第48話『トラウマ』
柚葉が『裏世界』にやって来たのは、今から10年前。丁度中学生になったばかりの頃だった。
別に複雑な理由はなかった。才能を見出された彼女は、まるで来るべくしてやって来たのだ。
そこで彼女は、とある男子生徒と知り合った。そして、少なからず彼の友人とも接点を持つようになる。彼女にとって一つ歳上の先輩に当たるその3人の男子生徒は、中等部にして既に相当な強さを誇っていた。
1人は、例の事件以降行方不明だが、高等部に上がればすぐにでも学園序列トップクラスを取れるだろうと思われていた実力者。
1人は、その才能を磨き続けて、現在団長になる迄に至った、努力の塊のような人。
1人は、その2人よりも更に強く、そして__彼女が恋した、いずれ魔王になる少年だった。
その少年は、日比谷樹と言う名前だった。育ちが『裏世界』という事以外は柚葉と同様、特にこれといった事情がない、普通の少年だった。
だが、彼には才能があった。そしてその才能をちゃんと使えるように、鍛錬と言うほどではないが、それなりに鍛えていた。
親友だった少年たちは強かったが、樹の強さは更に上だった。
樹は他人に優しかった。特に、こちらの世界に来たばかりで不安そうだった柚葉に対しては、よく世話を焼いていた。
だが、同時に彼は、地震に厳しかった。特に、柚葉がこちらの世界に来てから。
そんな樹と共に行動するうちに、柚葉は樹に惹かれ、恋をする。樹が高等部に上がってすぐの事だった。柚葉にその気持ちを伝えられた樹は、彼女を快く受け入れた。
その時点で、彼はとんでもない爆弾を自身の中に抱えていた。その自覚も、あった。
彼はそれを柚葉に伝えられずにいた。否、誰にも言えずにいた。
そして、遂に事件は起きる。
樹が、柚葉と付き合い始めてから1年と4ヶ月。
その時期は、何の因果だろうか、現在起きている問題と同時期、7月に入ったばかりの頃だった。
「樹先輩!」
「やぁ、柚葉ちゃん。どうしたの?」
「えっと……今回の任務、危険だって聞いたので。あの、私も一緒に__わぁ⁉︎」
樹が、柚葉の頭をクシャクシャと撫で回す。樹が手を離したとき、恥ずかしそうに柚葉が上目遣いで睨みつける。
「大丈夫。僕たちは強いからね。ちゃんと帰ってくるよ」
強いと言うのは事実だ。
高等部一年にして、彼の小隊は学年トップで二、三年に匹敵するほどだった。それから1年経っている。更に強くなっているのだ。
そして3人とも学園序列にすら名を連ねるほど。そう簡単に負ける要素がない。
だが、柚葉の気持ちはわからなくもない。自分の大事な恋人が危険な戦地に行く。不安に思うのも無理はなく、それはむしろ当たり前な心理なのだ。
だが、
「君に心配されるほどの事じゃないよ」
「これでも結構鍛錬してるんですよ⁉︎」
心外だ、と言わんばかりに柚葉が膨れっ面になる。確かに、彼女もまた高等部一年で序列1位という優秀な成績を誇り、それでいて鍛錬を怠らない。この姿勢はまあ樹を見習ってのものだが、それにしても大したものだ。
「でも、僕らは2年だよ。一年と任務に出ようと思ったら大隊じゃないと」
「……そんなに嫌ですか、私がついていくのは」
むすっと傷ついたように顔を背ける柚葉。その体を優しく抱きとめて、その耳元で樹はボソッと呟く。
「……良い子だから、ちゃんと留守番してるんだよ」
「ひゃっ⁉︎」
瞬間、柚葉は飛び上がる。その隙をついて、樹は先を急いだ。
「あ……た、樹先輩! 〜〜〜もう、先輩の馬鹿ー!」
別に本気でこれば追付ける距離だろうが、聞き分けたのだろう、柚葉は追いかけてこなかった。
「お前、慣れてるな……」
いずれ団長になる少年は、顔をひくつかせて思わずといった様子で呟く。もう1人は無言のままだ。
「まあ、さっきああは言ったけれど、危険だっていうのは本当だからね。吸血鬼の貴族が3人なんて__流石に、どう転ぶか分からない」
どの道、無理を言ったところで彼女は連れて行けないだろう。だからこれで問題ない。
樹と柚葉が、まともな会話をしたのは、これが最後だった。
「そんな……」
柚葉は呆然と、破壊されつつある街の中に立っていた。
「住民の避難は⁉︎」
「まだ4割しか進んでないぞ!」
「くそ、何で吸血鬼の貴族が……!」
あちこちで悲鳴や、自警団や学園高等部の人たちの怒号が上がっている。
柚葉は何となく気づいた。
樹だけではない。吸血鬼の貴族が、都市周辺に来ていることは、他の小隊や自警団も動いていることから知っていた。
だが、その手薄になった瞬間を狙ってくるとは思いもよらなかった。そんなに奴らの層が厚いはずがないと。誰もがそう思っていたのだ。
だが、その中には幾つかのガセネタがあった。吸血鬼の貴族ではなく、高位魔族と言うのが正解だ。
だから、吸血鬼の貴族がこんなにも入り込んできたのだ。
今の都市の戦力では、一体どれだけの犠牲が出るか。だが、諦めるわけにはいかなかった。柚葉は、学年序列1位だったから。
襲撃があって3時間が経ち、自警団や学園高等部の部隊も体力が限界に達しようとしていた。
柚葉もまた、体力が底をつき始めていた。吸血鬼の貴族を二体、普通の吸血鬼を五体という、今の彼女の年齢を考えれば凄まじい成果だが、それでも追いつかないくらいだった。
柚葉は、息を荒げながら思わず、弱々しく呟いた。
「どうしよ……樹、先輩……。私、死んじゃうかも、しれないです」
目の前には、既に別の吸血鬼が迫っていた。
半ば絶望を覚えていた時、その吸血鬼たち__数にすれば十何体はいたものが、瞬時に消し飛んだ。
「……へ?」
「……大丈夫だよ、柚葉ちゃん」
「樹、先輩……⁉︎」
それは、樹の攻撃だった。たったそれだけで、吸血鬼が瞬時に消し飛んだのだ。
助けてくれた最愛の先輩に対して、だが柚葉が上げた声は歓喜ではなく、疑惑に近かった。
「それは一体……何ですか?」
白髪に浅黒い肌。黒い双眸に金の瞳。
袖の長い黒衣に、黒の鎧。漆黒の剣を構えて、樹は柚葉に笑いかける。
「ごめん」
そして、再び樹は、小隊を率いて戦地に飛び込んでいく。
「先輩! 先輩__!」
柚葉の声は、聞こえたのかどうかもわからない。
彼らは、たった3人で吸血鬼の数をみるみる減らしていった。だが、彼らの疲労も極限に達しているはずだった。
そして、その時が来てしまった。
樹たちは、吸血鬼の貴族に囲まれていた。その数は五体。今の疲労した彼らでは、流石に絶体絶命だった。
「ちくしょう、どうするんだこれ……!」
「……倒す他にない」
「でも体力的に辛いかな……」
樹が、表情に暗い影を落とす。それを2人はどう判断したのだろうか。
そして、樹が再び口を開く。
「2人は、別の部隊を助けに行って」
「なっ__」
「お前バカか⁉︎ 3人でも生き残れる確率はほぼ零! それを1人でやる気か⁉︎」
「策はある。ずっと黙っていたけれど、僕のこの力は、『神話憑依』なんかじゃないよ」
だから、と樹は続ける。
「僕に力を貸せ__魔王よ」
樹の身体中から、黒い瘴気が立ち込めて彼を包み込む。
「お前、それ__」
「いいから早く行けっ!」
樹は、珍しく強い口調で言った。2人は、それに頷いてその場を離れる。
だが2人は後に、それが失敗だった事を知る。
「う、あ……あ、ああああああああああっ!」
樹が、頭を抑えて空中で蹲る。負担に耐えきれないが故の激痛。絶叫。
もう樹は、助からない。
「ああああああああああっ__!」
魔王が、君臨する。
魔王と化した樹が、吸血鬼を全滅させたのは、まさに一瞬の出来事だった。
そして、街を破壊し始める。
魔王の力に耐えられないのか、地面にはヒビが入り、その下の階層まで見えてしまうそうだ。このままでは、シェルターを破壊しかねない。
柚葉は動き出した。
限界は近いけれど、自分がやるしかない。他の人たちが来るまでの時間を稼がなければ、一般人の人たちが危ない。
それに、柚葉は信じたくなかったのだ。あれが、自分の最愛の人だとは。
「樹先輩__!」
「……」
柚葉が、樹の懐に飛び込む。だが、彼が無造作に振り抜いた漆黒の剣が、柚葉を叩きつけ吹き飛ばす。
「がふっ……!」
柚葉は、近くの建物にぶつかって瓦礫と共に地面に落ちる。だが、彼女は諦めずに立ち上がり、再び突進していった。そして再び吹き飛ばされる。
それが一体何度繰り返されただろうか。ついに立てなくなった柚葉の下に、樹が降り立った。
柚葉は、自分を見る樹の目を見て理解した。もうこの人は、私の知っている、私が大好きな先輩ではないのだと。
首を掴まれ、持ち上げられる。意識が遠のきかけた柚葉は、半ば自動的に口を開いた。
「樹、先輩……。先輩、の、友達は、無事で、す……。学園の、生徒もっ……街のみんなもっ……。私も、大丈夫、です。大丈夫ですからっ……もう、大丈夫ですからっ……!」
「……っ!」
すると、樹の手の力が緩んで、樹が後ろへ飛んで距離をとった。
地面に落ちた柚葉は、咳き込みながらそれを見た。
「う、ぐ、うぅぅぅぅっ……!」
「樹、先輩?」
「あ、う、ぐぅぅ……、柚、葉、ちゃん……」
「先輩!」
よかった、戻った。柚葉はそう思い、歓喜の声を上げる。だが、それとは逆に樹の声は悲痛に揺れていた。
「お願い、が、あるん、だ……」
「お願い、ですか?」
「そう、お願い、だよ……」
身体中を走る激痛に耐えながら、樹は無理して作った笑みを顔に貼り付ける。そして、柚葉にとって余りにも酷な事を、そのお願いを、樹は口にした。
「君の、手で……僕を、殺してくれ……!」
「え……?」
「何とか、止められる、方法があるのなら……そうするけど、もう、無理だ……! これ以上はもう、持たないっ……! 僕の意識が、保たれている、今の内にっ!」
「そんな、そんな事……出来ません……」
「頼む……、魔王が、完全に、復活し、たら……それ、こそ、人類の、滅亡だっ! だから、お願い……君の手でっ、僕の意識が、ある内に!」
「何で……何で私なんですかっ⁉︎」
そんな事できない。
ただの力の暴走とはわけが違うのはわかっている。ここで樹を止めなければ、殺さなければ、本当に人類は滅ぶだろう。いや、目覚めた直後なら魔王を倒す事は叶うかもしれないが、それで一体どれだけの被害が出るだろう。そして、一体どれだけの短い期間で、再び魔王が目覚めてしまうだろう。
1番いい方法は、ここで。まだ被害が出てない今ここで、彼を殺す事だ。わかってはいる。だけど、そんな事、柚葉には到底出来なかった。
樹は、柚葉の悲痛な問いに、苦しそうに、だがそれでも、簡潔にして絶対の気持ちを伝えた。
「君が、好き、だ、から……だよ……」
「そんな……そんな事言われても__!」
できないものはできない。
柚葉は思った。これが、よくある物語だったらいいのに。
もしこれが、都合のいい物語の中だったら、樹は魔王化ではなくただの力の暴走で、それは別に、世界滅亡というほどの事はなくて、自分にはそれを何とかできる力があって、そんな物語の中だったら、どれだけ幸せだっただろう。
柚葉がイヤイヤを繰り返していると、樹はついに、怒号を上げた。
「早く、するんだっ! 手遅れになる、前に……!」
その声に、柚葉はビクッと肩を揺らし、その目に涙を溜める。それはみるみる内に大粒の涙になって溢れていった。
柚葉は泣きながら、なけなしの魔力を拳に込めて樹の元へと歩みを進めていく。
そして、樹の目の前まで来た時、柚葉は全てを忘れて樹に抱きついた。
「……先輩」
「……何だい?」
「……私も、一緒に死んじゃダメですか?」
「そんな事は、絶対に、許さない、よ……。君に、は……弟も……いるんだろう?」
「……でも、でも……っ!」
樹は、柚葉の頭に手を乗せて、そのままゆっくりと、痛みに耐えながら頭を撫でた。
「ごめん、ね……」
君は、生きて。
樹のその言葉を最後に、柚葉が今まで生きてきた中で最も凄まじいであろう絶叫を上げる。
「ああああぁぁぁぁああああっ!」
その拳は、心臓を貫くような鋭いものではなく、ハンマーで殴りつけたかの如き衝撃を与え、柚葉の拳には、骨を砕き肉を潰す嫌な感覚が確かにあった。
寸前、樹が何かを呟いたが、それが何だったのかはわからなかった。
強烈な爆発音と共に、事件は終息を迎えた。被害は甚大、〈日本都市〉に多くの爪痕を残して。




