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我が内なる遊民性

作者: nkgwhiro

 イギリスとハワイは、旅先としては「月並み」であるが、何度か訪問していくと、実に味わいのある場所となる。


 ハワイは、常夏の国である。

 暮らすに何ら苦痛はない。ホテルのあるワイキキあたりにいれば、ハワイ気分に欠けるようなことは滅多なことでは起こらない。そこには非日常の世界が広がっている。

 朝は、陽の光が心地よく差し込み、ワイキキのビーチを歩けばこの世の憂さなどどこにあるのかと思えるようになる。

 ちょっと遅めの朝食では、グアバのジュースさえあればいい。

 夕方になれば、あちらこちらで、フラが催され、旅行客にこれでもかとハワイの風情を届けてくれる。旅人はそうした歓待に身も心もメロメロになる。


 だから、この天国のような島に、もう一度来てみたいと思うのだ。


 イギリスはハワイとは少し違う意味を持つ。

 ここには常夏はない。夏でもセーターを着なくてはいけない日がある。さりとて、寒くて仕方がないということではない。昼間、気温はシャツ一枚でもいいくらいに上昇する。

 この国が、多くの天才を輩出した理由は、きっとこの夏でも涼しい気候のせいであると思った。しかし、そうではないようだ。今でこそ、空は青く、空気は澄み、ロンドンを走る車は美しく塗装されているが、その昔はそうではなかった。

 石炭の煙が街には充満し、馬車を引く馬からの糞は道を汚し、匂いを撒き散らした。それはロンドンばかりではなく、オックスフォードやケンブリッジでも同じである。そうした悪環境の元でも天才を輩出したのはイギリス人が持つ能力だろうと言われた。


 ロンドンのパティンドン駅から一時間ほどでオックスフォード駅に着く。


 その日、私は一人、ロンドンで日暮らしぶらぶらしていた。

 ビートルズゆかりのアビーロード訪問を皮切りに、そこからは勝手気ままにロンドンの街を、時にバスで、また、地下鉄で、そして歩いて廻った。東京でも、そうした旅を好む私にとって、多少の疲れなど苦にもならないくらい楽しいひと時である。


 昼食は、チャイナタウンでとった。

 そこで、テムズに暮らすカモメが鳩を仕留め、それを公衆の面前でついばむという残酷な食事をしているのを目撃した。どの人も、道に出てきて、目を丸くしてそれを見ていた。

 そして、夜の7時までロンドンを堪能し、パティンドン駅から車中の人となったのである。

 夜の9時を回っても、夏のイギリスは暗くならない。不思議な気分である。9時半にオックスフォードの駅に着いたが、そこで夕焼けを見た。まことに不思議な気分である。


 遅い夕景の中、オックスフォードの街には、どこもかしこも花が植えられ、飾られているのも嬉しい。そして、あの独特の鼻にかかったイングリッシュが通りすがりの学生らしき青年たちの会話から聞き取れる。


 イギリスは文化の発展した高級感のある土地である。そして、それは日本のあり方とも似通って親近感を持たせてくれるのである。


 ハワイが常夏の非日常世界にわれわれを誘ってくれるとしたら、イギリスはより高度な精神世界をわれわれに提供してくれるのである。


 しかし、イギリスの物価は高い。ハワイなど目ではない。

 地下鉄初乗りに240円もかかった年がある。

 食事はまずいほどではないが、場所によって、名物のフッシュアンドチップスは油っぽくて食えたものではない。

 この国を4度ほど、それもその度に1ヶ月近く滞在していて思ったことである。


 そのイギリスで、敬愛する漱石先生も暮らしていたことがある。


 明治33年9月8日、漱石先生は横浜を出港した。

 長崎、上海、香港、シンガポール、ペナン、コロンボ、アデンとイギリスの植民地を経由する船旅であった。スエズを経てジェノバに着いたのが10月19日というから、1ヶ月を優に超える長い船旅であった。

 それでもまだ、イギリスにはつかない。さらにパリへ汽車で向かい、英仏海峡を渡って、ロンドンに着いたのが紅葉する秋の10月28日である。


 今では想像もつかない旅程である。


 成田を飛び立ったジェット旅客機は、シベリア上空を経て、スカンジナビア半島を横切り、北海を経て、グレートブリテン島を目指す。この間、12時間でしかない。


 しかし、その12時間は、現代人にとっては苦痛以外の何物でもない。

 それは時差があるからだ。体が、時間についていけないのだ。

 

 漱石先生の時代は、それはなかったからいい。しかし、2ヶ月あまりの旅程もまた辛いものがある。何れにしても、旅とは時間を相手に耐え忍ぶことでもあるのだ。


 その漱石先生が最初に宿泊したのは、ガワー街にあった長期滞在者用のホテルであった。そこの宿泊費が週で3ポンド12シリングであった。イギリスでは支払いも、労働者が貰う給料もすべて週単位でなされる。

 当時1ポンドは10円であった。ということは、一週間で、30円なにがしの値段である。


 この30円、当時の物価ではいかなる価値の金額なのか。


 ものの本によると、驚くなかれ、その価値は40万円近くになるという。ということは、月に160万円となる。明治の日本人留学生は殊の外お金持ちだったのだ。政府がそれだけ期待をして送り出したのだろう。

 

 漱石先生は、随分と優雅な留学生活をしていたと思っていたが、よく調べると、案外そうでもなかったようだ。

 漱石先生が国から支給されていた金額は月額150円であったという記録が残っている。

 ということは、漱石先生、下宿代だけで支給額の大方を使っていたことになる。

 彼は天才であるが、金の計算はできなかったようである。


 当時の国費留学がどのような仕組みになっていたかはよくわからない。そもそも、当時の文部省役人でさえ、留学などしたことないのだから、訳がわからないも当然だろう。でも、何でもかんでも、自分でやらなくてはいけないことだけはわかった。


 漱石先生も、国費留学できた以上、学校に行かなくてはいけない。

 ところが、当時の国費留学生は、自分で行くべき学校を探し、試験を受けて行かなくてはなかったのである。大変なことである。なにかも用意されている留学ではないのだ。現地集合、現地活動、現地解散、これが鉄則なのである。


 さすがの漱石先生も、宿泊代にいささか金を使いすぎたようだと気づいた。

 おまけに、目指すケンブリッジ大学の学費のあまりの高さに、漱石先生は面食らった。留学生割引などもちろんないが、それがあってもあの誇り高い先生がそれに乗るとは思えない。

 もっとも安い大学はどこかと留学生仲間の間で話題に上っているロンドン大学でさえ、漱石先生には馬鹿高く思えた。そんなに銭をかけて学ぶほどのこともあるまいと先生は思ったに違いない。留学生になったからといって、どこそこの大学に行けという決まりはないのだからと、漱石先生は金のかからない勉強の方法を考えた。


 そして、あのクレイグ先生のところに通うことになるのだ。が、それでも、授業料は1時間35,000円もしたというから驚きだ。

 

 地下鉄の初乗りの話は先に示したが、現在でもイギリスの物価の高さは尋常ではない。よく、イギリス人はやっていけると思う。もしかしたら、イギリス人は世界でもトップクラスの忍耐強さを持っているのかもしれない。


 イギリスを最初に訪れた際、ヒースロー空港で出くわしたインド系の人々の多さに、本当にイギリスに来たのかと訝ったくらいである。それくらいインド系の人が多かった。これは漱石先生も体験はしていないだろう。

 ロンドン名物の二階建てバスに乗って、その二階の先端に席を取って、安直なバス旅行をしていて気がつくのは、この街に種々雑多な民族が暮らしているということである。これは東京にはない光景である。明らかに、種々雑多な人々は旅行者ばかりではないことは明白である。ここで働き、生活をしている人々である。

 買い物をする店で働いている人たちも、ロンドンタクシーの運転手も彼ら彼女らである。一体、天才肌の英国人はどこへ行ったのだと探すくらいである。


 この日、私はホースガーズの衛兵交代式を見てきた。

 バッキンガム宮殿が奥にあり、左手にセント・ジェームス宮殿、そしてテムズに臨む出入り口にそれはある。今でも、その宮殿に通じる門は騎兵によって守られている。

 もとをただせば、これはあのクロムウエルが作った「胸甲騎兵連隊」である。

 由緒正しい英国陸軍の竜騎兵なのである。その衛兵交代式は観光客にも公開され、バッキンガム宮殿の衛兵交代式に並んで人気がある。その竜騎兵を見ても、種々の人種が混じっている。

 イギリスはすでに、多国籍の国になっているのである。


 きっと、漱石先生もイギリスの古き伝統である種々の活動をその目で見たに違いないと思う。

 1901年1月23日、漱石先生は前日に崩御されたビクトリア女王を悼むために、黒い手袋を買いに行った。そこで店員に「新世紀は不吉なことで始まりました」と告げられた。異国の、それもアジアの名も知らぬ国から来た学徒が、喪に服してくれる姿に感動して言葉をかけてくれたのだろう。


 一方、漱石先生も、食事を一回抜いてでも、これは喪に服すべきと考えたに違いない。同様に君主をいただく国の国民としての礼儀であるとも感じたのかもしれない。

 漱石先生はその後、『こゝろ』という作品で、主人公の「先生」の遺書の中に、明治天皇の崩御で一つの時代が終わったのだと記している。

 ビクトリア女王の崩御に際しての体験がきっとこの作品に少なからぬ影響を与えているに違いないと思う。


 それにしても、手袋代を捻出したのは漱石先生らしいくて微笑ましいが、先生はイギリスで新しい世紀の始まりをどう見たのだろうか。


 ロンドン中、皆が皆、二階建て馬車で慌ただしく動き回り、経済という化け物に振り回され、馬の糞尿とコークスの混じった異臭の中で生活し、しかし、それでも世界に冠たる大英帝国を維持するためには仕方がないのだと得心していることを感じ取ったのではないか。


 それゆえ、先生の作品には、近代化への苦悩が示され、その中で生きる人々の姿が描かれるのだと思う。


 漱石先生が描く高等遊民。

 あくせくした時代に仕事もせず、暮らす青年たちが描かれるが、なぜかそのあり方に、私は同調してしまう。

 時代がそうだからからか。

 それとも我が内面に遊民性があるのか。……。それはわからない。


                                          了

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