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斜読三国志  作者: amino
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鳳統を得て蜀を望む

 馬超と曹操が争いを演じている間に、劉備の方は孔明の進言に従い、気に入らないが役に立つ人物を登用し、国力を増強していた。諸葛亮の勧めたこの登用によって、鳳統や、劉備らに偏見を抱く蒋琬、劉巴ら、能力のある人材たちが続々と参入する事になる。特に、この時点で鳳統が参入したのは大きい。これにより荊州を諸葛亮、益州侵攻を鳳統と、荊州で名声の高い2大名士、伏龍と鳳雛が役割を分担できるようになった。劉備一党が西方侵攻の準備と荊州の支配体制を整える間に、西の方で先に戦乱が起こった。益州北部にある漢中の張魯が、益州中部を支配する劉璋の地に侵攻したのである。張魯の侵攻を受けて、益州の派閥は2つに分裂した。劉璋直属の臣下と言える東州兵と、自立した名声や地盤を持つ土豪、名士の派閥である。当初、豪族の張松らは曹操への帰順を画策していたが、使者の張松が冷遇されたことによりこれを断念した。益州在住の豪族たちは、益州の牧、劉璋では張魯の侵攻や、曹操からの軍事的侵攻を乗り切れないと判断し、張松、法正を筆頭に、劉備を君主に戴こうと画策し始めた。張松らを筆頭にした名士、豪族らは続々と劉備に内通し始めた。

劉璋は張松の意見に従って法正を使者として派遣し、劉備軍を対張魯戦闘の援軍として受け入れた。しかし、劉備軍は張魯軍とは一向に戦わないばかりか、兵と物資を要求した。最初は兵と食糧を快く送ったものの、次第に要求はエスカレートしていく。さらには東方で孫権軍と曹操軍が戦闘状態に入り、劉備は、これの援兵と物資を要求した。いい加減要求ばかりしてくる劉備軍に怒った劉璋は、厳顔、黄権ら臣下の諫言もあり、弱兵と僅かな物資しか送らなかった。これを違約として劉備軍は掌を返したように益州に侵攻する。手始めに葭萌関にいた楊懐と高沛を宴席に誘ってだまし討ちにし、孤立した葭萌関を落とすと、黄忠を先鋒に立て、軍を南にかえして成都の出入り口となる綿竹に進軍した。しかし、奇襲を受けたとはいえども、さすがに益州の山険は非常に攻略しにくく、その上、背信行為に憤った将兵らは強かった。綿竹には劉璋自ら兵を進め、益州の中枢である成都への入り口を固めると、一挙に打って出てきた。張任、鄧賢、劉カイ、冷苞らが軍をだし、李厳が綿竹を守るという益州軍の名将たちが総力を挙げた物だった。ほぼ五分五分の戦だったが、劉璋の息子劉循、益州きっての名将張任らの活躍もあり、綿竹の城攻めで鳳統が流れ矢に当たって戦死するに至る。戦争は消耗戦の様相を呈していたが、戦争準備の整った荊州からの諸葛亮、張飛らの援軍を得て形勢は一気に劉備軍有利に変わる。荊州軍は益州南部から侵攻して江州、江陽を落として厳顔、黄権らを下し、南から成都を脅かした。ここに至って綿竹にいた劉璋軍は李厳を綿竹に残して成都まで撤退した。しばらくして綿竹は陥落し、成都は劉備軍に包囲された。その上、西涼の馬超が劉備軍に参加した。事ここに至っては勝ち目がないとして劉璋は降伏し、劉備軍は益州を平定する事に成功した。

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