過去6
「ちょっといい」
初めての舞台で失敗し落ち込んだ小宮山が暗い顔で帰る支度をしていると、突然絵美が話しかけてきた。
どうしたんだろう、珍しい。
小宮山の記憶が正しければ、絵美が小宮山に自ら話しかけたのは初めてのことかもしれない。おそらく彼以外の人物にも話しかけたことはないのだろう。その逆はよくあったが。多くの人が話しかけては門前払いを受けているのを彼はよく見かけた。
「あ……前野さん、今じゃなきゃだめかな?」
今は誰とも話したい気分ではなかった。何か予定があったわけではなかったが、小宮山は一刻も早くこの空間から逃げ出したかった。
奇しくも以前と真逆の状態だ。
絵美が話しかけ、小宮山が嫌がる。
「だめ」
彼女の声には相変わらず抑揚を感じられなかったが、その言葉がきちんと意思がこめられたものだと感じることができた。到底拒否することなどできない力強さがそこには確かにあった。
「分かったよ」
小宮山はため息混じりに答えた。
絵美は彼の返答を受け取ると、すぐに彼のセーターの袖を手に取って教室の外へと向かった。
「って、えっ、どこ行くの?」
「いいから」
有無を言わさない彼女の態度に従わないわけにはいかなかった。仮に従わなかった場合、何が起きるか彼には予想がつかなかった。
「わ、分かったから、せめて手を離してくれないかな。セーターが伸びちゃうから」
「ん」
彼の抗議を受け取ると先ほどまでの有無を言わせない気迫はどこへ行ってしまったのか、すんなりと手を離してくれた。
だがセーターの袖はすでに少しだけ伸びてしまっていた。
絵美について行ってから五分ほどして目的地に到着した。
そこは学校の屋上であった。
普段は生徒が無断で立ち入って事故を起こすことのないよう屋上の扉はしっかりと閉ざされている。しかし絵美は扉の前に立つとまるで家の鍵を取り出すかのような気軽さで屋上の扉の鍵を制服の内ポケットから取り出し、鍵穴に差し込んだ。
鍵はかちゃりと錆一つなさそうな小気味良い音を立てすんなりと開いた。
「ここ」
彼女はこれまた家に招待するかのような面持ちで彼を屋上へと招き込んだ。
「ここ、って屋上だよね。一体どうやって鍵を手に入れたの?」
「……」
絵美は何も答えなかった。そのような質問は全くの無意味だというかのような気配を感じたので小宮山も特にそれ以上は追及しなかった。。
彼女は答える代わりに屋上のフェンスへと指を差し、歩き出した。
「こっちへ来て」
小宮山はおとなしく従うことにした。
日はもうだいぶ沈んでいた。空はオレンジに埋め尽くされていたが、徐々に世界を侵食している紺色が夜の訪れを克明に伝えていた。おそらくあと半時間も立たないうちに空は闇に抱擁されることだろう。
夕映えに照らされた街並みは、ただただ美しいと表現するしかなかった。全てが茜色に仕立てられた景色は、どこか違う世界に迷いこんでしまったのではないかと錯覚させるようであった。
そんな様子をしばらく二人で肩を並べて眺めていた。
「部活が終わるといつもここに来るの」
絵美は小宮山の方に振り返ると、唐突にそう言った。
夕日に輝く絵美の姿はまるで自分から朱の煌めきを放っているかのようだった。微かに揺れる髪も、光を透かしたような肌も、周りの女子生徒たちよりも少し高めに聞こえる声も。それら全てが天より施された宝物のように感じられた。
「この場所でこの景色や部活動をがんばる人たちを見ていると、明日もがんばろうって、そう思えるの」
珍しく長いセンテンスを口にした。
けれど小宮山にとってさらに意外だったのは発言の内容の方にあった。
「なんか意外だな……」
「意外って?」
「ほら、いつも前野さんって落ち着いているというか、クールな印象が会ったからがんばろうって言葉が新鮮に響いてね」
「私だってこれでも必死なのよ」
絵美は顔を少し赤らめて頬をぷくっとさせた。
彼女が感情らしい感情を表にしたのを見たのはこれが初めてかもしれない。そう小宮山は思った。
演技でない本当の前野絵美——。
彼女が感情を表した顔自体は舞台の稽古で何度も目にしてきた。けれど今目の前にある表情は本当に自然で、彼が想像していたよりもずっと素敵なものだった。
とくん。
普段より大きな鼓動が一つ、小宮山の胸を叩いた。
それを誤魔化すかのように意識を会話に集中させた。
「必死ってどういうこと? 前野さんは演技も抜群にうまいし、特別にがんばることなんてないと思うけど」
「演技自体には私も問題はないと思う。今までずっと積み重ねてきたし、手を抜いたことなんて一度もない。けどね、そういうことではないの。あなたもわかるでしょ? 演技をしてない時の私のこと」
「うん」
「私にもこれがいけないことだってことくらいわかっているの。けれど演技をしていない時、どんな顔をしたら良いかわからないの。だって私はもともと空っぽで、そんな中身のない器にどこかの誰かを詰め込むことで初めて一人の感情を持った人間になれるの」
「そ、そんなことは……」
「ううん、いいの。だからこそ私はここまで女優としてやってこられたんだとも思うし」
絵美は瞳を閉じてかぶりを振る。
「けど、それではよくない」
「その通り」
彼女はしっかりと頷いた。
「つまり君の心境に何らかの変化があったってこと?」
「そういうことよ。ある日私は今までの自分の在り方に限界を感じたの。女優としてさらに上へ行きたいのなら、器自体も変わらないといけない。より上質で丈夫な、ね。けれどもっと大事なのは器から漂う雰囲気の方。だから私は自分の断片を拾い集めることを始めたの。けれどうまくいかないの」
絵美は眉を下げて怒ったような悲しいような複雑な様子だった。口調も普段の小宮山が知っているそれとは大きく異なっている。これも取り戻した自分の一部なのだろうか、と彼は思った。
「うまくいってると思うけど。だってここでの君は少し違う気がする」
「ここでなら私は本当の自分を見つけられる気がするから。けどこれだけじゃ十分じゃないの」
少しだけ俯いて何かを考えるような素振りをした。それも束の間、彼女は顔を上げ胸に手を当てるとまるで小宮山に宣言するかのように告げた。
「決定的な何かが足りないと思うの。きっとそれがあらゆるの感情の起点。そして私にはそれが何なのかが分かる。それは、たぶん恋なんだと思う。演劇はどうしても男女間の恋愛をテーマにすることが多いでしょ? その時、私はわかったような顔して演じているけど本当は何もわかっていないの。他の女優の表情や仕草をそのまま真似ているだけ」
絵美はそう言って、もう一度夕焼けの方を見た。彼女は一つため息をついた。
そして再び口を開いた。
「言うなれば虚構の中の虚構ね。けど、私は憧れているの。初めて私がその女優の演技を見た時、どうしてこの人はこんなにも苦しそうで、それなのにこんなにも人を惹きつける顔をしているのだろうって。その人はきっと恋を知っているのね。そのあまりに綺麗なのに、儚くて、悲しくて、自然と涙が流れたわ」
夕日の中で彼女が振り向くのがわかった。けれどあまりの眩しさにどんな顔をしているのかよくわからなかった。
絵美はきちんと彼女の気持ちで彼女の想いを伝える。
「だから私は恋が知りたい」
その瞬間太陽が地平線の彼方へと沈んでいった。辺りが急に暗くなる。小宮山は目が眩んだが、やがてそれにも慣れ絵美の表情がうかがえるようになった。
彼女の瞳はほんのりと潤んでいた。
当時のあまりにも強烈な感覚をトレースしたためだろうか。それとも自分が未だ持たぬことへの悔しさからだろうか。小宮山はそんな『本物』の彼女からしばらく目を離すことができなかった。
あたりはもう暗くなっていた。電灯。家。ビル。点々と灯った様々な種類の明かりは二人に何も語りかけなかった。おそらくそれは太陽の役目なのだろう。
「長い間話しちゃってごめんね。そろそろ帰ろう」
絵美は寂しそうに言った。
校庭の照明から伸びた光を浴びた絵美は決して冷たい人形などではなく、しっかり血の通った一人の女の子に見えた。
「今日は僕の知らない前野さんをたくさん知ることができたよ」
小宮山は校舎への扉へと向かう彼女の背中に語りかける。
「そう? 自分ではわからないわ。けど、それはもしかしたらあなたといると本当の私の一部を引き出してくれているのかもね」
そして意地悪なような、あるいは妖艶とも取れるような顔をして微笑んだ。小宮山にはこれが演技だとわかっていたが、それでもどぎまぎせずにはいられなかった。
「あ、結局呼び出した要件は何だったの? 僕を励ますためだったってことはわかるんだけど」
「つまり一緒にがんばりましょってこと。期待してるわよ、相棒」
そう言って絵美はウィンクをした。
「うん、がんばれそうな気がする。がんばるよ、僕。前野さんの隣に立っても恥ずかしくない主演俳優になるために。今日はありがとう」
互いの意志を確認するように視線を交わす。
そして二人は屋上を後にした。
今日の出来事でわかったことがある。
小宮山はその日のことを振り返る。
絵美といると心が落ち着くように感じられた。表面的な人格は全く違うが、どこか気が合う部分があるのかもしれない。例えば、好みのものが同じとか。
彼女とならばきっとこれからもがんばれるだろう。
……だけど、
これは恋ではないはずだ。
多分。




