俯いて座っていた。彼女は待っている間コーヒーを注文していたようだが、到着した時にはとっくに冷めてしまっていた。
ユウキの姿を認めるとすぐに席に着くことを勧めた。ウェイトレスが注文を取りに来るとユウキは絵美と同じホットコーヒーを注文した。
そしてまだ注文の品が来ないうちに絵美はユウキに先の台詞を突きつけた。まるで研ぎ澄まされた刃物のように鋭利な一言だった。
「と、突然何を言ってるの! 冗談にしては面白くないよ」
「私は本気よ」
あくまで淡々と返答した。ユウキはあまりに唐突な、それでいて逼迫した宣言に脳内にいくつも張り巡らされた思考の糸が絡まってしまった。それは時間を追うにつれてますますひどく縺れていった。どう解けば良いのかユウキにはわからない。
「別れるなんて考えられない。だってぼくは絵美一筋なんだから」
「嘘」
どうにかして捻り出した言葉は「うそ」というたった二つの音によって否定されてしまった。また一つ糸の絡まりが新たに生まれた。
「嘘じゃない」
「嘘だよ。だって私見ちゃったもの。ホンモノのあなたを」
「一体どういうこと。唐突すぎてぼくにはわからないよ」
「わからなくてもいい」
絵美はまるで別人のようであった。
声には抑揚がなく、至って平坦で、そこからはどんな感情をも読み取ることは叶わなかった。いつも通りなのはその声が澄んで美しいということだけ。けれど今はそれがかえって恐ろしかった。
ユウキがそのような絵美の姿を見たのは初めてであったし、心の底から彼女を『怖い』と思うのも今までにはないことであった。
「とにかく落ち着こう。まずはじっくり二人で話し合おうよ。ぼくに問題があるなら直したいし」
「私は落ち着いているし、あなたに落ち度はない。悪いのは全て私なの」
「どういうこと?」
わけがわからなかった。彼女は全て自分が悪いと言う。そしてとても辛そうな顔をしていた。だからユウキはその理由を聞かないわけにはいかなかった。
「私はもう耐えられない。ただそれだけ。だから、さよなら」
しかし絵美は何も語らなかった。
彼女は伝えるべきことはもうすでに全て伝えたといった様子で席を立った。そして千円札を一枚テーブルの上に残して出ていってしまった。ユウキに残されたものはその他に何一つとしてなかった。ユウキは何も考えられなかった。死刑宣告を受けた囚人のような顔でしばらくその場に佇んでいた。
絵美が去ってから一拍遅れて注文したコーヒーが運ばれてきた。ユウキは口をつける気にはなれなかった。冷め切った情景の中、カップの中の液体だけが熱を持っていた。けれどやがてそれもいつの間にか冷たくなってしまっていた。
それからしばらく経って、冷めきったコーヒーを一口啜ると少しだけ心を落ち着かせることができた。そして今回の出来事について考えを巡らせた。
絵美は一体何を見てしまったのだろう。
——だって私見ちゃったもの。ホンモノのあなたを。
この台詞がやけにユウキの胸をつかえた。
心当たりが全くないというわけではない。
冷たく暗い色の液体の表面に浮かぶ自分の像をじっと眺めていると、どうにかなってしまいそうであった。焦げ茶色の絞り汁は何も語りかけてはくれなかった。ただただ目を覆いたくなるだけであった。ユウキはティースプーンでコーヒーをおもむろに掻き混ぜながら、最近起きたある出来事を思い出した。
「君がこの靴の持ち主だったんだね」
王子様はガラスの靴を履いた少女に向かって問いかけた。ガラスの靴はまるで彼女の他に持ち主などいないと主張しているかのようにぴったりと少女の足にはまっていた。それもそのはずだ。だってその靴は魔女が少女のためだけに魔法の力で編んだものなのだから。
「……はい……」
「君を探していたんだ。他でもない君をだ」
「……」
少女は答えない。
彼女は下を向いていて、王子様に顔を合わせようとしなかった。
「あの時僕と踊ってくれたのは君だろう?」
王子は重ねて問いかける。穏やかに、優しく。
「はい……」
少女が重い口を開いた。そして僅かな沈黙と空白。
その後に彼女はこう続けた。
「しかしあの時の私は、私であって私ではないのです。そう、今の私はただの貧しい灰かぶり。あなた様とはとても釣り合うような者ではないのです。あなた様もそうお思いになるでしょう。でしたらどうかこれ以上この哀れな小娘を辱めないでくださいませ」
しかし彼は躊躇わずに答える。
「いいや、身分など関係ない。あの舞踏会で君と共に踊った日、初めて僕の世界が色づいたように感じられたんだ」
そう言って真剣な眼差しで少女を見つめる。彼の曇りのない瞳はやがて少女を迷いから解き放った。
「私で良いのですか?」
少女は恐る恐る王子に尋ねた。
「君が良いんだ」
彼は力強い声で応じた。
少女は——、シンデレラは涙を一筋流しながら、
「私もお慕いしております。王子様」
自らの想いを伝えた。彼女はもう灰かぶりではなかった。
思いが通じた二人は互いの距離を詰め、やがて抱き合い口づけを交わした——。
——したふりをした。
「よし、こんなものか」
「そうですね」
そう言って二人は抱き合っていた身体を離す。
「進捗としては順調ですね先輩」
「そうだな。他のグループも問題ないとのことだし、これならお客さんを満足させられそうだ」
「それにしても驚きましたよ。まさかぼくがシンデレラ役だなんて」
「いや似合ってると思うぞ」
小宮山そう言って意地悪な視線を向けた。
「からかわないでください」
「はは、悪い悪い。でも似合っているってのは本当だよ」
小宮山は爽やかな表情をユウキに投げかけて言った。
「にしても部長はどうしてぼくにお姫様の役なんか……ぼくから一番遠い役でしょうに……そういう役は絵美にやらせるべきだと思うんですけど」
ユウキはうーんと唸りながら彼にこぼす。
「だからこそ、なんじゃないかな。この学園祭の公演は僕たち三年生最後の公演になるからね。なるべく妥協をしたくなかったんだと思うよ」
「それを聞くと、なおさらなんでぼくなのかわからないんですけど」
ユウキはますますわけがわからなくなった。
「前野はいつもプリンセス役をしているからな。だけどそれはある意味においてお姫様の役を完全には理解できていないことになる。なぜなら彼女はお姫様視点のお姫様しか知らないんだ。だから『どういったお姫様が最も魅力的か』という問いに対して満点を取ることができない。しかし進藤、その点王子様である君になら解答することができる、そう渡邉は考えたんじゃないかな」
「理屈はわかりました。けれどぼくは王子様ですよ、王子様。王子がお姫様になるって本末転倒な気がするんですが」
ユウキは依然として不満気であった。
「たぶんこれは演劇部部長として、そして渡邉麗という一人の脚本家・監督としての挑戦なんだと思う。そうした課題を乗り越えることで彼女は自分という表現者をさらに一歩上のステージに向かわせようとしている」
「巻き込まれた方は大変ですけどね。まあもういい加減慣れましたけど」
ユウキはわざとらしくため息をついた。
「そうだね」
そう言って二人は今までの麗の所業を思い出して笑い合った。長い長い笑いであった。まるで打ち上げ花火が終盤で一際激しい輝きを見せるように。
ふと小宮山が真剣な表情になってユウキに向き直った。
「進藤」
「ん? どうしたんですか先輩? いきなりそんな真面目な顔して」
ユウキはこれから小宮山がしようとしていることに気がついていなかった。それほど急な場面の転換だった。
けれどそれも仕方がない。だって花火大会はもうとっくに終わりを迎えてしまったのだから。夏ももうじき終わろうとしていた。肌に吹き付けた風が少しだけ涼しく感じられた。
この後に残るのは寂しさか、それとも本当に温かい何かか。
それが何なのかはまだわからない。
でもきっと何かが大きく変わる、ユウキはそう予感した。
「好きなんだ、進藤」
花火の後の静寂に、ユウキは世界から孤立してしまったような気がした。
ふと窓の外に目をやると外がもう暗くなっていた。
勘定を済ませて外に出ると仄かに雨が降っていた。ユウキは傘を持っていなかったが、気にも止めずにそのまま夜の街へと足を踏み出した。
特にあてもなくしばらくぶらついていると、いつの間にか土手沿いを歩いていた。そこは以前黄昏の中で絵美と唇を重ねた場所であった。
また失敗しちゃったか……。
昔の自分とは違ってうまく立ち回ることができていたと思っていたんだけど。結局自分が誰かを幸せにするなんておこがましかったのだ。ユウキはそんなことを考えながら歩みを進めていた。身体中がバラバラになってしまったような気分だった。
気がつくと雨脚は強くなっていた。土手は雨で地面がぬかるんでおり、そのせいでユウキは転んで泥まみれになってしまった。けれどユウキは構わなかった。上体だけ起こしたがとても立ち上がる気になどなれなかった。お姫様を救えない王子様に価値なんてない。そんな贋作には泥と雨がお似合いだ。
ユウキはひざ立ちの姿勢のまま項垂れ雨に打たれていた。
しかし唐突に雨が遮られた。
身体が僅かに軽くなるのを感じる。
何かと思い、顔を上げるとユウキの頭上には傘があることがわかった。そしてその先には泥だらけの自分に傘を差し出してくれた親切な人物がいるはずであった。
ユウキは傘から腕へ、腕から顔へと視線を移した。
すると——、
「進藤?」
優しい誰かが声をかけてきた。




