冀州と宦官
同じ頃、冀州では盧植軍が張角本軍を相手にして連戦連勝していた。比較的乱雑な編成と運用をされる黄巾軍本隊を圧しているのは、盧植自身の才能もさることながら、彼の門弟を私兵としてしいた事が大きかった。士気も戦闘力も高い彼らを重要な場面に投入する事で、巨大な兵力を誇る黄巾軍との戦力差を覆していた。この中には、後の蜀帝である劉備玄徳も混じっている。魚鱗の陣で敵本陣を打ち破ったかと思えば、翌日には隊を複数に分けて分進合撃を行い、兵力に劣る敵の堅陣を包囲して少ない被害で要衝を奪取した。大軍を展開できる黄巾党に有利な地形では、方円の堅陣を敷いて敵を疲れさせ、夜襲で打ち破った。盧植は順調に黄巾賊を鎮圧していたが、問題が起きたのはあと一歩まで張角を追い詰めた時であった。この日、地形と戦略的な理由から、張角本隊の大軍と正面から交戦をしていた。張角の本隊だけあって布陣も理にかなっており、いかな盧植将軍といえども、苦戦を余儀なくされていた。物量に頼って全正面で攻勢を行う黄巾軍は、各軍を数段に分けてローテーションを組む消耗戦を挑んできた。これに対して盧植軍は精鋭の私兵部隊を用いた機動防御に加え、野戦築城と内戦作戦によってこの消耗戦を有利に進めようとしていた。
この重要な戦の最中に、小黄門左豐が視察と称して現れたのだ。本来の“黄門”は中国皇帝に近侍して勅命を伝える職務であったが、この時は宦官のトップである「十常時」の代理として、賄賂の受領目的で訪れていた。後宮で皇帝に仕える男の事を宦官と言う。宦官には子を残す身体的な能力が無かった。漢朝の国教である儒教から言えば、子孫を残すための能力を失うのは親不幸であり、親孝行は忠義と並んで重要視されている考えなので、宦官と言う存在は儒教を学んでいる貴族、知識人たちにとっては、とても受け入れられない存在であった。にもかかわらず、ホルモンバランスの崩れと運動不足からぶくぶく太った宦官に、誇りも何も無く賄賂を贈り、媚びへつらうのは、皇帝への報告は彼らを通して送られるからであり、皇帝の代理としての権限を振るっているからであった。
伝令の兵が告げる。
「盧植将軍、小黄門左豐様が視察においでになりました」
「そうか、通せ」
「はっ」
盧植は案内されてきた宦官に問う。
「何用でございますか」
「貴殿の働きの視察に来た。貴殿の働きがいかなるものか、陛下にお伝えしようと思いましてな。全ては貴殿の心得次第」
「某には裏も表もございませぬ。存分に御視察し――」
宦官が甲高い声で笑いながら口を挟む。
「鈍い男じゃのうその方は。私は十常時の使いですぞ。何ぞ珍しい物でも渡しておけば、後々出世に有利になりますぞ」
ぬるりと差し出された白い掌に嫌悪感を覚えた盧植だったが、それをこらえて返事をする。
「軍中には無駄な物資など一切ござらぬ。用事がそれだけならお帰り願おう」
そう言って盧植将軍は宦官を追い返した。頬の肉をぶよぶよさせながら陣営から出ていく宦官はこう言った。
「忠告しておきますぞ。私が受け取る賄賂は上役に、その上役からさらにその上役へと渡っていきまする。貴官は久しく朝廷から離れていたから知らないのかもしれないが、朝廷に居る者たちも、官人で無くとも、挨拶と称した賄賂で人間関係も職務も成り立っておりまする。今のご時世、清貧を保つのは難しいでしょうなぁ。ま、私を追い返しても、第2第3の私が現れましょうぞ。覚悟なされよ」
彼の言葉通り、それからも視察と称して賄賂を要求しにくる宦官に対して、盧植将軍は軍令によって対応した。この素っ気ない対応をしたのが、名士層の代表格たる盧植であった事が強い逆恨みを招いた。この事を恨んだ宦官の十常侍という政治派閥によって皇帝に讒言され、皇帝の反対にもかかわらず、結局宦官たちに押し切られる形で解任の勅許が下った。皇帝の権力は往時のごとく強力な物ではなく、皇帝、宦官、外戚、官吏、豪族らによって分割されていたのが浮き彫りになった。天下を動かすには、分割された権力の再集中が必要であった。そしてそれには、各政治派閥の政治的、軍事的な反発が予想された。盧植更迭の後、西涼の猛将董卓が派遣された。
盧植は山険を利用して布陣していたが、董卓は一気に片をつけてしまおうと、広い平野部に陣を敷きなおした。黄巾軍は大軍の利を生かせると見て、これに対するように平野部に布陣した。董卓は中央に歩兵、左翼に西涼騎兵、右翼に官軍騎兵を配した一般的な陣形を取ると、黄巾軍に対して攻撃を開始した。董卓率いる左翼の西涼騎兵は奮戦し、黄巾軍の左翼を討ち破った。しかし中央、左翼の兵はこれに追随できずに苦戦する。さらに、黄巾軍が戦場後方に配置してあった膨大な予備兵力を左翼に投入すると、西涼騎兵隊は孤立した。西涼騎兵隊は人間の海に埋め尽くされた戦場でおぼれそうになり、突進の衝力を失い、機動力を生かせずに苦戦を余儀なくされた。こうして全正面で苦戦し始めた董卓軍は撤退を余儀なくされ、黄巾軍の追撃により大きな損害を受けた。明らかに董卓は、盧植よりも指揮官として劣っていた。指揮官の質が下がり、盧植配下の義勇軍もいなくなり、士気の下がった官軍は呆気なく、黄巾鎮圧まであと一歩のところだったにも関わらず敗北する。敗因の大きな要因は、盧植と董卓の指揮官の戦闘適正であっただろう。盧植の率いていた官軍は陣地戦に適した歩兵中心の諸兵科連合であり、西涼軍を率いて来た董卓は騎兵部隊を率いた平野部での機動戦闘が得意であった。董卓がいきなり歩兵中心の戦術を採ろうとしても、混乱が生じるのも当然であった。それでも、西涼より連れてきた獰猛な騎兵部隊は血路を開いて決定的な敗北を防ぎ、得意の機動戦闘によって一矢報いる事もあった。しかし、盧植の更迭によって黄巾賊を一挙に制圧する時は失われたのである。




