第56話『喧嘩、決着』
最近、遅刻が多くてすいません。
今回の話は長めですが、どうぞー。
「がっ……⁉︎」
壁に叩きつけられ、苦悶の声を上げる。
ズルズルと壁を滑り落ち、ピクピクと痙攣する少年を、もう1人の少年が見ていた。
その目は、少し悲しそうだった。
「なぁ、もういい加減にやめないか? __猛」
「ふざ、けんじゃ、ねぇ……」
よろよろと、覚束ない足取りで立ち上がるのは猛。前回とは打って変わって、戦況は将真の圧倒的優位だった。
ゾーンは既に解けていた。いやそもそも、初めの数回の激突が終わってから、既に解除していた。必要ないと判断したからだ。
理由は単純。将真が前回より強く、また猛が前回より弱くなっていたからだ。
と言うより、猛に雑念が多すぎる気がしてならないのだ。これでは戦いにならない。タダでさえ将真は『魔王』の力を使っているのだから。
だが、それでも猛は戦いをやめるつもりはないらしい。壁に叩きつけられたダメージが思ったより小さいのか、猛は少し間を置くと、肉体を強化して一気に接近してきた。
「おあああぁぁぁぁぁっ!」
「うっ⁉︎」
予想外の早さに、将真は虚を突かれて体勢を崩す。だが、追加攻撃を避けるために、すぐに将真は後退する。
正直動けるようなダメージではないはずなのだが。
ただ壁に叩きつけただけなら大したことはないのかもしれなかった。……手加減は一切しなかったのだが。どころか、一般人なら即死、並みの魔導師でも全身が粉砕骨折していてもおかしくないダメージのはずなのに、それを猛は耐えたのだ。
それでもやはり、ダメージはあったのだろう。振り下ろされる剣は、よく観察してみれば、速さも重さも足りていなかった。
「っらぁ!」
「ぐぁ__!」
力量で勝る将真が、いとも簡単に猛を押し返した。踏ん張りきれずに、猛は後方に飛ばされる。
だが、流石に押し返されただけで大したダメージにはならないようで、危なげなく着地してすぐ、再び突進してくる。
横薙ぎに振り抜かれる斬撃を、将真は逆方向から切り上げ、そのまま猛の剣を弾き飛ばす。武器を失った猛は、それでも構わず拳で殴りかかってくる。
自分の身を省みず戦い続ける猛は、痛々しく見るに耐えない。将真は奥歯を鳴らした。
「『ふざけんな』は、こっちのセリフだ……。いい加減にしろ、バカヤロォー!」
「がぶっ⁉︎」
猛の拳は将真に躱されて空を切る。逆にカウンターで放った将真の拳は、見事に猛の顔面に吸い込まれるように突き刺さる。
骨を砕き、肉を潰す感触があった。
天井ギリギリの高さまで、まるで大型車に撥ねられたような勢いで吹き飛ばされる猛。背中を強く打ち付けた壁が、衝撃に耐えきれず砕け散って、共に落下する猛を下敷きにしていった。
流石にもう立ち上がれないだろう。そう思っていた将真だが、数秒足らずで瓦礫が盛り上がり、吹き散らされた瞬間、中から猛が出てきた。
全身血だらけで、呼吸が荒い。平然と立っているのが不思議なほどだった。いや、平然としているわけではなさそうだが。
「……なん、で、だよ」
「……は?」
「何で、何で勝てねぇんだよ⁉︎ クソッ、何で魔導師になって一年も経ってねぇテメェの方が強ぇんだよ! 俺が、一体今までどれだけ努力したと思ってんだ!」
「お前の努力なんか、俺が知るわけないだろ」
「__」
「それにお前、ある程度正気に戻ってるみたいだしな。『魔王因子』ってのは、正気で扱えるものじゃないんだろ?」
『魔王因子』は、宿主の心を黒く塗りつぶす。狂気に呑まれればそれだけ本来の力を発揮していく。当然だ。制御が外れていくのだから。
だが、逆に正気で扱おうものなら、無意識に制御がかけられて力を発揮できない。死期を感じて一度、変に落ち着いてしまったのが運の尽きとも言えるだろう。
そもそも、心で負けている。
どうせ死ぬなら、とマイナス思考で考えているようでは、何が何でも猛を連れ戻して全員で帰るんだ、と息巻いている将真に、敵うはずもなかった。
「頼むから、もうやめてくれよ……。今のお前とは、戦いたくない。しんどいんだよ、これ以上は」
「『魔王』の力が、お前の負担になってるからだろ……?」
「違う」
そう答えると、将真は『魔王』の力を抑え込んだ。そこにいるのは、魔属性魔力を扱うだけの、1人の魔導師だ。
「無駄だろうが、こんな戦い。そんなやりたくも無い戦いで、何で仲間を自分の手で傷つけなくちゃならないんだ。しんどいんだよ、身体じゃなくて、心が痛いんだ」
「何を腑抜けたことを__、っ⁉︎」
立ち上がろうとする猛。その膝が突然、ガクンと崩れ落ち、受け身も取れずに再び倒れる。その表情からは、動揺しているのがよくわかった。
「な、なんで、なんで立てない……?」
「わからないのか? いい加減気づけよ。お前の体はもう、とうに限界を超えてるんだ。そんなボロボロの体で、むしろまだ動く気力があるだけ、お前は化け物だよ」
「…………」
「でも終わりだ。諦めろ。もうお前に、勝ち目はないよ。自分でもわかってるんだろ?」
これ以上猛と戦い続けていれば、将真は負けることはないだろうが、猛の命の方が危険すぎる。今ですら、非常に危険な状態で、もう戦いはやめるべきだ。
「戻ってこいよ。お前が妹を大事に思ってんのはわかったけど、お前にあるのは妹だけか? 違うだろ。お前にも、仲間がいるだろうが!」
「……うるせぇ……」
「お前の妹がもし目覚めなかったとしても、それは仕方ないだろ! お前は、妹だけに執着して、仲間を切り捨てるつもりかよ⁉︎」
「……黙れ……」
「美緒や佳奈恵、他の奴らと過ごした日々は、全部まやかしかよ! 違うだろ、お前だって、楽しかったはずだろうが!」
「__黙れって、言ってんだよこの、クソッタレがぁぁぁぁぁっ!」
猛が怒号を上げる。とうに限界を超えた体で立ち上がり、全身から魔力が吹き出していた。
(おいおい、全部燃やし尽くして死ぬ気かよ⁉︎)
将真は愕然としていた。
一体猛は、どこまで自分を追い込んでいたのだろうか。
だが、将真も下がるわけにはいかない。
猛が剣を生成して、膨大な量の魔力を纏わせる。それは、将真が得意とする、魔属性魔力を乗せた斬撃『黒断』によく似ていた。
将真も、同じように生成した剣に魔属性魔力を纏わせ『黒断』を発動する。
ガギッ!
ドガガガガガッ!
ギギギギギギギギンッ!
加速していく剣戟。
本来なら、高火力のせいで単発攻撃なのが売りの『黒断』だが、2人はその力を刀身に留めたまま、到底限界を迎えているとか疲れているとは思えないような、高速の斬撃を繰り出す。
猛が速度を上げていくごとに、将真も加速していく。余裕でついていく将真に対して、猛は見るからに辛そうで、全身の至る所から血管が切れて血が噴き出していた。将真の剣で傷ついたわけでもないのに。
(マズい、このままじゃマジで猛が保たない!)
焦る将真は、一気に勝負を決めるために、剣に留めていた魔力を放出して『黒断』を叩きつける。だが、同じようなことを考えていたらしく、猛も同じように、刀身に留めていた魔力を放出。
『う、おぉぉぉぉぉ__!』
雄叫びが重なり、2つの大きな魔力が衝突。剣はガラス細工のように、あっさりと粉々に砕け散った。
衝撃波で砂塵が舞う中で、猛が拳に魔力を溜め込む。残る力を全部乗せているのか、相当な魔力を感じた。
それに応えるためにも、将真は同じように拳を握って魔力を溜め込んだ。その結果、濃密な魔属性魔力が実態を持って将真の拳を覆った。魔力で作られた拳はあまりに大きく、人間一人分の大きさは優に超えていた。
猛が、将真に向かって突っ込んでいく。
少し遅れて、将真も同じように、猛に向かって駆け出した。
「将真ァァァァァッ__!」
「猛ぅぅぅぅぅっ!」
そして。
グシャアッ!
将真の拳は、猛の拳を腕ごと潰すだけにとどまらず、猛の全身を強く打ち付ける。
先ほど顔面を殴った時とは比べ物にならない、肉と骨がグチャグチャに潰れた感触が拳から伝わる。そんな気持ち悪さを気にする余裕もなく、拳を振り切った将真は、バランスを崩して正面から倒れこむ。
殴られた猛は、壁に打ち付けられた後、そのまま地面に落ちた。
猛は勿論のこと、将真もすぐに動ける状態ではないが、勝負は目に見えて決まっていた。
仰向けに転がった将真は、荒い息を上げながらも、拳を突き上げていった。
「__俺の、勝ちだ!」
「っ……」
猛は、ボロボロの体で起き上がろうとするが、ピクピクと動く程度で、完全に動けなくなっていた。
ようやく自身の状態をしっかり認識した猛は、盛大なため息をついた。精神状態が落ち着いたせいか、ただそれだけの行為でも、全身に激痛が走る。
「あぁ……、オレの負けだ……」
どれくらいの間、そうしていただろう。
あまり長くはないはずで、せいぜい数分のはずだが、疲労が溜まっているとはいえ、時間をかなり無駄にしてしまっただろう。
このまま眠ってしまいたいような衝動に駆られるが、早く先に行った仲間たちの元に駆けつけなければ。そしてその前に、猛を回収していかなければいけない。
そうして猛のそばまで歩いて、そのま担ごうとしゃがみこむ。
「……テメェの言う通りだよ」
その時、猛がポツリと呟いた。
「わかってたよ。真尋だけじゃねぇ。佳奈恵や美緒、他の連中といろいろやってる時は、それなりに楽しかった。真尋も当然大事だが、それだけじゃねぇってのは、わかってたんだ」
「……ハッ」
将真は、思わず口元を緩めた。
初めは、猛が言ったことの意味がわかっていなかった。何が、自分の言う通りだったのか。
だが、続きを書いてようやく理解を得たのだった。
そして将真は、敢えて少し、嘲るような態度で言い放った。
「そんな当たり前の事に気づくのが遅いんだよ、バァカ」
「んだとテメェこの野郎……」
いつもなら衝突して喧嘩になってもおかしくなかったが、お互いもう、そんな無駄なことをする体力は残っていなかった。
先を急ぎたい将真は、すぐに猛の腕を自分の首に回す。丁度、肩を貸すかたちだ。
そして将真が歩き始めると、猛が小声で問いかけてくる。
「……今、どう言う状況だ?」
「曖昧な問いだな……。元々役割分担されてたから、まあ遥樹、杏果、響弥、紅麗の4人が今、『外道』と戦っているはずだ」
「そうか……。それはちょいとヤベェかもな」
「何がだよ?」
予想していなかった返答に、将真が怪訝そうな声をあげて問い返す。
まさか『外道』が出鱈目な強さだとは思えないし、それなら今戦っているはずのメンバーなら、むしろオーバーキルなくらいだろう。
それなのに、一体何がマズいのか。或いは、吸血鬼の大群を相手にしている、佳奈恵たちの身を案じているのか。
だが、猛が不安視しているのは、やはり『外道』を相手にしている遥樹たちのようだ。
「あいつは追い詰めちゃダメだ。後ろにヤベェ奴が2人いた」
「……やばいって、どれくらいが基準なんだ?」
「……まず1人は、遥樹と同レベルくらいのやつだった。正直、かなり苦戦させられるんじゃねえか?」
確かに、遥樹に近い実力というのはかなりの難易度だが、あくまで近いだけで、越すことはないのだろう。加えて、『外道』と戦っているのは、体力が有り余っていたベストメンバーだ。
だが、もう1人の実力が余計に気になってしまった。
「確かにやばそうだが、じゃあもう1人はどうなんだ?
「……落ち着いて聞けよ?」
「お、おう……」
そして、猛が告げたもう1人の大凡の実力。それを聞いた将真は、驚愕に目を見開く事となる。
「推測だが、学園長よりも上の強さだ。オレらじゃ万に一つも勝つ可能性はねぇよ」
「ひぃぃぃ〜〜〜、なんでまだこんなにいるのぉ⁉︎」
「泣き言言ってる場合じゃないっすよ佳奈恵さん!」
吸血鬼のクローンたちと戦っていた莉緒たち。
本当なら、美緒の『コキュートス』を受けて全滅したはずなのだが、何と第二陣が遺跡の奥から現れたのだ。どこにそんなたくさんいるんだ、とは思うものの、戦わないわけにはいかない。幸いにも、第二陣で現れた吸血鬼たちはそこまで強くないようだった。
「それにしても将真さん、予定より遅いっすね。やっぱり苦戦してるのか……。2人とも、大丈夫なんすかね?」
「大丈夫だよ。将真くんはもちろん、猛も」
「……その根拠は?」
「猛自身が、教えてくれたから」
莉緒の言う通り、泣き言を言っている場合ではないのだ。先を急ぐために猛の横を通り過ぎようとしたその時。佳奈恵にしか聞こえていなかったのかもしれないが、確かに佳奈恵は聞いたのだ。
『__お前ら、無事で良かった』
珍しく落ち着いた状態の、猛の声を。
莉緒は納得がいったと、特に何も言及する事もなく、目の前の戦いに専念しようとする。
一方、美緒は心中穏やかではなかった。
「くっ、もう一度『コキュートス』を……」
「美緒ちゃん、さっき使ったばかりなんだから、あんまり無茶しないほうが……、うわっ!」
再び吸血鬼たちを一掃しようとする美緒を心配してリンが注意を促すが、むしろ危ないのはリンの方だった。すぐ近くまで吸血鬼が迫っていて、ギリギリのところで長槍で弾く。その際に、柄にひびが入ってしまったため、魔力で再生し直す。
話している余裕すらない。物量は相変わらず脅威のままだった。
「むぅ……。紅麗さん、そっちは大丈夫っすか⁉︎」
「ええ、問題ないわ。アイも一緒に戦ってくれているもの」
紅麗の言う通り、先頭で戦う彼女の隣では、アイも戦いに参戦していた。結局、「共に戦う」と言って聞かなかったのだ。
とは言えアイの能力は、相手の吸血鬼たちに対して非常に有効的だった。
相手の血を奪って武器を作り、攻撃によって飛び散った相手の血をまた吸収して、と同じ事を繰り返している。戦力としては申し分ない。紅麗も、こうして並んでみてみるとアイほどではないが、充分すぎるほどに善戦していた。
だが、そこで目を疑うような現象が起こる。
目の前で吸血鬼たちたちが、再び共食いを始めたのだ。しかも最悪なことに、遺跡の奥からは第三陣が現れつつあった。
「うわ、まだいるんすか……?」
「泣き言言わないっていったの、莉緒ちゃんでしょ。大丈夫、猛が戻るまで、死ぬ気はさらさらないんだから!」
強がりはしたものの、佳奈恵は今すぐにでも泣き出したい気分だった。
(何でこんな目にあうの⁉︎ 嫌だよ、怖いよ! お願いだから、早く来てよ__!)
将真は勿論、猛もきっと大丈夫。その希望にすがって、強がるのが精一杯なのだった。
最悪、美緒の『コキュートス』を使う手もあるだろう。だが、少し温存できたとはいえ、美緒が『コキュートス』を当てる回数は、一回と威力をかなり落とした状態で一回分のみだ。何があるかわからない以上、魔力不足で動けなくなるリスクを背負ってまで、迂闊に使ってもいられなかった。
第二陣の吸血鬼たちが共食いを終えてその数を約半分に生やした頃、第三陣の吸血鬼たちが合流。下手をすれば今ので、戦力差がひっくり返ったかもしれない。
みんなの心に影が差して来た、そんなタイミング。
突然、上の凍っていた天井が轟音と共に砕け散った。
「なっ……」
「え、え、何がおきたの?」
『おぉぉぉぉぉっ!』
煙が立ち込める中、驚く彼女たちが上げた声は、二つの雄叫びによって掻き消された。
ゴシャッ!
バギィッ!
遺跡内に反響する、あまり気分の良くない思い音に、中々慣れられず顔を顰めるが、とにかく少し戦力差が減った。
吸血鬼たちの間に動揺が広まり、動きが止まった。
そして、煙の中から現れたのは、待ちわびていた2人の少年だった。
「……うっし!」
「ハッ、ザマァねぇな」
「将真!」
「た、猛ぅ〜〜〜!」
紅麗と佳奈恵が、降って来た2人の名前を呼ぶ。リンも、将真の無事な様子を見て胸を撫で下ろしていた。
「よ、良かった……」
「悪い、待たせたな……って、あれ? 紅麗こっちにしたのか?」
「え、ええ。悪かったわね、急な変更して」
「……まあ、俺は別に構わないけど、遥樹たちは?」
「遥樹くんたち?」
将真の問いかけに首を傾げながらも、リンは遺跡の奥を指差して、彼らの居場所を示す。
「この先、さらに下の階層で『外道』と戦っていると思う」
「そうか、ありがとう。猛、急ぐぞ」
「あぁ」
「え、急ぐってどういう__」
「__ちょっと待って!」
少し焦るような表情をした将真は、猛に呼びかけて先を行こうとする。戸惑いを浮かべたリンの言葉を遮ったのは、猛の元に駆け寄る佳奈恵だった。
「ご、ごめん呼び止めちゃって……。でも、少しだけでいいから話したい」
「……わかった。俺は先行くから、猛もすぐに追いついてこいよ」
「……わかってる」
「しょ、将真くん、気をつけてね⁉︎」
「おう!」
心配するリンに笑って手を振ると、将真はかなりの速度で遺跡の奥へと消えていった。
猛と向かい合う佳奈恵。2人の会話を待たずに、将真の動きを視認した吸血鬼たちが動き出す。
「悠長なこと言ってる暇はないんすけどねー……。仕方ない、とりあえず猛さんと佳奈恵さんを守るっすよ!」
『了解っ!』
莉緒の咄嗟の指示に、紅麗たちは文句も言わずに従う。
「猛……」
「……悪かった」
「何が? 何が悪いと思ってるの?」
詰め寄る佳奈恵は、猛の内にある罪悪感も相まって、普段よりも迫力があるように感じた。今は正直、何を言っても怒らせてしまう気がする。
それでも、黙っていては埒があかない。悩んだ末に、猛はボソボソと口を開いた。
「……お前らを裏切って、傷つけたこと、とか……」
__スパァンッ!
佳奈恵のビンタが、猛の頬を強く打ち付け、遺跡内に音が鳴り響く。
一瞬何が起きたかわからず、猛は勿論、話の中身が聞き取れていなかった莉緒たちも驚いて硬直していた。
佳奈恵がここまで怒ったことが、今まであっただろうか。恐る恐る佳奈恵を見ると、唇を引き締めて、目に涙を溜めて、ぷるぷると震えていた。
「違う……、そんな事じゃない。そもそも、そんな事してないじゃない!」
「……じゃあ、何なんだよ!」
猛は、ここに来るまでずっと罪悪感に苛まれていた。一体、どんな顔をして会えばいいのか、わからなかった。その自分の悩みが、罪悪感が否定された。佳奈恵が、何を怒っているかなんて、そんな事知るはずもなかった。
声を荒げる猛。佳奈恵はそんな猛の手を取って、強く握りしめた。
「……佳奈恵?」
「……あんまり、心配させないでよ……っ」
「…………悪かったよ、本当に」
顔を伏せる佳奈恵。地面にはポツポツと水滴が落ちていた。
まさか、心配されているとは思っていなかった猛は、一瞬佳奈恵の言葉を理解できずにいたが、理解すると同時に、申し訳なく思った。
嫌われてもおかしくない。そう思っていたのに。
「……心配してくれて、ありがとな」
らしくもない言葉が、自分の口から出た。自然と出て来たその言葉に、自分でも驚いていたが、気恥ずかしさとかはなかった。
次に佳奈恵が顔を上げた時、涙目である点は変わっていなかったが、表情は強気になっていた。
「……将真くんと、合流するんだよね?」
「ああ。急がなくちゃみんな危ねぇ。だから、俺が先に行ったら、お前はあいつらに、今すぐ逃げる準備をするように言ってくれ」
「うん、わかった。……ちゃんと、帰って来るよね?」
「…………ああ、そうだな」
正直、生きて帰れる保証はないかもしれない。
もし帰ったところで、自分の体がこれ以上保つのかも、自分の処遇がどうなるかもわからない。
猛は、曖昧な言葉で濁した。将真なら、根拠のない自信で、絶対に帰ると約束できたかもしれないが、猛はこういう時、優柔不断なのだ。
「……行って」
「……おう」
「それで、絶対に帰って来なさい!」
先ほどの確認とは違う、命令に等しいその言葉は、猛に強く突き刺さる。いつもならハッキリと答えられない猛だが、ここでいい加減な返事をするようでは、いつまでも成長しないままだ。
猛は、先を急ぐ。見送る佳奈恵に向かって、一言残して。
「__絶対に、帰って来てやらぁ!」




