第15話『一時休戦』
莉緒と美緒が鬼ごっこ的な事をしているのと同時刻。こちらでも鬼ごっこが__と言ってもそんな生易しいものではないが、発生していた。
「ま、待ちなさい!」
「うわぁ、早いってばぁ!」
佳奈恵が悲鳴をあげるも、追いかけるリンの速度はそこまで速くない。佳奈恵の速さを相手に本気を出すまでもない、と言えばそれまでだが、そもそもリンの体力も先の戦闘で随分と削られているのだ。
そして逃げる佳奈恵の方はというと、かなり必死に逃げているのがわかる。その証拠に走るのではなく転移魔法で飛んで飛んで飛びまくっている。
佳奈恵の身体能力はお世辞にも高いとはいえない。加えて体力もそんなにない。手抜きで走っているリンの速度を速いと評していることからも分かる通り、普通に走ると結構遅い。そんな事ではリンから逃げるなど到底不可能だ。
故に彼女は、自身の魔導を応用して、あちこちにランダムに、即席の設置型転移魔導を放っては転移で逃げるという、無理矢理感のある強引な方法で逃げ回っているのだ。
こうでもしなければ、いくら不調のリンが相手でもすぐに捕まってしまう。魔導の不調は身体能力とは関係ないのだから。
捕まるだけならまだしも、近接戦闘で佳奈恵がリンに勝てる可能性はなんの誇張でもなくゼロだ。瞬殺される。
だが、その悪足搔きにも限界が近づいていた。魔力を使いすぎて、佳奈恵も体力がつき始めていたのだ。
「このままじゃ……」
このまま逃げ続けても、すぐに捕まるのは目に見えている。こういう時のために一応対応策も用意してあるのだが__
「……ダメだ、まだ使うには早い」
佳奈恵は頭を振ってその考えを打ち消す。
今まだ逃げることができている以上、貴重な逃走手段をそうおいそれとは使えない。なにせ、その逃走手段は3つしか設置していないのだから。かと言って、今の消耗した状態で派手に魔導の行使を実行すれば、それこそすぐに力尽きてしまう。
今取れる対応策は、簡単な足止めしかない__!
「リンちゃん、止まってもらうよ!」
「っ……⁉︎」
少し後ろを振り返った佳奈恵は、手を後ろに振って魔法陣を飛ばした。それは決して大規模なものではなく、むしろ小さなものだった。それが10ほど、リンの目の前に展開される。その魔法陣から飛び出したのは、光る細い糸だった。
それにぶつかったリンは、瞬間動きを封じられる。
「えっ……、これってまさか、蜘蛛の巣⁉︎」
驚いて声を上げたリンの言葉通り、彼女の動きを縛っているのは大きな蜘蛛の巣だった。正確には、蜘蛛の巣状に象られた魔力で紡がれた魔法なのだが。
本当に蜘蛛の巣状というだけなら、リンにとっては本当に僅かな足止めでしかなかった。本当に、蜘蛛の巣状というだけなら。
「ちょ……うえぇ、ベタベタする⁉︎」
リンにとっては残念なことに、質は本物の蜘蛛の糸と変わらなかった。しかも、慌てて拘束から脱しようとすれば、余計に糸が絡み付いてその動きを封じる。のんびりしていれば佳奈恵に逃げられるというのに、リンにとっては宜しくない状況だ。
加えて、空中で動けないリンを箱型に囲うように、魔法陣が上下前後左右に展開される。そこから今度は、煙幕が勢いよく噴き出した。
「ケホッ、ケホッ……しまっ、目眩し⁉︎」
「ごめんねリンちゃん、こうなったら勝てる気がしないから、逃げさせてもらうよ__」
「ま、待って……ケッホ、ゴホッ……!」
叫び声は煙幕の吹き出す音に虚しく掻き消されて、リンはみすみす佳奈恵を逃してしまったのだった。
「……直撃はしたけど、手応えイマイチっすね」
周囲を漂う霧。それは莉緒の視界を阻害し、少なからず彼女にストレスを与えていた。だが、そんな事は些細なものだ。
莉緒にとって、今の感触に違和感がありすぎてしょうがない。
仕方なく霧を振り払おうと短刀に魔力を込める。それによって炎が灯り、熱風を伴う一振りで霧を消し飛ばす__はずだった。
実際には、短刀に炎が灯る事すらなかったのだ。そしてその事に、いよいよ莉緒は怪訝そうな表情を浮かべる。
仕方なく体に魔力を循環させて、周囲の温度を上げる。やがて霧は晴れて、そうして漸く、莉緒は違和感の正体に気がついた。
「……刀身が、凍りついてる」
普通の刀より一回り短いその刀の半分以上が、透き通るような氷に飲まれていたのだ。
それはつまり、美緒の冷気を受けてしまったという事だが、今の美緒の冷気に影響されるほど、莉緒は弱い力をふるってなどいない。今の2人の差には、愕然としたものがあったはずなのだ。
加えて、莉緒の超高速の一撃を見切る事は不可能に近い。人や実力差にもよるが、少なくとも今の美緒には対処できるわけがないのだ。
それでも莉緒は、動揺しなかった。
その事実を、ありのままに受け止めたからだ。
今の美緒には対処できないはず、と言う考えを、今までの美緒なら対処できていなかった、と言う考えに転換したからだった。
当然2人とも得意分野というものがあるが、それを抜きにすれば、2人の才能にはほとんど差がない。
ならば、莉緒にできた事が美緒にできても、何もおかしな事はない。
つまり。
「『神話憑依』__それも、第2段階っすか」
刀身に魔力を込めて氷を溶かそうと試みる。だが、その氷は溶けはするものの簡単に溶けそうにはなかった。
霧が全て晴れると、地面にできたクレーターの真ん中に美緒がいた。
制服の上から、青い着物を楽に羽織って、帯で固定している。
『神話憑依』の限定神装とも言われているものによる変化だ。これが『神気霊装』なら全て完全に変化するのだが、まだ完全でない『神話憑依』では、一部しか変化しないという事らしい。
ちなみに莉緒もまた、赤い着物を同じように羽織った状態である。
動揺はしなかった。だが、そこには少なからず驚きはあった。
彼女が唯一信じられなかった事、それは。
「__よくあのタイミングで、自分の攻撃を受け止められたっすね」
神技が発動し、もはや躱すのは不可能。そんな状況下で、あの速度で迫る一撃__否、5撃を、しかも『神話憑依』を発動させ受け止めるという判断の早さ。
もし始めから同じように『神話憑依』を発動させていたのなら受け止める事は可能だろうが、今回のタイミングはあまりにも異様だった。
だが、それを美緒は特にどうという事もなく頭を横に振る。
「難しい事じゃないわ。あなたのそれを、私は何度も見てきているから。あなたが速い事も、そして仕掛けてくるタイミングも、完璧でこそないけれどある程度は感覚でわかるもの」
「簡単に言ってくれるっすねぇ」
「全然。簡単なんかじゃないよ。今言ったでしょ、完璧じゃないって」
そうして美緒が、ホラ、と腕を広げて見せる。次の瞬間、彼女の左脇腹と右太腿、そして右肩に大きな裂傷が生まれて血が噴き出した。
「莉緒の言いたい事はわかるし、実際その通りだよ。あのタイミングで、完璧に受け切るなんて無理」
「いっそ気持ちいいくらいハッキリ言い切ったっすね……」
「事実だから。それに……もしかしたら、いずれ止められるようになるかもしれないよ?」
「そりゃ勘弁っすわ」
切り札が、神技がそう易々と受け止められては敵わない。そんな未来は是非とも来ないで欲しいものだ。そんな事を考えていると、美緒の傷が塞ぎ始めるのと同時に美緒が立ち上がり、限定神装を解除する。
「……何のつもりっすか?」
「提案よ。取り敢えずここは一先ず休戦と行かない?」
「休戦? そりゃまたなんで?」
唐突に美緒の口から出た言葉。それを理解できずに莉緒が疑問を投げかける。美緒は傷を気遣って小さく頷くと、
「本当はこのままやってもいいんだけど、私の……というよりは、私達のかな。とにかく、目的を達成できちゃったから」
「目的? ……っ、まさか⁉︎」
今度こそ莉緒は動揺の色を見せた。
元々美緒が現れたのは、そしてリンの前に佳奈恵が現れたのは、莉緒とリンの足止めなのだ。将真と猛が、一対一で勝負して決着をつけさせる為の。
そして、その目的を達したという事は……。
「まさか、将真さんが……」
「大丈夫」
その想像を口に出したのと同時に、美緒が口を開く。そして、何を言い出すのかと思えば、
「莉緒の想像してる事にはなってないと思うから」
「……そうっすかね?」
「ええ。ハッキリ言うと、途中まで将真さんが圧倒的に不利になってたみたいだけど、ついさっきからどうも形勢逆転したみたいで」
「……それってまさか」
「空気の流れからも僅かに感じる。将真さん、魔王の力使ってるよ」
その言葉に、莉緒は息を呑んだ。
学園長にも使わないように釘を刺され、彼自身使いたくもないと言っていた『魔王の力』。それを将真は、猛相手に使っている。
一体どういう状況なのか、見当がつかない。
「なんで、魔王の力を……」
「多分、本人の意思じゃないと思う。戦況から考えて、猛が変に追い詰め過ぎたのかも」
「……それなら可能性はあるっすけど」
だとしたら、将真は危うく負ける一歩手前だったということだろうか。
複雑な心境を抱く莉緒。それを何となく察してはいるのだろうが、それはそれとして美緒が再び、提案を持ちかけてくる。
「それで、休戦は承諾してくれる?」
「……確かに、将真さんが取り敢えず大丈夫そうだということはわかったっす。けど」
莉緒が彼女の持ちかけた提案を渋る理由はもう一つある。それは__
「何より、1番に巻き込まれたリンさんの安否がわからないんすよねぇ」
将真の状況は把握できた。だが、まだリンの状況がどうなっているのかは不明だ。それを知るまでは、例え知れたとして、彼女が無事でなければ承諾しかねる。
だが、それも杞憂に終わる。
「それも大丈夫。確かにさっきの爆発は凄かったけど、今はむしろ佳奈恵さんの方が追いかけ回されてるみたい」
「つまり?」
「佳奈恵さんの怒涛の設置型魔導を乗り切ったという事。つまり今回、私達の小隊は今のところ無事とはいえ完敗ってところね」
美緒が少しばかり残念そうに溜息をつく。そして莉緒はというと、リンの無事を聞いて安堵の息を吐いた。
そして、少し考える様子を見せて、莉緒は頷く。
「……わかったっす。このまま戦闘を続けてもこっちにメリットはないし、2人の無事は確認できたし」
「助かるわ。でも次に会った時は、今度こそあなた達を負かしてみせるから」
「そう簡単にはやらせないっすよ」
莉緒の返しを聞き届けると、美緒は即座に魔力反応がする方へと跳んだ。
「……さて、じゃあ自分も行くっすかね」
名残惜しさを感じながらも、小さく溜息をひとつついて思考を振り落とす。そして『神話憑依』を解除して、美緒と同じ方向へと駆け出そうとした。
その時だった。
ズン……、と。
鈍く、小さく、だが確かに、地面が揺れ動いた。




