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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

腕(かいな)の憂い

作者: 蜜鳥

1

ドアをノックされる音で目が覚めた。いつの間にかうたた寝していた様だ。

「はい、ちょっと待ってください」


開けたところにいたのは20歳を過ぎたばかりの青年だった。南国らしいくっきりとした目鼻立ちに穏やかな笑顔を浮かべている。


彼女と旅行に来て部屋を間違えたのか?

いや、俺を見て笑顔…という事は部屋を間違えた訳ではない、よね?


「こんばんは、マッサージのご用命をいただきました。坂元です」


え?

思わず爪先から頭まで舐めるように見てしまった。


均整の取れた身体。服の上からでも分かるしなやかな四肢。筋トレじゃなくて、必要な部分に必要な分だけ自然に付いているであろう若い筋肉。

俺好みである。


はて、一瞬何のマッサージを頼んだのかと混乱した。



-------


相変わらず突然の出張命令だった。去年取り付けた機械の較正と調整、ついでにトレーニングもしてくれと、〆て3泊4日の鹿児島行きだった。


どうせ独り身だから融通がきくと思われているんだろう。


20代前半、気の迷いで結婚したけどどうしても相手にのめり込めなかった。逆ナンされてデートした男の子に惚れて、一年でさっさと離婚を切り出した。その子には結局すぐに振られてしまったけど。


そのままだらだらと、誰とも真剣に向き合うことなく20年間過ごしてきた。あっという間だ。



鹿児島までの機中、客からの連絡票を読みながら、滞在中に何が食べられるのか考えていた。

黒豚、鳥刺、さつま揚げ、ブリ、カンパチ、鶏飯、かるかん、白くま……は冬食べるもんじゃないな。 

辛子レンコンと馬刺しは熊本…そうだ、焼酎。


隣では同じようなビジネスマンがタブレットで何か調べている。

見る気はなかったが目に入ってきたのはキャバクラのウェブサイトだった。

あー、そうね。出張先だしね。



そんな事を考えているうちに飛行機は着陸態勢に入る。台地の上に向かって飛行機が降りて行く。


2

駅前のビジネスホテルに荷物を置いてタクシーで工場に向う。

担当の有薗さんがゲートに迎えに来てくれた。


「山崎さん、今日はどうも、遠いとこからごくろうさんでした。ゆくさおじゃったもんした(ようこそいらっしゃいました)!」


「いえいえ…お世話になります。納入ぶりですね、皆さんお元気ですか?」

「あー、それがね、部長の今里が他部署に行きましてね、その後…」


うんうん、とうなずきながら、そういえばこの人は話が止まらないんだったと思い出す。

頃良いところで「早速ですが、明日のために機械を見せてもらってもいいですか?」と、ちょっと強引に切り上げた。



較正を終えて調整に入る。パラメータを弄っては機械を動かして、反応を見る。いい具合に合ってきたら、少しオーバー目に動かしてから少しずつ戻していい所を見つける。

ぴったりはまると本気で気持ちよくなる。

同僚のセールス・エンジニアの中には「バシッと決まるとエクスタシーだよ!」と言ってるやつもいるが、それは多分カタルシスだよ、と囁いてやりたい。



ふと気づくと横に若いエンジニアが立って見ていた。


「すごいですね、手際が良くって惚れそうです」


青年はくっきりした二重の甘い顔でにかっと笑って言った。

惚れてくれても構わない、遠距離恋愛は無理だけどな、と心の中でつぶやいた。

人なっこいキラキラした表情がいい。成人してる…よね?なんでそんな伸び伸びした表情ができるのか教えてもらいたいものだ。


午後6時を過ぎたらわらわら人が集まってきて、あっという間に晩御飯に連れ出された。

九州最南端の県とはいえ冬は冷え込むし、風が吹くと耳が痛い。街を行く人もがっちり着ぶくれて歩いている。


連れていかれた居酒屋のテーブルには、鳥刺しに焼酎、刺身にさつま揚げが所狭しと並べられている。有薗さんがよく行く店らしく、誰彼問わず入り乱れて話しかけてくれる。


「山崎さん、結婚は?」

「はぁ、若いときして1年で離婚しました」から始まり…


「離婚したの?かっこいいから浮気でもしたんじゃないの?」、「いま彼女いないの?うちの山城さん紹介しようか?」(山城って誰?)、「よかにせ(いい男)だからね、モテるでしょ。好みはどんなん?」まで延々と質問されて、最後は「あら~厄年なの?こっちにいる間におごじょ(女)に厄を落として貰いなさい」と来た。


後は下ネタ大会で盛り上がったのであった。




みんな気を使って分かりやすく話してくれていた…と思う。時々謎の単語が入っていたけれど。



3

焼酎をたっぷり飲まされて、思ったより早く宴会はお開きになった。賑やかすぎて何を話したのか半分も覚えてない。

「よかばんねー(良い晩でした)」「よかばんねー」と知らない人と挨拶をしてホテルに帰る途中、煌々と灯りのついたガラス張りのマッサージ屋があった。


飛行機に乗ったせいで背中が凝っているからほぐしてもらおうかと思ったけど、もう閉店時間を過ぎているので、と断られてしまった。


--------


そうだ、それでフロントに聞いたら「店よりもうちの出張マッサージの方が評判いいですよ」って言われたんだっけ。


まさか若い男の子が来るとは思ってなかったので、ちょっと驚いた。

しかも柔和な笑顔の好青年とは!この県はなにか魔法でもかかってるんじゃないのか、ってくらいみんないい顔をしている。


「山崎さん、ですよね?あの…マッサージをご依頼いただいた坂元ですが、入ってよかったですか?」


「ああ!すいません。どうぞどうぞ」



待っている間にうたた寝をしていたせいでベッドが乱れている。

青年は、スラリとした腕で手際よくシーツを引っ張って整えながら話しかけてきた。

「今日は寒かったでしょう。鹿児島は初めてでしたか?」


「2回目。でも冬に来るのは初めてで、南国なのにすごく寒くて驚いたよ」


「そうなんですよ、年に一度くらいは雪が積もることもあるんですよ」


「鹿児島で雪かぁ」


「桜島に積雪するときれいですよ、こっちにいる間に見えるといいですね。さて、申し訳ありませんが前払いでお願いします」

青年はしがらみのない世界から来た旅人のような微笑みを浮かべながら、さらっとお金を要求する。


用意しておいたお金を渡すと、

「ありがとうございました。ではうつ伏せからはじめましょうか?」

とベッドに誘いざなわれた。



坂元青年は僕の脚にタオルをかけてゆっくりと手を動かしてゆく。

こんな風に人の手で慰撫されるのは久しぶりだ。

掌と指がタオル越しに体をゆっくりと走ってゆく。水の流れを辿るみたいに。


ごく弱い力で、まさに触れるだけのようなマッサージで、最初は正直物足りないと思っていた。しかし暫くすると触れられたところから緊張が解けてゆくのが分かる。

魔法使い、みたいだな。



小さい音でタイマーが時間を知らせる。気持ちよさの中でまたうとうとしていたところに、そっと肩に手を添えられて優しい声が聞こえた

「山崎さん、終わりましたよ。お体を冷やさないようにして休んでくださいね」

「…ああ、ありがとう」

声が掠れる。覚めたくないなぁ。




久しぶりに平穏な気持ちなり、そのままもぞもぞと布団に潜り込んで朝までぐっすりと眠った。




4

夢の内容は覚えてなかったけど、下半身の不快な感触で目が覚めた。

「… … …やっちまった…」

この年でうっかり夢精なんて、ありえないだろ。


洗面台で下着を濯ぎながら呆然とする。空しい…しかも臭い。



まぁ確かに、昨晩の坂元さんのソフトタッチなマッサージは気持ちよかった。あんなふうに人に触れられたのは久しぶりだった。

寝落ち寸前に、自分の体を大切に扱われるってこんなに気持ちのいいものなんだって、思ったんだ。

ついでに、最近自分でするのもご無沙汰だったと思い出す。


人肌恋しい季節だ…、いやいやいや出張中だし。


ええいっ!と気合を入れてパンツを絞り、バスルームの中に干す。


今日は講習会の日だ。


----


現場に早めについて準備を始める。機械と材料を確認し、試し加工をしてみる。機械さえしっかり調整できていれば実演は簡単だ。あらかじめ作っておいたプログラムを走らせれば想定通りのものが出来てくる。

不確定要素の多い(俺の)人生とは違う。


休憩中に昨日の青年が話しかけてきた。今はまっているというバイクの写真や、ツーリングで行った山の紅葉の写真を見せてくれた。頭を寄せ合ってスマホの画面に見入る。

ツンツンとした髪が頬に当たってくすぐったい。


坂元くんと同じくらいの歳だろうか?若い人特有の匂いがする。


写真をスライドしていると、若い女の子が写っていた。

彼女?と聞くと、嫁です、と返された。別の写真には、その子が赤ちゃんを抱いて写っていた。

20代前半かと思ってたのにまじか!?


「お子さん?」

「1歳なんですけど、だっこするとあったかくって柔らかくって…。もー、肌もふわふわでいい匂いなんですよ…」


しっかりと筋肉のついた腕で赤ちゃんを抱く真似をしながら、相好をくずす。きっとその重さや感触を思い出しているに違いない。くしゃ、っとした笑顔がやっぱりまぶしかった。



「山崎さん、今日は定食屋に行きましょう!」

今日もやっぱり定時のチャイムと同時にわらわらと人が集まってきて連れ出された。

勝手に注文された後に大きなぶりカマが3つ大皿に乗ってきた。みんなで取り分けるのかと思ったら一人分と言われてびびる。予想を裏切る豪快さと太っ腹だ。


ダメ押しで「まかないが余っておったがよ、サービス!」と店主がカウンター越しに腕を伸ばして豚の角煮を隙間にねじ込んできた。その躊躇のない優しさが染み入る。





旅人を放っておけない文化の温かみを噛みしめる独身男であった…、

などと独り言ごちたくなるような帰り道、周りを見ると予備校帰りなのか制服を着た高校生たちが手を繋いで歩いていた。


自然の営みに身を任せて何の疑いもなく互いの手を取り、談笑している。湿っぽいエロスを感じさせない高校生カップルの尊さにくらくらする。


20数年前は、俺もこんな風だったのかな。

今の自分には降り積もった澱のような汚れを感じる。


まぁしかし、自分から汚れを取り去ったら随分つまらない人間になってしまだろう。




5

また出張マッサージを頼んでしまった。


何を考えているんだ俺は。ストーカーみたいじゃないか。

いや、でもこちらからは一切触れることのできない焦らしプレイを数千円でしてもらって、身体も軽くなるなら一石二鳥。出張手当も出ているし、と変態じみた言い訳を自分にしてみる。



扉をノックされて開けると、鼻の頭を赤くした坂元くんが立っていた。

「山崎さん、毎度ありがとうございます」

ズレたところもほほえましく、何の店だと苦笑したくなる挨拶をしながらにこやかに部屋に入ってきた。

冷えた空気をまとっているはずなのに、彼が入ってくるだけで蕾がほころぶ様に部屋の空気が変わる。


準備をしながら坂元くんが口を開く。

「もしよかったら、今日は少し鍼を試してみませんか?僕、本当は鍼治療の方が得意なんです」

「ええと…マッサージじゃなくて鍼?」


「マッサージもしますけど少しだけ鍼を、あ、料金は同じですから心配しないでください」


「鍼…ってあの刺す奴だよね…?」

「そうですね、マッサージより積極的に攻めてみようかと…」

「攻める…」

って、何を攻めるんだ君は。


止まっている俺を見て、いたずら成功、みたいな顔でにっと笑った。

「怖いですか?嫌だったらやらないので大丈夫ですよ」


怖くないわけじゃないけど、そんな楽しそうに聞かれるとやってみたくなる。

「…痛くない?」


「浅いところをゆっくりと刺激してゆくので、安心してください」

青年は笑ったままで、左手の親指と人差し指で輪を作り、その上で右手の人差し指を軽く動かす。


「…じゃあ、お願いしようかな。初めてなので、優しくしてくださいね…」


「はい、もちろん」

俺の冗談が通じているのかいないのか、楽しそうな笑顔で返された。ああ、今の会話を録音して帰って、心が荒んだ時に聞き直したい。



鍼は確かに痛くなかった。

しかもツボに打たれたときに微かに重たい感じがして体が反応しているのが分かる。

枕に顔をうずめながら「う…ん、ずんっとくる」と呻くと、くすくすと笑った後に「響いてるんですね、よかった」と上の方から優しい声がした。


魔法使いから天使に格上げしたい。



1時間の施術の後に、折角だから明日もお願いしたいと伝えたが、

「明日は月に一日の ”治療をしない日” なんです」と申し訳なさそうに言われてしまった。

「そうですか、とてもよかったので残念です」と口では言ったけれど本当は物凄く落胆した。


帰り際、扉のところで

「それでは、ゆっくり休んでください」と言う彼に

「ありがとう、明後日が出張最終日で帰るんです。2日間助かりました」

とお礼を伝えると、坂元くんはちょっと驚いた後何か言おうとためらっているように見えた。

「どうかした?」と聞こうと思ったけど、一緒にいる時間を引き延ばしたくって黙って見ている。


「日中は用事があるんですが、夜、よかったらご飯いかがですか?僕の知ってる美味しいところに行きましょう」


「え?」

思いがけない申し出に声のトーンが上がったのが自分でもわかる。

「それはぜひ、嬉しいな。地元の人のおすすめ、楽しみです」

一も二もなく答える。



6

坂元くんはパーカーの上にコートを羽織って待ち合わせの場所に現れた。マッサージに来てくれた時の無難なポロシャツ姿とは大分印象が違う。その力の入ってなさが彼の自然な優しさによく合っている。

連れて行ってくれたのは、彼が中学卒業まで育ったと言う奄美の料理店だった。


紬を着た女将さんは丸顔にくっきりした目鼻立ちがかわいらしい南方系美人で、やっぱり話が止まらない。


「ルイトくん、久しぶりね!元気だった?今日は年上のお友達と一緒だね、よかにせ(いい男)ふたりで歩いてると女の子が放っておかないんじゃない。イケメンとダンディでいれぐいだね」とケラケラ笑う。

当の本人は「いれぐいってなんですか?」とか言っている。


年上と言われたが、それを通り越して親子程離れている。普段自分の年齢を意識する事はあまりないのに、こうやって自覚を促されるんだ。

ルイト、なんて漢字すら思いつかない名前も、いかにも平成生まれっぽい。


「ここの鶏飯(けいはん)食べてもらいたくって、でもまずは黒糖焼酎かな」





「鶏飯はね、鶏を使ってるところが多いんだけどね、うちは軍鶏シャモ、平飼いだから肉が締まってるの!噛めば噛むほどおいしいから、しっかり噛んでね。ご飯入れたらあまり時間置かないよ。柔らかくなる前にどんどん食べてね」


話をしながら、手際よく細く裂いた肉を出汁の入った鍋に投入してさっと混ぜる。

「このくらいでよかとな」

お椀によそって、シイタケ、錦糸卵、アサツキに刻みのりを乗せた後「召し上がれ!」と元気に手渡された。

「いただきます」と言うと、すぐに次の客のところに行って楽し気に話している。


そんな女将さんの背を目で追った後、坂元くんに視線を戻す。

「山崎さん、今日はずっと笑顔でしたね」

「え?あれ、俺これまでそんなに笑ってなかった?」

「最初会った時は、顔の筋肉が固まっているのかと思うくらい表情がかたかったですよ」

「うーん、こっちの人と話してるとみんなニコニコしてるから、つられて笑えるようになってるのかな。あとは坂元くんの鍼のおかげだな」


鶏飯をかきこんで、むぐむぐ咀嚼して飲み込んだあと、坂元くんが嬉しそうな顔で言う。

「そう言ってもらえるとすごく嬉しいです…山崎さんは、マッサージの反応がよかったです。触れたところからどんどん緩んでゆくのが分かりました」


こっちは治療してもらっただけなのに、何だか褒められたようで嬉しくなる。




鶏飯を頬張りながら、何気なく質問した。

「若い男性のマッサージ師ってあまりイメージがなかったんだけど、どうしてなろうと思ったの?」

正直、見た目も人当たりもいいから営業のお仕事したら結構稼げるんじゃないか、と余計な事を考える。


少し間が空いた。あ、面接みたいな事聞いて白けちゃったかな。

彼は一旦視線を外して、少し考えた後こっちを見て口元だけで笑った。

そしてそのあと続いた言葉に、聞いた事を後悔した。


「大切な人が、病気になったんです。その時にちょっとでも快適に過ごせれば、って思ってマッサージの勉強を始めたんです。学校を卒業する前に…..その人は死んでしまったんですけど、僕はそのままマッサージ師になったんです」

まさに面接の模範解答の様に短くまとめて、よどみなく答えた。もうそれ以上聞いてくれるなと言うように。


「それは…無神経なこと聞いてしまってごめん…なんと言っていいか」

「大丈夫です、気にしないでください」

ふるふると首を振り、今度は丁寧に作った笑顔を浮かべた。


少しよそよそしくなった空気の中、悲しい事を思い出させた罪悪感を感じながら、そんな風に現在の坂元くんまで規定している"大切な人”を羨ましく思った。



7

店を出ると雪がちらつき始めていた。

「どうりで…寒いわけだ」

空を見上げる顔に、髪に雪が降りかかる。


「あ、雪の桜島見えるかな?」

独り言のつもりで言ったのに坂元くんが反応してくれた。

「行ってみますか?」


タクシーをつかまえて海沿いの公園に移動する。降りる時運転手が何度も、寒いですよ、暗いですよ、帰りのタクシーが捕まらなかったら電話してください、と心配してくれた。年の離れた男二人、何か訳ありだと思われたのかもしれない。

気温は一段と低くなり、足元から冷え込んでゆく気配がする。こんな寒い雪の夜に出歩いている人なんて一人もいやしない。人影のない公園の東屋から数メートル先のコンクリートに当たる波音だけがやけにうるさい。


正面には雪雲の下の暗闇に桜島の輪郭がうっすらと浮かんでいた。

泳いで渡れそうな距離から見ると威圧感がある。

雪が積もっているかは分からないが、かなり大きい。

少し距離を置いて、二人とも黙ったまま暫く海の方を見ていた。



風に乗って雪が舞い込むので、コートのポケットに突っ込んできた折り畳み傘をさそうかと迷ってそっと横を見ると、坂元くんは身じろぎもせずに空を眺めている。

よく見ると、彼は静かに泣いていた。

見てはいけないものを見てしまったのだろうか。見ないふりをしてあげるのが親切なのだろうか。

昭和生まれとしては声をかけて慰めたくなる。

しかし、今目の前で背筋を伸ばして泣いている青年に、事情も知らない俺が何を言えるというのだ。




せめて雪で身体が冷えないようにマフラーでもかけてあげようと手に取ってみたけど、昨日今日会ったばかりでそんな事をしてよいものかと躊躇してしまう。けれど心より体の方が正直だ。横からマフラーを巻きつけながら彼を驚かせないようにそっと自分の方を向かせて抱きしめた。

雪がかからないように、泣いている顔を見ないように、少しでも安心してもらえるように。


一瞬強張った体からは徐々に力が抜けて行き、そして…

「う...ふっ……っ……」押し殺した嗚咽と共に肩が震え始めた。




腕の中で泣いているのは坂元くんで、それを抱いているのは俺なのに、入れ子の様に背中を抱きしめられているような気がする。

でも触れていることよりも、こうやって誰かのことを真剣に考えて慰めることが、不謹慎ながら気持ちよかった。

あぁ、そうか俺は人肌だけじゃなくて人が恋しかったのか、と今更ながら気が付いた。


暫くして大きく息を吐いた後しっかりとした声が聞こえた。

「…すいません。泣いてしまって。今日は、死んだ人の月命日なんです。毎月この日は彼の事だけ考えようと思って、他の人に触れないようにしていたんです」


坂元くんの言葉が俺の脳みそに届くのに少し時間がかかった。


「あ、え?触っちゃった、ごめん!」慌てて手を放す。


「いや、そうじゃないんです!違うんです。今までそうしてきたんですけど、そろそろそういうのを終わりにしようって思ってたんです。今日、こうやってその人の事を考えている時に抱きしめられて、ほんとはこうやって誰かに触れてもらいたかったんだって分かって…だから」


なんてことを言うんだ、そんな切ない事を言われたらまた抱きしめたくなってしまう。

少しためらった後、俺の腕は勝手に彼を抱き寄せる。

暖かく湿った息が首元に当たって、動物を抱きしめている様だ。


でも明日には帰ってしまう出張最後の夜、家からはるか1,000km以上離れた鹿児島で俺が抱きしめているのは、20歳近く歳の離れた青年だ。



8

「…その人も、亡くなる直前までよくこうやって抱きしめてくれました」

「彼、だよね?」一応確認をする。

「… …なんで、彼って…?」坂元くんが警戒して少し体を固くした。


「え?さっき彼って言ってたよ」

「…あぁ、そっか… …はい。あの、山崎さんこういうの平気ですか?」

平気…というべきかどうか、黙って頷く。


一瞬動きを止めて深く息を吐いてから坂元くんは言葉をつづけた。

「その人が、自分が死んだあと、気持ちが落ち着いたら沢山人と会ってさっさと次の人を見つけろって…。だからこの仕事を続けていろんな人と会おうと思ってたんです」


仕事でたくさんの人と会えと言っていた訳ではないと思うけれど、そこは突っ込まないでおく。

抱きしめていた腕を緩めると、半歩下がって手の甲で顔をぐいっと拭い、こちらを見上げる。その仕草が少年の様でかわいいし、臆することなくまっすぐ見つめてくるところが若いなぁ、と思う。


「でも、お客さんと…恋に落ちるのは難しいでしょ?」

「ははっ、確かにそうでした。ドアのところで、なんだ女じゃないのか、って言われた事もありましたよ」

なげやりに言いながら彼は瞬きして視線を外し、呟いた。

「本当は、山崎さんに初めて会った時にびっくりしたんです。…あの、ちょっと似ていたんです…」

似ていた…、死んだ恋人に似ているのか。

唐突な告白には軽くショックを受けたけど、いきなり懐に飛び込んでくるような悪戯っぽい会話の理由はそこか、と妙に納得した。


彼が見ているのは俺なのか、死んだ恋人のイメージを重ねているのか。そんな風に心の中で煩悶していると、おずおずと手が伸びてきた。

逃がさないように、というよりはバランスをとるために襟を掴まれ、そのままゆっくりと顔が近づいて来て口づけされた。冷たい空気のせいか少し乾燥した唇だった。

鼻の頭同士をこすりつける様に何度か角度を変えて唇を重ねた後、坂元くんの顔は離れていった。遠慮がちな拙い動きの割には迷いのないキスだった。


濃いまつ毛に縁どられた澄んだ白目の中にぬばたまの瞳が光っていた。青年らしい精悍な顔に人懐っこさの同居した表情でこちらをじっと見つめている。

僕からは以上ですが、山崎さんは?と言われてるみたいだ。

あー、もう馬鹿みたいに愛おしい。


耳を澄ませて辺りに人の気配がないのを確認し、両手でそっと彼の頬を包み込む。うっすらと開いた唇の隙間を舐めるように口づけすると、顎をしゃくり上げて求めてきた。

調子に乗って舌を挿し入れれば、息を飲む気配がした。お互いに舌を絡ませると冷えた体にそこだけが熱を持っている様だ。


42年の間、仕事も人付き合いもそれなりに覚えたし、結局別れたけど結婚もした。けれど、死んだ恋人を思って泣いた後、人は何を必要とするんだろう。


行き場のない死んだ恋人への思いが俺に向いているだけなのは薄々分かっている。彼にその自覚がない事も。

ただ、今は彼の欲しがっているものだけを与えてやりたい。間違いなどいつでも気づくことはできるし、気づかないまますぎたっていいのだ。

そうやって言い訳しながら彼の腰に手を回す。


もしかしたらこれが恋になるのかもしれない。

もしかしたら明日別れてもう二度と会わないのかもしれない。


どちらに転ぶにしたって、今はこの腕に彼を抱きたくて堪らないんだ。


終わり

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