プロローグ:誰かと誰かの物語
少年は愚直でした。
だから今もこうして他の部員が帰った後も練習を続けています。外はもう暗くなってしまっていて、確認できる校舎の明かりは職員室のものだけでした。
しかし彼はそんなことは気にもとめずに練習に励んでいます。
「また今日もこんな時間まで練習しているのね」
突然声をかけられました。
少年が振り向くと、そこには少女が立っていました。長く艶のある髪と透き通る瞳を持った綺麗な女の子です。
「学校に残っているのはお前も同じだろ」
「まあそうだけど。でも今日の練習はもうおしまい」
少女は両手を後ろに組んで無邪気な笑みを浮かべました。この笑顔に学校中の男子が魅了されていました。少年もまたその内の一人でした。けれど少年自身はそのことに気がついていません。
「俺が言えたことじゃないかもしれないが、お前もよく毎日こんなに遅くまで練習をしてるよな」
「だって私もっと完璧にならないと」
少女は唇を少し噛みながらそう答えました。少年は彼女が常日頃から努力していることを知っています。
「そうか。それにしてもこんなに毎日やる必要もないと思うが。お前は部活の中でも並外れて優秀って有名だぞ」
「私だってやりたくてやっているわけじゃないわ」
先ほどまでの笑顔とは対照的な暗い表情でした。
「ならどうして」
少年は問いました。
「周りの期待を裏切りたくないのよ。いや違うか。私は期待されなくなるのが怖いだけ」
自嘲気味に笑いました。
そしてまっすぐなまなざしを少年の方に向けました。
彼は少女が期待を『裏切りたくない』のではなく『裏切れない』ということに気付いています。
けれど彼は黙っていました。それが彼の優しさなのです。
少年も少女をまっすぐ見つめ返しました。そして彼女ははっきりと自分の意思を少年に伝えました。
「だから万が一の失敗もないくらい練習するの」
それは強い決意でした。
きっと今までもそうやって努力を重ねてきたのでしょう。
だけど、それが少し悲しい。そう少年は思いました。
「そうか。だけどたまには休めよ。でないと肝心な時にしくじるかもしれない」
「ありがと。でもね、この学校に入ってからそれだけが毎日遅くまで練習する理由じゃなくなったの。練習するだけなら他の場所でもできるしね」
「理由を聞いても良いのか?」
「あなたに会えるから」
少しも躊躇わずにそう答えました。
少年の顔をまっすぐに、じっと見つめて。
「……っ!」
少女の迷いのない言葉に彼は戸惑いました。自分の動揺を彼女に悟られないよう顔を彼女から見えない位置へと向けて備品の状態を確認しているふりをします。駄目だ、この想いに気づいてはいけない。少年は何かが胸を締め付けるのを感じました。
「そっ、その言い方は語弊があるだろ」
あなたに会えるから。
その言葉の意味を決して誤解してはならない。少年はそのことを十分すぎるほどにわかっていました。
「確かにそうかも。あはっ、ごめんね」
少女は上目遣いでウィンクをしてきます。
そうした仕草のひとつひとつが余計に少年の心を揺さぶり、抉るのです。駄目だ、こらえろ。そう彼は思いました。
少女は、うーんそうねと口元に指を当てて考えました。
「正確には、あなたの前でだけ私は本当の自分でいられるから。かな?」
「なんで俺だけに」
「だってあなたは私に何も期待していないから」
ああ、その通りだ。俺は何も期待していない。期待していなかった。
だから三文芝居で演技をし続ける。
だって気が付かれてしまったら壊してしまう。
この大切な時間も、彼女の幸せも。
「そうだな。俺はお前に期待しない。だけど、いつかお前がお前のままで幸せになれるといいなって思うよ」
少女はそれを受けて「ありがとう」と言いました。その時浮かんだ彼女の笑顔は少しだけ寂しそうに見えました。
「でも……そう、でももう慣れちゃったから。私にはこれで十分。今を壊してしまうくらいなら我慢し続けた方がずっといい」
——今を壊してしまうくらいなら我慢し続けた方がずっといい。
ああその通りだよ。
けれどもう抑えきれないみたいだ。
本当はとっくに気付いていたさ。でも傷つきたくないから必死で自分を偽り続けていたんだ。
少年は少女の幸せを願わずにはいられない。しかし彼は彼女を幸せにできない。それは彼の役目ではないから。ささやかな幸せすら少年から奪ってしまうから。
少年は何もできない。
少女のことが好きだから。彼女には恋人となるべき人がいるから。
少年は愚直でした。
そして不器用でもありました。
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