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俺の家から、小一時間。東京郊外に建っている二階建ての日本家屋を前に、友人・松野は、にやにやしていた。
「なんなんだよ、人の至福の日を奪いやがって」
「まあまあ。そう言うなって、町崎くん」
ほんとにムカつくな、こいつ。ぶん殴ってやろうか。
――町崎優斗。9月9日生まれの19歳、大学1年。基本的な俺の情報は、こんなもん。
松野については、あれだ。同じ大学で、サークルも一緒っていう、そんな感じ。気は合うし、一緒にいて気楽だから、なにするにも、だいたいセット。
が、今回はちょっとやそっとじゃ許せん。
日曜日というのは、俺にとって至福の日だ。
家族が家から誰ひとりとしていなくなり、ひとりっきりになれる。つまり、どれだけ寝ても、誰にもしかられない。
睡眠を愛している俺からしたら、もうパラダイス。誰も触れてはいけない、聖域なのだ。
なのに、松野はその聖域に、悪びれもなく上がり込みやがった。もう打ち首だ。
「ほら、機嫌なおせよ。入ろうぜ」
ぐいぐい腕引っ張ってきやがる。普段の愛嬌のある松野の姿を思い出し、リードを引っ張って先を急ぐ、大型犬を思い浮かべる。
渋々着いていき、中に入ると、すぐ声をかけられた。
「守か」
「おっす! 毛利さん!」
元気よく松野が挨拶したのは、ラフな服装をした、ひとりの男性。すらりとした身体で長すぎない黒髪。黒渕の眼鏡の 奥で鋭く光る瞳は、青っぽい色をした黒目。顔立ちも綺麗だし、ハーフだったりすんのかな。
それより、いま、松野のこと……。
(守って、下の名前で呼んだな)
仲いいんだろうか。松野はいつもどおり、屈託のない笑顔だし……。
どういう関係だ?
男の人の視線が俺をとらえ、彼の口角がくいっと上がった。
「初めての人……だよな?」
「えっ。あ、はい」
にっこり笑いかけられると、なんか分かんねえけど、動悸がはやくなる。別に、俺はゲイじゃねえんだけど……。
「俺はこの店のオーナー、毛利昌だ。よろしくな」
「えっと、町崎優斗、です……」
「堅くなるなって。肩の力抜いて」
くすくす笑いながら、毛利さんはそう言ってくれる。
松野がにやにやしながら、俺を肘で小突く。
「なによ、優斗。惚れちまった?」
「ばっ、馬鹿言え!」
かあっと顔が赤くなる。松野は相変わらずにやにやしてて、その後ろで、毛利さんが困ったように笑っていた。
な、なんてこと言いやがる、松野……ッ! 松野ならあり得ても、俺はないっての! まあ……別に、惚れてもおかしくないと思うくらい、綺麗なひとではあるけど。
「俺に惚れても、期待には添えないからな。で、松野。いつもどおりか?」
「おう。料金は俺が持つわ」
「分かった。じゃあ、前払い」
松野がにかっと笑いながら、財布から万札を二枚出し、毛利さんに手渡す。
えっ。前払い?
眉間にしわが寄ったのか、俺の顔を見て、毛利さんがいままでとは違う、含みのある笑みをこぼした。
「安心しろ? 満足してもらえなかったら、金は返す」
「っつーわけだから」
まったく違和感も疑いの色も見せない松野を見てると、こいつの将来が不安になる。詐欺に遭ったりしないだろうか。
毛利さんの笑みが、さきほどから見せていた柔らかいものに戻った。ポケットからチャリッと音をたてて取り出したふたつの鍵を、俺たちに渡してくる。
「隣同士にしといてやったから」
「一緒じゃ駄目なのか?」
「阿呆。ここに初めて来る人に、『紅花』は刺激強過ぎだろ」
「ま、まあな……」
頬を掻きながら、ちらっと、松野がこっちに視線を向ける。想定外のことが起こったとき、よくこうやって、俺に救いを求めてくる。
が、今回に限っちゃあ、救い舟は出せねえ。この中では俺が一番、ここでなにをどうすればいいのか、知識がねえし。
また、くすくすと笑ってから。
「ほら、はやく行けよ」
松野にそう促す。ちょっと考えこんでから、松野はくちびるを尖らせながら、こくんと頷いた。よく分からんが、俺もその後ろに、ちょこちょこついていく。
○ ● ○
階段を上り切り、廊下を少し歩いたところで、松野が鍵を差し出した。
「……へ?」
「まあ、別々になるのは心細いかもしれねえがな。上手くやれよ」
無理やり俺の手に握らせる。
勝手に親指をびっと立ててから、松野は俺に背を向け、鼻歌なんか歌いながら、ある一室の鍵をあけ、中に入っていった。
廊下に響く、がちゃんと、ふたたび鍵をかける音。
……………………はああぁ?
え、ほんとなんなの、あいつ。上手くやれよって、なにを上手くやんの? つか、この店なんの店なわけ。え、なんでわざわざ鍵とかついてんの。
ちょ、おい。
(不健全なところに片足を突っこんじまったか……?)
直感だけど、そんなふうに思う。
……でも、チャレンジしてみてから言うことだよな、こういうのって。
俺の目の前には、なんの変哲もない、ありふれた格好をした扉。重そうなわけじゃない、鍵がついてる、木製の普通の扉。
…………。
(や、やるっきゃない……のかも……)
文句は体験してから言おう。もう、どうにでもなれ。
心臓バクバク言わせながら、半パニック状態で鍵を差しこみ、ゆっくりと施錠する。
うわあ……緊張半端ねえ……!
がちゃん、という音に、身体がびくっと跳ねる。動悸も、尋常じゃないくらい速くなってて。
ドアノブに手をかけ、深呼吸を二回してから、扉をゆっくり開けた。
○ ● ○
「ふふっ。そう。オツでありんすね」
「そ、そうですかね……」
「敬語とってってもいいって、何度も言ってるではないでありんすか」
隣でにこにこしている女の子は、なぜかかな~り距離が近い。うん、なんだろうこれ。
まじでなんなんだよ、これ。
――扉の向こうに広がっていたのは、広い、畳の敷き詰められた部屋。
そして、奥に座る、ひとりの少女。
艶やかな黒髪を高いところで結わえ、あまった髪を垂らしている。豪奢な着物に、鮮やかに燈籠の灯を受ける簪。
すべてが、綺麗で、煌めいていた。
そして、めちゃくちゃ色っぽい。距離が近い。
どうなってんの、これ。
(え、これって、まさかとは思うけど……)
――風俗――。
そんな言葉が、脳裏をよぎる。
うわあああああああ、嘘だ、嘘だろっ!?
いやいやいや。さすがにそんなとこに、松野だって誘ったりしねえだろ。つか、松野ってバイなんだっけ? 両方イケるんだっけ?
あれ? え、え、え?
「? どうかしたでありんすか?」
喋り方も、なんか不自然っつーか……。
……なんか、昔のことをテーマにしたドラマとかでよくある喋り方だ。あれだよ、あれ……。
…………あ。
(江戸とか、吉原とか、花魁とかだ……)