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「今日もお疲れさま、久保木くん」


 ユウキは部活が終わった後、まっすぐ帰路には就かずグラウンドに立ち寄った。辺りはもう暗くなっていたが、そこにはまだ正一が残って練習を続けていた。

「また来たのか進藤」

「まあね」

 以前ショッピングセンターで偶然出会ってからというものの、ユウキと正一は時々再び会って話をするようになっていた。こうして会って話してみるとやはり気が合うなと二人は思った。


「その……彼女さんはいいのか?」

 正一はおずおずと尋ねる。

「うん、まあ大丈夫……だと思うよ? 絵美とはいつも部活や週末に会ってるし。ただ毎回誤魔化すのは少し大変かな」

「おいおい、いいのかよ」

 彼は半ば呆れたように言った。


「そういえば、全国大会を優勝したんだってな。おめでとう。今は気分がすごく昂ぶっている頃なんじゃないか?」

「ありがとう。けどそうでもないよ。ぼくと絵美ならいけると思っていたからね。むしろ大変なのはこれからの地区予選の方かな。まだやるべき課題がいくつか残っているし。そっちは……残念みたいだったね」

「そういや演劇部の大会は他の部活とは勝手が違うんだったな。こっちの結果については

まあな。だけど幸い今はもう皆吹っ切れてる」

 正一は負けたばかりとは思えない爽やかな顔つきで答えた。

「最近の調子はどう?」

 ユウキは尋ねる。


「ああ、いたって順調だ。今年の結果は残念だったが、メンバーも皆着実に実力をつけてきている。これなら来年は優勝も夢ではないと思う」

「本当に!? すごいね。でも今の時期だと他の部員は精神的に厳しいんじゃないかな?」

 慶立高校は今年度初戦で格下である対戦相手に大逆転で敗北を喫したため、試合直後の部員たちは目も当てられないほどであった。

「確かにそうかもしれない。もちろん俺だって悔しかったさ。だけどいつまでも立ち止まっているわけにはいかない。少なくとも部長である俺は」

 正一はそう言って、バットを握りなおして大きく一振りした。無駄な要素が何一つない美しいスイングだった。その混じり気のなさは彼の実直さを表しているようだった。


 確かに野球部員は甲子園敗退後、酷い有様であった。

 しかし正一だけは例外であった。彼は負けたその瞬間から自分たちの驕りを反省し、次の甲子園へと目を向けていた。だからその場にいた彼だけが涙を流さなかった。

 正一のことを、涙を流さない薄情者だと誹謗する者もいた。


 しかし彼はその言葉に憤ることはなかった。


 むしろその言葉の裏にある野球に対する、あるいはこの大会に対する情熱、そしてそうでありながら自身の驕りで敗れてしまったという怒りの表れであるとわかっていた。それら全てを汲み取った正一は、ただ優しく黙って彼らの肩に手を置いた。

 その夜、正一は誰もいない夜のグラウンドでひっそりとユニフォームを濡らしながらひたすらバットを振っていた。

 部員も、顧問も、誰一人としてそのことを知る者はいなかった。

 ただ一人を除いて。

 ユウキはその夜、彼を偶然にも見かけてしまっていた。そして彼に気づかれないよう物陰からそっと様子を見守っていた。誰も理解していなくてもぼくだけは本当の君を知っているから。まるでそう言いたいかのように。


「そういえば、その……いいのか?」

 会話がふと止んでから少し経った頃、正一はユウキに問いかけた。

「いいのかって?」

「だからさ、また俺とこうして会うようになったこと」

「会うようになったこと」

 ユウキはその言葉に込められた意味を正確に推し量るように彼の言葉を慎重に繰り返した。そしてその意味をゆっくりと咀嚼し口を開いた。

「大丈夫だと、ぼくは思う」

「どうして」

 正一は理由を尋ねる。


「今のぼくはあの時のぼくとは違うから。だから無理して君と距離を置く必要は無くなったと思ってね」

「別に無理に距離を置いた覚えはないけど」

 彼は少しだけ悲しそうに言った。

「確かに、そうだったね」

 ユウキもまた正一の言葉に優しく、それでいて悲しそうに微笑んだ。

「だけど、確かにお前が言うように以前とは違うように見えるよ」

「そう見えるのなら嬉しい。ぼくもそれなりにがんばってきたからね」


 ユウキは変わった。


 とは言っても、見かけが特別変化したというわけではない。

 細くてさらりとした黒い髪も、細長く滑らかな指も、華奢な体躯も、ぱっちりとした目も、何一つ変わらず出会った時のままであった。

 つまりユウキの変化はそうした外見的なものではなかった(髪型は前とは変わっていたが)。それはもっと深くに根ざした内面的な部分の変化であった。

「前とは変わった……か……」

 正一は昔のユウキを脳裏に浮かべながらそう呟いた。

「うん」

「だったらもう名前で呼んでもいいのか?」

 二人が出会ってから少なからず時間が経っていたが、彼らはまだ互いを名字で呼び合っていた。正一はユウキを名前で呼びたいとかねてより思っていた。

「できれば、やめて欲しいかな。ぼくが自分の名前が好きになれないのは今でも変わらないから。他の人にそう呼ばれるのにはもう慣れたけど、ぼくのことを知っている君にそう呼ばれると少しキツいかな」

 そう言ってユウキは少しだけ悲しい顔をした。

「前にも言ったが良い名前なのに」


「そう思える『ぼく』だったらよかったのにね」


 ユウキは自嘲気味に笑った。

「わかった。じゃあ今まで通り進藤で」

「ありがとう。やっぱり君と改めて話せるようになって良かった」

「そうか、そう言われるとなんか照れくさいな」

 正一はむず痒そうに頭の後ろを掻いた。

「そうだ、逆にぼくが久保木くんのことを正一くんと呼ぶのはどうだろう?」

 さも名案を閃いたかのような顔で提案してくる。

「な、なんでだよっ!? 今さらそんな呼び方されても薄気味悪いだけだろうが!」

「えー、結構良い案だと思っていたんだけどなー」

 ちぇーと拗ねたような顔をする。正一はそんなユウキの様子を会話交じりに感じながらやっぱり落ち着くなと思った。


「……だけど」


 ユウキはどこか懐かしそうな顔で呟いた。それはまるで欲しいものがあったけれどあと一つ勇気が足りなくて手を伸ばすことを諦めてしまった子供のようであった。

「だけど?」

「いや……うん、そうだね。いつか……いつか君がぼくのことを名前で呼んでくれる日が来てくれればいいなって思ってさ」

「ああ、そうだな。そんな日が来ればいいな」

 正一はユウキに慈しむような視線を向けて答えた。

「もし、俺がお前のことを名前で呼べる日が来たら、お前も俺のことを名前で呼んでもいいぞ」

「うん! 楽しみにしてるね!」

 ユウキはそう言って屈託なく笑った。

「そういえば、もうだいぶ遅くなってきたから帰れよ。俺ももうすぐ帰るし」

 二人が視線を空に移すと、そのほとんどが藍色に支配されていた。オレンジの時間はもうすぐ終わりを迎える。

「じゃあ待ってるよ。一緒に帰ろう」

「いや片付けに時間かかるし、あとこの後ちょっと一人で練習の振り返りをしたいからさ。だから悪いな、また今度ってことで」

 正一は申し訳なさそうに手を合わせながら言った。

 それなら仕方がない。これ以上彼を邪魔するわけにはいかない。

「そういうことなら。じゃあね、久保木くん。また明日」

「ああ、また明日」

 手を振って別れを告げるユウキに、正一もまた手を振って返した。


 帰路についたユウキは気まぐれに再び空を眺めた。

 日が暮れてからもうだいぶ経っていた。街の明かりが多いここからでは星の光を臨むことはあまり期待できない。けれど曇りのない夜空と電灯や民家、ビル群から漏れ出す幾多もの光がまるで満天の煌めきのように輝いていた。

 それはいつか見た夜空だった。


 けれどユウキはその時気がついていなかった。

 正一とユウキ、二人の会話の様子を陰から眺めていた人物のことを——。


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