にわか雨
私には鼻がないので分からないのだが、このように暑く蒸す日であるから、にわか雨に叩かれたアスファルトは強い匂いを発していることだろう。遠くの空がちぎれ、雲の割れ目からぼんやり色の太陽光が細長く降りた。それは何かの知らせのように見えて、かといって起こったことといえば通りがかりのタクシーに水しぶきをひっかけられたくらいのもので、雨に至っては降ることさえ辞めてしまっていた。なあんだ、何も起こりやしないじゃないか、思わせぶりな太陽光に食って掛かりたくなるが、私には口がないのでそうもできそうにない。
雨宿りにきた人たちが、からからいう鈴の音と一緒に喫茶店からでてきた。みんな空を見た。雨に代わって西日が降っていた。これに満足した人たちは、それぞれの行き先へ向かうのを再開した。束の間繁盛した喫茶店はたちまちがら空きになり、最後の女の子を吐き出すとついに無人になった。置いてけぼりみたいな顔のマスターがちらりと見えた。
最後の客は行き先がないのか、雨の匂いの残りを吸い込んで、のん気に背伸びをした。さあて、これからどうしようかな。そんな顔をした。そんな顔がふと私に向いた。足元を見たのは彼女が初めてだった。
最後の客の女の子はしゃがみこんで私を拾った。雨宿りの誰かが落としていったかな、今度は声に出してそう独りごちた。でも彼女の推測は外れていた。私はもっと前からここにいた。
女の子はあたりを見渡すが雨宿りの冷やかしたちはもう姿を消していた。放っておけば良いのだよ、私は言うが、私には声がないので抑止力にはなれなかった。彼女は困ったような顔をしてそそくさと歩き出した。君はどこへ行くつもりなんだい、煩わしさと興味深さを抱きながらせわしい歩調に運ばれた。
「すみません、携帯電話を落としませんでしたか」
言われたスーツ姿は慌てて胸ポケットを叩いた。そこには手ごたえがあったらしく、安堵した様子で微笑んだ。
「それは僕のじゃないよ」
「そうですか、失礼しました」
女の子は照れ笑いを隠して、恥ずかしそうに駆け出した。何人に追いついたところで持ち主はいないよ、私は言うが、私には声がないので助言してあげることができなかった。
「すみません、携帯電話を落としませんでしたか」
言われた若者は疑わしげに尻ポケットを叩いた。次には尻を見せて微笑んだ。彼のジーンズの尻ポケットからはたくさんのストラップがポニーテイルのようにはみ出していた。
「失礼しました」
女の子は尻に向かって言った。顔を赤くして駆け出した。
そもそも散り散りになった人たちを、ひとりも余さず質すことは難しい。女の子は申し訳なさげな顔をして、交番の届出にサインをした。どうしてすまなそうな顔をするんだい、君はよくやったじゃないか。私と警察官はたぶん一緒のことを考えた。
「だって、落とした人が悪いんだからさ」
警察官が私の言いたかったことを代弁した。私も強く頷いたが、私の首は動かないので彼女を慰めることはできなかった。
「あ、持ち主が現れた場合、連絡がほしければそこも書いてね」
逐一書き方を説明しながら、警察官は私を手にとってまじまじと眺めた。優しい目をした警察官だった。世界中を、とまではいかないが、小さな町を見守るための目だった。
女の子は悔しそうに去っいったが、私は満たされた。私の生涯に思い出と呼べるものがあるのなら、それは今日一日の出来事がすべてだった。それほど私の日々は緩急に乏しかった。
三回雨が降ったのち、ようやく持ち主が交番に現れた。
対応したのは先日と同じ警察官で、携帯電話のことをよく覚えていた。私はスチールロッカーの中から取り出され、ついに持ち主の手に渡った。
持ち主は落胆した。携帯電話は水を吸いこんで窒息死していた。ボタンを強く押し込むが聞こえたのは機械の軋む音だけだった。
「こないだにわか雨が降ったろう、きっとあれにやられたんだね」
「まいったなあ」
持ち主は今にも泣き出しそうだったが、何度か操作を続けるうちに諦めをつけたようだった。
受け取りのサインをして、死んだ携帯電話をポケットに入れた。私はポケットの暗闇に包まれた。視覚を失い、音も遠ざかった。捨てられることを覚悟した。彼は燃えないゴミの日に私を手放すだろう。不燃物の埋立地を想像して、悲しくなった。生きたまま埋められるというのはどんなに苦しいだろう。携帯電話は死んだが私は生きている。それとも私には命さえないのだろうか。
再び光を浴びたとき、私の目の前には女の子がいた。
「そうですか、壊れてしまったんですか」
持ち主は頷いて、そして礼を言った。
「交番で聞いたんだ。君が俺の携帯のために走り回ってくれたこと。それが嬉しかった。何かお礼ができるといいんだけど」
でも女の子は見返りを求めていなかった。届出のサインも謝礼を断るためのものだった。持ち主はお金を払おうとしたが、女の子は首を振った。
「俺の気が済まないんだ」
「お金はいりません。でも、もし何か差し出したいのなら、これを頂けませんか?」
彼女は私を指差した。
「でも壊れているよ」
「私が欲しいのは、こっち」
彼女は携帯電話から私を外した。
「猫のストラップ? もちろん構わないけど、こんなものでいいのかい?」
嬉しそうにうつむく女の子を、持ち主は不思議そうに眺めた。女の子は私を指でつまんで、頭上にかかげ、陽に透かすように私の動かない体を眺めた。
私は住処を変え、今では女の子の携帯電話の住人だった。今の持ち主は前の持ち主と違い、よく私に話しかける。私には声がないので、にわか雨のあの日のように届かない言葉で応えるばかりである。届かない感謝を並べるばかりである。