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あの日――『暗花屋』に行った日――から、まだ二日しか経っていないのに。
松野の野郎は、また『暗花屋』に行こうと言い出した。今日はもともと、大学の講座がない日だったから、暇だったと言えば暇だったけど……。
「こんな短期間で行くところじゃねえだろっ」
「いいんだよ、ほら〜♪」
まあ、こいつと合流してしまった時点で、引きずられるのは決定していた。勝手にひとん家に上がりやがって……。母も母だ、こんな奴、家に上げんな……。
細い路地に入ったところで、俺の手を痛いほど引っぱっていた松野が、急に立ち止まった。
「ぶっ!?」
唐突過ぎたから、勢いあまって彼の背中にぶつかってしまう。
「おいっ、なんなんだよ」
声を荒らげて言うも、松野は一切反応なし。呆気にとられている、という感じだ。
「おいっ、まつ――」
「守っ!?」
これまた唐突に、前方から声がした。守、って呼ぶってことは……松野の知り合いだよな……?
松野の肩からひょっこり顔を出すと、そう遠くないところに、数人の子ども二列に並ばせて引き連れている、ひとりの少年がいた。ずいぶわ整った顔立ちをしていて、驚いた顔も、なかなか愛らしい。
「尚……」
松野の口からぽろりと、つぶやくような声が漏れた。一度も、聞いたことがない名前だ。
「なおにーちゃん?」
「おにいちゃん、おかいものぉ〜」
「はやく帰って『雪にだいふく』食べたい!」
「『雪にだいふく』!」
尚と呼ばれた少年の後ろで、小学校低学年くらいと思われる男女の子どもたちが、そう騒ぎ立てた。尚くんは、そんな子どもたちをなだめ、小走り気味に、こちらに歩み寄ってくる。
『おにいちゃん』ということは、弟や妹ということだろうか。
…………頑張ったな、ご両親……。
尚んは松野を見て、にっこりと笑う。
「いまから?」
「おう。でも、おまえいないみたいだし、待つわ」
「分かった、悪いな。ゆっくりしていってくれ」
え? どういうことだ?
俺はひとりわけが分からず、頭のなかを「?」でいっぱいにする。いまから行くのは『暗花屋』であって、尚くんの家ではないはず……。
ふたりは俺を置いてけぼりにして話を進めていく。
そして、ぴたりと会話を止め、こっちに気づいたのか、俺に会釈をしてくる。
「どうぞ、ごゆっくり。後から参りますので」
よく分からん。
〇 ● 〇
《姐さん》の艶やかな髪は、ウィッグとかじゃなく、《姐さん》自身の髪だった。手入れをしっかりしているんだなっていうのが、髪を梳いていると、よく分かった。
いつものように、開店前の身支度として、《姐さん》のの髪を梳いていると、ときおり、襟足が見えて、どきりとした。
「きもちいぞ」
「へっ?」
思わぬことばに、素っ頓狂な声をあげる。こちらを振り返った《姐さん》は、大切なものを見るような目を、向けてくれた。
「おまえの櫛。いい感じ」
「そう、ですか? そう大して変わらないかと……」
「いいや。なんていうのかな、こう……」
聞いていて心地のいいバリトンの声でつぶやき、あごに手を当てて考えはじめる《姐さん》。こちらも手を止めて、《姐さん》からのことぱを待つ。
やがて、《姐さん》はちいさく声をあげた。
「なんか、慕ってくれてるのが、伝わってくる」
「へっ!?」
予想外の単語に、心臓が飛び跳ね、からだがのけ反った。びっくりし過ぎて、櫛が宙を舞いかけた。
こちらの反応がよほど面白かったのか、《姐さん》は口元に手を添え、くすくす笑い出す。
「驚き過ぎだって」
「いや、だって……」
「面白いけど、もうすぐ《旦那さま》がいらっしゃる。しっかり、身なりを整えないと。髪をお願い」
「あっ、はい。すみません……」
「いいから。よろしく頼むよ、禿『藍花』」
ゆったりとこちらに背を向け、しゃんと背筋を伸ばす《姐さん》。
あらゆる場面を経験してきたこの方の背中は、誰の背中よりも、凛としたものだった。さまざまな思いを、背負っていた。
たくさんの感情が、その背にはある。
喜びも。悲しみも。怒りも。切なさも。楽しさも。
このひとは知っていた。決意をもっていた。
〇 ● 〇
「よく寝ているね、拓也にいさん……」
「きれぇー……」
「ばか、おすなよ。にいさんにきづかれるだろ」
「物音を立てちゃ駄目だからね。にいさんが起きちゃう」
もう気づいてるし、起きてるよ。なんかごめんね。
襖の奥の弟たちに、心のなかで謝罪する。いま目を開けて起きれば、こいつのせいで目を覚ましただの、あいつのせいだだのと、喧嘩がはじまる。それは、こちらの望むところではない。
しかし、きっとあと二時間もしないうちに、開店時間を迎える。どちらにせよ、十分以内に起きなければ、開店に響いてしまう。
「疲れてるんだね、拓也くん……」
「そりゃあ、そうだよね。お客さんの相手して、勉強して、お稽古もして……」
「この間、楼主と温室の植物の手入れしてるの、見たよ」
「たくやにいちゃん、はたらきもの……」
「一日くらい、休めばいいのにね」
「外野は黙ってなさい」
「「「アキパパっ」」」
(アキパパ……)
この呼び名は、何度聞いても笑いを堪えるのにひと苦労だ。
楼主でもあり、我らの父親代わりでもある彼の下の名前が昌だから、『昌パパ』を略して『アキパパ』なのだろうが……。
そのクールな見た目に、あまり合わな。
アキパパこと昌は、ため息混じりに言う。
「あれが、あいつの望むことなんだから。なにも言うな」
「むー……。じゃああたしも、おにーちゃんみたいに、はたらきものになる!」
「おれも!」
「あたしもー!」
さっきまでこそこそしていたのが嘘のように、襖の奥が騒がしくなる。
――働き者に、か……。