プロローグ
少し見づらいかもしれません…
私、桜田春は自分の容姿が大嫌いだった。
私のお母さんのお母さん…つまりおばあちゃんはスウェーデン人で私はいわいるクォーター。お母さんよりも色濃くおばあちゃんの遺伝子を受け継いだ私はお母さんは黒目黒髪なのにも関わらずプラチナブロンドの髪とエメラルドグリーンの目を持って生まれてきた。
外国なら気にならなかったのかもしれないが産まれも育ちも日本な私は小さい時から自分の容姿が親やほかの友達と違うことを自覚していた。
みんなと違う。そのことが心底嫌で私は自分の容姿を呪い、嫌いになった。
だって外を歩けば人からジロジロ見られるし、他の子と違うってことで幼稚園の時は男子にも女子にも散々からかわれた。まぁ、からかわれて何も言わずに俯いているような性格ではなかったからいろいろ言い返したりしてたんだけど。
一番つらいのはお父さんとお母さんといても本当の子供だって思われないこと。特に幼稚園の時はお迎えや行事で両親が来るとまだ気を使うということを知らない子供たちに「ぜんぜんにてない!」とか「ほんとうのこどもじゃないんじゃないのー?」とかいろいろ言われて、結構なポジティブ脳を持っている私でさえ一時期いろんな人から言われすぎて私は本当にお母さんとお父さんの子供ではないのではないかと疑ったこともあったほどだ。
小学校に上がってからもからかわれては言い返し、馬鹿にされては馬鹿にしかえして…ずっとそんな感じだった。本当はみんなと仲良くなりたいのにこの容姿がそれを許してくれなくて、やっぱり私はこの容姿が嫌いだった。
だけどある日、そんな私の考えを覆す出来事があった。
小学校二年生の夏休みの時、おばあちゃんがスウェーデンから私に会いに来てくれたのだ。
おばあちゃんは、私と同じプラチナブロンドの髪とエメラルドグリーンの瞳を持っていて私を見た瞬間優しく抱きしめてくれた。そして「skulle vara söt!(なんて可愛いんでしょう)」と言って私の頬っぺたにキスをした。
最初はどうしていいかわからずにただ慌てることしかできなかったんだけどおばあちゃんはもう還暦を過ぎているのに美しくて、かっこよくて…そんなおばあちゃんに褒めてもらえて私はとっても嬉しかった。中々お互いの国を行き来することは難しいのでおばあちゃんは一週間ほど私の家に泊まることになっていて、おばあちゃんと過ごす一週間は私にとって宝物だった。
毎日スウェーデン語を教えてもらったり女の子らしくするためのマナーを教わったり…毎日が新鮮で、とても楽しかった。一番うれしかったのはおばあちゃんとお母さんが目や髪の色こそ違えど容姿がそっくりだったことだ。
お母さんはおばあちゃんから見た目を。私は色を受け継いだのだと思ったら自分が本当にお母さんとお父さんの子供なんだって実感することができて私は自信を取り戻すことができたのだ。ちなみに背が高いのはおじいちゃん譲りらしい。
それに私の名前はおばあちゃんがつけてくれたものらしい。おばあちゃんは親日家で特に春という季節がお気に入り。お母さんとお父さんの結婚を許したのも名字に“桜”という言葉が使われていたことが大きかったほどなのよ、とお母さんとお父さんがいない時にこっそり教えてくれた。桜とくれば春しかないでしょう!とおばあちゃんはにこにこしながら私の名前の由来を語っていた。
おばあちゃんがいろんなことを教えてくれるたびに私はどんどん自分の事が好きになっていった。名前も、性格も…あんなに嫌いだった容姿でさえも。おばあちゃんと過ごす一週間はとっても充実していた。
楽しい時間はあっという間にすぎてしまい、とうとうおばあちゃんが国に帰る日が来てしまった。
帰ってほしくないとぐずる私におばあちゃんは
「har ett hjärta starkt och vackert(強く美しい心を持ちなさい) byggs från insidan
av yttre skönhet(外面の美しさは内面から生み出されるものなのよ)」
とウィンクしながら教えてくれた。
その言葉に何度も勢いよく頷いた私を抱きしめて、おばあちゃんはスウェーデンに帰って行った。
その日から私は180°変わることになる。
前よりも自分に自信が出て、からかわれても気にせずに堂々とすることが出来るようになっていた。毎日適当にしていた髪の毛も綺麗にしていたらからかわれることも少なくなってきた。
小学校3年生にあがるころには親に勧められたバレーを始めるとバレークラブの先輩たちはみんな大人で優しかったのでからかわれることもなく、沢山友達が出来た。運動神経も人よりよかったしほかの人より頭一つ分背が高かったので練習すればするほどぐんぐん成長して、バレーが楽しくて楽しくてしかたなくなった。
毎日が充実していて楽しくて仕方ない。
だけど順風満帆に行きはじめた時に限って不幸は訪れる。
お母さんが倒れた――――
そう聞かされたのはバレーの練習試合の前だった。急いで友達のお母さんが私を病院まで送ってくれてお父さんが来るまで付き添ってくれた。
お父さんは世界中を飛び回る営業マンで家にいないことのほうが多かったりする。お母さんが倒れたと聞かされた時ももアメリカに発つための飛行機に乗り込んだ後だったらしい。慌てて飛行機を降りてタクシーで来たのだが病院についたのはお母さんが倒れて5時間もたったころだった。
幸いお母さんは命に別条はなかった。もともと持っていた心臓の病気と貧血で倒れたらしく、体調がよくなるまで入院することになった。
お母さんが入院するなんてもちろんはじめてな私は不安で仕方なくてボロボロ泣いた。お母さんが死んじゃったらどうしようとかそんなことばかり考えていた。お父さんが来るまで病院まで連れてきてくれた友達のお母さんに抱き着いて泣いて、お父さんが来て友達のお母さんが帰った後はお父さんに抱き着いて泣いた。
お父さんが来て1時間後、目を覚ましたお母さんは「心配かけてごめんね」って弱弱しく笑っていた。そんなお母さんを見て私もお父さんも泣きながらお母さんに抱き着いた。お父さんはお母さんが病気で体調が悪くなったり検査入院したりしたのは見てきたが無期限で入院するということは初めてらしくお父さんも焦っていたのだ。
私は出来るだけお母さんのそばにいたくてバレーをやめると言いだし、お父さんに至っては家に私を一人にしてしまうからと仕事をやめると言いだした。今思えば私たちは混乱しすぎていた
そんな私たちに「そんなこと言わないで!まるで私がもうすぐ死ぬみたいじゃない!」と怒ってしまい、あんまり怒らないお母さんが怒ったので私とお父さんは「「はい…」」と答えるしかなかった。
お母さんはしばらくして退院したがそれからよく入院するようになった。私もお父さんもそのたびに焦って騒ぐけどお母さんに怒られて結局バレーも仕事も辞めず、お母さんがいないときはお父さんのお姉ちゃん…おばさんが私の面倒を見てくれていた。
だんだんその生活にも慣れていき、お母さんが入院することになっても騒がなくなった私は一時期は集中できなかったバレーにも熱中できるようになった。むしろ今まで熱中できなかった分さらに打ち込むことが出来るようになった。
もちろん中学校でも大好きなバレー部に入り、バレーに没頭した。中学生になるころには私の背はなんと170cmを超えており、中学3年生になった時には177cmまで背が伸びていた。さすがにそれからもう伸びてはいないがバレーをやっている身としては嬉しく、女子としては複雑な心境だ。
私は一度好きになったらとことん好きになるタイプのようで、昔は嫌いだった自分の容姿も今では大好きだし髪の毛もこのバカ高い身長も、バレーも。どんなに辛いことやひどい仕打ちをされても嫌いになることはなかった。
中学校に入ってできた友達からは「あんたが人を好きになったら一直線だよね」って言われてその時はよく意味がわかってなくて「うん!私みんなの事好きだよ~」って言ったら「あぁ…うん。ごめん、あんたがバカなの忘れてたよ」って言われた。確かに学力的には馬鹿かもしれないけど…
その日帰ってからテレビ電話でおばあちゃんに友達に言われたことの意味を聞いてみると「det står att min pojkvän(それはボーイフレンドのこと言ってるのよ)」と笑いながら言われた。なるほど…でも確かにそうだと思う。好きな人が出来たら私はその人しか見えなくなるだろう。だけど今の私は友達といたりバレーしたりするのが好きだから好きな人は当分できないだろう。できたとしてもバレー以上に好きな人はそう簡単に現れないと思う。
そう、思っていたのに。
私は中学校の青春を全てバレーに捧げてやってきた。高校でもそうなるだろうと思っていたし結果そうなっている。高校は近くにあるところじゃなくて少し離れたバレーの強いところに入学して、もちろんバレー部に入った。
そしたら出会ってしまったのだ。
…運命の人に